文学の世界「鴨長明と方丈記~波乱の生涯を追う」            

                                                               講師 浅見 和彦(成蹊大学名誉教授)

 

161215「鴨長明の鎌倉下向

今日は、長明が鎌倉へ下向したことを話す。「吾妻鏡」という、鎌倉幕府の公式記録がある。ここに

長明の鎌倉訪問の記述がある。

 

「長明が源実朝に面会する」  吾妻鏡の記録

建暦元年(1211)十月大十三日辛卯

鴨神社に縁の連なる人で、菊大夫長明入道〔出家名は蓮胤〕は、雅経の推薦で鎌倉へ来て、将軍実朝様への面会が何度も許された。しかし、その日は頼朝様の月命日なので、頼朝法華堂へ行って

お経を唱えていたが、故人を思って涙がこぼれてきたので、和歌をお堂の柱に書き残した。

草も木もなびきし秋の霜消えて 空しき苔をはらう山風
    (草木もなびくほどの権勢も秋の霜のように融けてしまい、残った苔をむなしく風が吹き抜けて

   いく)→頼朝の事。

将軍への何度もの面会。これは長明の身分からすれば、異例の待遇である。これには以下の理由が推察される

  ・昔の同僚で和歌所寄人飛鳥井雅経の紹介

  ・後鳥羽上皇の紹介  後鳥羽上皇からの鎌倉の状況視察の密命?

  ・実朝が長明との歌論を希望した

此の面会で、実朝は長明との歌談義を好み、影響された。そして次の2首を詠んだ。

2首とも、実朝は想像で歌っており、長明の下鴨神社のことを詠っている。

  ちはやふる御手洗(みたらし)(かわ)底 きよみのどかに月のかげはすみけり」 

   御手洗川は、下鴨神社の小川。

  「君が代も我が世もつきじ石川や瀬見の小川の絶えじと思えば」

   瀬見の小川→下鴨神社の小川の事で、関係者はこの言葉を使うことは禁忌。長明はこれを

       使って糾弾された。

「武州入間川沈水の事」

長明が鎌倉下向の数年前に起きた、武州(埼玉県)入間川の大水害の事をリアルに「発心集」に記述している。 

長明は京都の大風・大地震・大飢饉・平家の福原(神戸)遷都など現地に出かけて詳細に記述している。元来、物見高くミ-ハ-気味。よく言えば事件記者風の人物。恐らく、鎌倉滞在中に現地まで

出掛けて取材したのではと推察される。

 

「長明の鎌倉下向の理由」

 ・就職運動

  京での、神官への就任が叶わなかったので、紹介を受けて鎌倉で和歌の先生となろうとした。

  しかし、これも果たせなかった。

 ・後鳥羽院の密命 

  鎌倉の政情視察

 ・東国への興味

目的はそれなりにあったのだろうが、要は好奇心旺盛な自由人であったのだ。

 

「コメント」

ことごとくうまくいかない人生なのだろうが、これは長明の我儘さなのではなかろうか。皆、生きんがために妥協し諂って生きていくが、彼にはそれが出来なかったし、やる必要もなかったのだろう。 

多才な人がこうまでうまくいかないのは、そう考えるしかあるまい。