161027養和の大飢饉と元暦の大地震~五大災厄 その三」

 

「治承4年の出来事」  福原遷都の失敗・南都焼き討ち・以仁王の令旨と源氏挙兵

平清盛が源氏への不安から強行した福原(神戸)への遷都は完全な失敗に終わった。しかし京都に戻った清盛は、局面の打開に努める。治承4年、平家と対立関係にある南都の有力寺院打倒の侵攻であった。平重衡を総大将とする大軍が

南都焼討を行う。この為、東大寺は大仏殿を含め焼失。又この年には、以仁王の令旨を受けて各地で源氏の挙兵が

相次ぎ、騒乱の年となった。

養和(ようわ)の大飢饉」

養和元年(1181年)に発生した飢饉であり、源平の争乱(治承・寿永の乱)の最中に発生した。「方丈記」には下記されて

いる。

また、養和の頃だろうか。二年もの間、世の中は飢饉に見舞われ、みじめな有様になったことがあった。春や夏に日照り、或いは秋には台風や洪水など、良くない事ばかり続いて、五穀はことごとく実らず、唯空しく、春に耕し、夏に植えて、空に刈り取り、冬に穀物を納めるときの、あの浮かれた喜びはなかった。

 

鴨長明は京都の死者42300人と記し、仁和寺の高僧・隆暁が死者の額に「阿」→梵字を書いて回り、極楽往生を祈ったと言われる。その状況は下記の様であった。

憐みを催すようなこともあった。より愛情の深いものの方が、必ず先に死す。その訳は、自らは次にして、相手を愛おしく思う為に、偶々(たまたま)得た食べ物でも相手に譲るからである。親子ならば、親こそ先に死ぬのであった。母親の命の尽きたのも知らずにあどけない子供がなお乳を吸いながら母親にしがみついている事さえある

「平家の滅亡」

・清盛の死    治承5年

・平家の都落ち 寿永2年(1183年)、木曾義仲 入洛

・木曾義仲 義経に敗れ敗死

・一の谷の戦い・屋島・壇ノ浦→平家滅亡 寿永4年

元暦(げんりゃく)の大地震」

「また同じ頃だろうか。おびただしく大地の揺れ動くことがあった。これはこの世のこととは思えない。山は崩れ、川を

埋め、海は傾いて陸地を浸してしまう。土は裂けて、水は吹き出し、岩さえ割れて、谷へ転げ落ちる。船は波にもてあそばれ、道をゆく馬さえふらついている。都の周囲にある物で、一つとしてそのままではいられなかった。ある物は崩れ、ある物は倒れてしまう。

塵と灰は立ち上って、盛んに上がる煙の様である。家の壊れる音はまるで雷のように響き渡る。家の中にいれば、

たちまち潰されそうになる。走り逃げれば、地面が割れ裂ける。

このように、夥しく揺れることは、暫くして止んだものの、その名残は暫く絶えなかった。揺れない日はなかった。十日、

二十日ほど経てば、漸く間隔も遠くなり、或いは日に四から五度、或いは二から三度、もしくは一日おき、二三日に一度などと、おおよそその名残は、三ケ月ほどは続いたであろうか。」

 

「方丈記」は日本初めての災害文学と言われる。災害の状況をここまで詳しく正確に記述した作品はない。これは鴨長明の大きな特徴である。

 

「コメント」

戦乱・飢饉・地震・疫病すべての災厄が揃ったのがこの頃。それでも人々は生き抜いて来たのだ。その中で源氏平家は覇権を争っていた。逆にそういう不安な状況であったから、争いが絶えなかったともいえるのか。まさに諸行無常。