161103「鴨長明の前半生

「鴨長明誕生」

鴨長明の前半生を追いかけてみる。1155年~1216年。生誕の翌年(1156年)に保元の乱(崇徳上皇・藤原頼長・源為義⇔後白河天皇・藤原忠通・平清盛、源義朝)。続いて1159年に平時の乱(藤原信西・平清盛⇔藤原信頼・源義朝)で、平氏側の勝利。この後、源平の大争乱となっていく。

下鴨神社の禰宜の次男として生まれるが、20歳の時、父死去

「現代語訳」

わが身は、はじめ父方の祖母の家屋敷を引き継いで、長らくそこに住んでいた。その後、事情があって縁故を失って身は落ちぶれてしまい、懐かしい思い出は数多くあったが、とうとう住み続けることもできずに、三十歳を過ぎて新たに思い立って、一つの庵を構えた。これは以前の住まいと比べれば、十分の一の大きさだった。ただ自分が起居するだけのもので、しっかりした家屋を造ったのでは

なかった。何とか土塀だけは築いたが、門を建てるだけの資力がなかった。竹を柱として、中に牛車を入れておいた。こんなふうだから、雪が降り、風が吹くたびに、危うくないわけでもない。 

場所が賀茂川の河原に近いため、洪水の災害も多く、盗賊に襲われる心配も多かった。

「解説」

この頃の鴨長明の活動は、歌人としての修業であった。

・「千載和歌集」  後白河法皇の勅撰集、藤原俊成撰。

 ここに入選、大変な名誉で、一人前の歌人と認められた。

「思ひあまりうち寝る宵の幻も波路を分けて行きかよひけり」

   恋しさのあまり、ふと眠り込んだ夢で、私は波を越えて恋しいあの人の元に通うのだ。

・勅撰集というのは、天皇が宣旨で行う国家的事業。25首が、後の勅撰和歌集に入選している。

・「百首歌」後鳥羽院で、31名の歌人の一人として選ばれる。

 「ふるさとに通う眺めの道閉じて心もかすみ春の山住み」

  →ふるさとを見ようと思うけれども、霞に邪魔をされて見ることが出来ない。

 「これも又なににたとへむ朝ぼらけ花ふく風のあとのしらなみ」

  →沙弥満誓  「世の中を何に例えん朝ぼらけ漕ぎ行く舟の跡の白浪」の本歌取り

 

「コメント」

下賀茂神社の禰宜の次男として、何不自由なく育ったが、父の死と身内との争いで敗れ、落胆して

遁世。しかし庵には、牛車を置く場所もあるという余裕。

何か、我儘な文学青年を連想する? 古文もこの辺(鎌倉前期)まで来ると、読みやすくなってくる

ものだ。