文学の世界「俳句の変革者たち正岡子規から俳句甲子園まで」       俳人・愛媛大学准教授  青木亮人

 

170406①「明治中期~俳句の革命児・正岡子規の写生」 

「最初に」

13回に亘って明治から2016年まで俳諧史を話す。時代の流れであったり、俳句史の大きな流れの中で各時代の俳人たちが、どういう表現に熱中したりどういう物を良いとしたかについて今の立場から振り返って見る。昭和時代以降は長いので、戦前・戦後・平成・現代と分ける。今回は一回目なので明治の革命児 正岡子規から始める。

「正岡子規」  1867~1902  35才で逝去 

俳人・歌人。号は(だっ)(さい)書屋(しょおく)主人、竹の里人。伊予松山市出身。帝大中退、日本新聞入社。雑誌「ホトトギス」によって写生俳句、写生文を首唱、又歌論「歌よみに与ふる書」を発表し短歌革新を試み、新体詩・小説にも筆を染めた。

その俳句を日本派、和歌を根岸派という。歌集「竹の里歌」、随筆「病床六尺」等。

「何故彼が革命児なのか」

司馬遼太郎の「坂の上の雲」には、明治の青春と言った感じで、一代にしてそれも数年で俳諧の長い歴史を一瞬にして変えた人として書かれている。結核に罹り35才で亡くなる。「病床六尺」で書かれているように、病室の狭い

世界の中で俳句や短歌と言った各ジャンルで革命を起こした。

ここで今の作品を紹介しつつ、何故子規から俳句史を語らねばならないかという事を考えてみる。

「金魚揺れ別の金魚が現れる」 こういう句がある。

殆どの人はそれが一体何なのだと感じる。こういう俳句を凄いと感じる人は、俳句をかなりやっている人、或いは子規や高浜虚子と言った人々の作品を読み込んでいる人である。

次に子規が100年前に凄いと評価した句がある。

「赤い椿白い椿と落ちにけり」  高浜 虚子

しかし当時も今も、この句を凄いという人は殆どない。何故これが良いのか、何故俳句として成り立っているのか。

子規はどうしてこういう感覚や感性になったのか、何故俳句にのめり込んでいったかと、彼の人生に重ねまた以上の二句が面白いということになってきた経過を見て行こう。

・子規の人生  挫折より始まる

 早くに父を亡くし、長男の彼は松山藩士族の家督相続の為に幼い時から勉強を強いられる。又東京に出て立身

 出世を求められる。このプレッシャ-はその後の人生に大きな影響を与えた。松山藩は佐幕派であったため、薩長

  土肥と違って、官界への道は狭かった。帝大に入ったが結核に罹り、これが影を落とす。

已む無く小説家の道を志すが、評価されず挫折し帝大も退学し郷里の人々の失望となる。手っ取り早い仕事として

新聞社に就職。ここで文学を担当し、俳句評論を始める。子規の人生は、病気・挫折から始まっている。

この頃、芭蕉「奥の細道」に倣って、各地の俳諧宗匠を訪ねるが、彼の作品及び俳論は受け入れられず、冷たく

あしらわれる。次の挫折。

心機一転を目指して、日清戦争従軍記者となり大陸に行くが、結核悪化で帰国。郷里の松山で療養。この時、

旧知の夏目漱石と交流。帰京の途中の奈良で詠んだのが「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」

帰京後、病状悪化して脊髄カリエスとなって寝たきりとなる。この時の事は随筆「病床六尺」に詳しい。

この時から、俳人子規としての「俳句論」を書き始める。つまり余命少なくなって、残された道は俳句のみとなる。

しかし彼の作品・俳論は以前として、世間からは評価されない。

「赤い椿白い椿と落ちにけり」  高浜 虚子

この句を子規は絶賛。西洋の油絵のように、この句を読んだらすぐに画像が目に浮かぶと。しかし依然として当時の俳句界は、全く俳句らしくなく、又落ちも無いとして無視した。それでどうしたという評価。

当時の句としては、以下の様である。

「陽に酔うた顔して落ちる椿かな」

赤いのは、酒に酔ったから として風流になる。

「落ちてから日の当たりける冬椿」

椿は葉が茂っているので、中に陽が当たらない。落ちてから陽が当たるようになった。こういうひねりを入れると

俳句らしいとした。

「驚いて鳥の飛びけり落ち椿」

椿の花と、ボタッと音をさせて落ちて鳥を驚かす。

風流で、落ちが無いと俳句でないとされていた。 

子規は、この様な従来の句を月並みとして否定した。

「子規の主張」

・風流めいた技巧的なものは駄目

・平凡であること

・地味で何気ない事

・何の意味も含ませない事

・落ちを付けない

・バタ-ン化されてない事  京都→舞子、清水寺・・・・  山→富士山

・今までの俳人が詠もうとしなかった事であるべき

⇒「写生」という事である。

 

「子規の句」の例  「掛け稲にいなご飛びつく夕日かな」

何の落ちも無く、ただ情景を映しているだけ。これで以上と言った風情。子規の本領はこの句にある。

「子規の存在」

子規は句作者と言うよりは、この時代の価値の創造者であった。これだけの事を病床での数年間でやった。

文芸評論家「保田与重郎」は次のように言っている。

「子規は創作者と言うよりも批評家であったし、天才的な鑑賞眼を持っていた」

子規の凄さは、我々が何を以って俳句とするかの基本的な見方を全く変えてしまった。この子規の俳句感が

今も引き継がれている。その後百年の、我々の俳句感を決定づけたといえる。故に革命児である。

明治35年、子規亡くなる。その後引き継いだのは、同じ伊予松山藩の士族の、高浜虚子とて河東碧梧桐である。

二人は後継者争いをするが、これが俳句を発展させていく。

 

「コメント」

講師の話が長く続く人なので、まとめるのに手間取る。

子規と俳句を語るには伊予の風土との繋がりに触れねばなるまい。これが無いのは不思議。

今日の話では、挫折から世間への敵愾心から発しているような感じを受けたが。

個人的には、子規以前の俳句・俳諧の方が好きだが。