文学の世界「鴨長明と方丈記~波乱の生涯を追う」            

                       講師 浅見 和彦(成蹊大学名誉教授)

 

161124「方丈の草庵

下鴨神社摂社河合神社神官になれなかった長明は、落胆の余り和歌所を飛び出してしまう。 

その後東山から大原へと居を変えていく。60才の頃、庵を作った。方丈記によれば以下のように・・ 

「現代語訳」

露の消える様な儚い60代に、余生を託すような住まいを構えた事がある。旅人がたった一晩だけのために宿を無駄に設けて、老いた蚕が自分の入る為の繭を無意味に作っている様なものだ。この

小さな家は、中年の頃に賀茂の河原近くに建てた庵と比べると、大きさはその百分の一にも及ば

ない。人生について色々と言っているうちに、年齢は次第に一年ずつ増えていき、住まいはどんどん狭くなっていく。その家の構えは、世間一般の家とは全く異なるものだ。広さは一丈四方(4畳半程度)に過ぎず、高さは七尺にも満たない。建てる場所を選ばなかったので、土地をわざわざ購入して家を建てた訳ではない。土台を作って、簡単に屋根を葺き、建材の継ぎ目には、解体や増築に役立つ

掛け金を掛けている。もし、その土地で気に入らない事があれば、すぐによその場所に引っ越すためである。その家を建て直すのにどれだけの面倒が掛かるというのだろうか、大した手間はかからないのだ。解体した後の材料や道具を車に積んだところで約2台分に過ぎず、車の費用を支払う以外には、全くお金が掛からないのである。今、日野山の奥で俗世間から離れて生活している。

この家の東側に小さい屋根を三尺ほど差し出して、その下で木の枝を折って炊事をする場所にした。南側には竹で縁側を造って、その西の端には仏様へのお供え物を置く閼伽(あか)棚を設けた。部屋の中は、西側を北へ行ったところで、衝立で仕切りを作って阿弥陀仏の絵像を安置した。阿弥陀仏の近くに普賢菩薩の絵像を掛けて、その前の経机には法華経を載せている。部屋の東の端には、

伸びた蕨の穂を布団の代わりに敷き詰めている。南西には竹の吊り棚を造って、黒い皮を張った

竹で編んだ箱を3つ置いた。和歌の書物、音楽の書物、『往生要集』からの抜粋を、それぞれ3つの

皮籠の中に入れているのだ。その近くには、折りたたみ式の琴と組み立て式の琵琶を一張ずつ立てかけている。いわゆる、折り琴、継ぎ琵琶と呼ばれているものである。仮住まいの小さな家の様子は、この様なものであった。

 

この様な庵を日野という所に作った。京都と宇治の中間。近くに醍醐寺・宝界寺がある。

  醍醐寺  京都伏見。952年造立の五重塔。三宝院は書院・庭園・襖絵で有名。秀吉の醍醐の

  花見。

  法界寺  伏見にある真言宗の寺。本尊阿弥陀如来は平安美術の代表の一つ。日野氏ゆかり。

         この寺の近くに長明が庵を作った跡を表す「方丈石」というものがあるが、

         さて真偽は?

「発心集」

鴨長明作の鎌倉初期の仏教説話集。仏の道を求めた隠遁者の説話集で、太平記・徒然草にまで

影響を与えた。

その中に、知り合いから反故を貰ってきてその裏に家の設計図を何度も書く人の話が出てくる。

てもしない家の設計図を書くのを、人々は馬鹿馬鹿しいとして笑った。しか長明は笑わなかった。「紙の上の家なので、火事にも合わないし風雨にもさらされない。心を遊ばせるにはこれで不足は

ない」と述べている。この発心集には長明の様な隠遁者が数多く登場する。これは長明の自画像

なのである。

 

「この考え方の影響」

・千利休

庵は小さくても不足はない、こういう考え方は茶道の世界に引き継がれていく。千利休「南方録」、

これは弟子が利休の言葉を書き留めたものとされている。しかし現在では内容に色々と矛盾点がり、江戸時代の偽書とされている。

この中に「草の小座敷が良い、藁屋根の家で雨が漏らなければ、食事は飢えぬ程度。これは仏の

教えであり茶道の目指すところである。」と言っている。方丈記では「食事は命を保てればいい」と。

この様な考え方が茶道の考え方に繋がっている。

・徒然草123段

人間にとって絶対に必要とされる物、第一に食べる物、第二に着る物、第三に住む場所である。

人間にとって大事なのは、この3つに過ぎない。餓えなくて、寒くなくて、雨風がしのげる家があるならば、後は閑かに楽しく過ごせば良いのだ。但し、人には病気がある。病気になると、その辛さは堪え難いものだ。だから医療を忘れてはならない。衣食住に医療と薬を加えた四つの事を求めても得られない者を貧者とする。この四つが欠けてない者を、金持ちとする。それ以上のことを望むのは、奢りである。四つの事でつつましく満足するなら、足りないものなどあるだろうか。

・松花堂昭乗 しょうかどうしょうじょう

長明の思想は江戸時代にも引き継がれている。江戸時代初期の僧侶(茶人・画家)で文化人であった。石清水八幡宮の僧侶。方丈記を読んで、京都府八幡市、岩清水八幡宮のある男山の東麓の

泉坊という僧坊に、草庵を建てた。

今は松花堂庭園美術館となっている。彼は農家の種入れ箱にヒントを得て、仕切りのある道具箱と

して使用した。これを昭和期になって吉兆が茶懐石の弁当として供したのが、松花堂弁当。

・久保長闇堂 くぼちょうあんどう

江戸前期の茶人。春日大社の社家。松花堂昭乗・小堀遠州と親交有。

有名な小堀遠州が「鴨長明は才能豊かだったから長明という。お前は無教養だから長闇にしろ」と言ったので、こう号したという。二人とも鴨長明の影響が大きかったことを示している。

方丈記に始まり、兼好・利休・松花堂昭乗・小堀遠州と繋がる草庵は皆小さい。小さいけれど充実している。この考え方は日本人好み。明治以降西洋文明の流入、富裕層の誕生でこの思想は大きく

変化していく。

 

「コメント」

この考え方は一時日本人の特性の「縮み思考」として、議論された。何でも小さく小さく・・・・。

昔からエコ先進国。確かに小さいものを大事にする。又優美として尊重する。

大坂にいた時、枚方にいたので石清水八幡宮は良く行った。松花堂庭園も知っていたが、当時は全く興味なし。そうか、松花堂弁当は吉兆なのか。