170601「全共闘時代の熱気と反骨精神 60~70年代」

 

「講義概要」

東京オリンピック後の好景気が続く日本、その間、ベトナム戦争は激化、日米安保条約の自動延長を前に全国の大学に騒乱の嵐が吹き荒れる全共闘時代。この熱気の中、結社や有季定型等は否定され、関西圏の若者たちの中から才気あふれる俳人が続出する。俳句研究会冊子「京大俳句」「立命俳句」が誕生し、「友」との連帯を重視して従来の俳句らしさより「個的な情念」を優先させた。

「全共闘時代」反体制の雰囲気

(映画・音楽)

1970年代から1980年代(昭和45年~)全共闘時代といわれるあの熱気を俳句で見ると、どういう人たちが何を体験し、何を信じようとしていたかを作品で見てみる。ある関西の学生に注目することで、当時の若者たちを考えてみよう。

この時代と言うとまずは東大安田講堂の興亡の映像が目に浮かぶ。ビートルズ、ロ-リングスト-ズといったロック、フランスに始まるニュ-べルバ-グ、ゴダ-ル、大島渚、普通の娯楽映画と違う

社会派、芸術志向の一連の映画。

「山谷ブル-ス」「友よ」で有名なフォークシンガ-の岡林信康、ボブ・ディランの日本版と言われた。

「友よ」の一節

(友よ夜明け前の闇の中で 友よ戦いの炎をもやせ 夜明けは近い 友よこの闇の向こうには 友よ輝く明日がある)

共通しているのは反体制である。日本でも革命を信じた大学生を中心とする若者たちが芸術の分野で活躍した。

当時は文学と学生運動が結びついていたのである。戦う相手がいて、心から友がいると信じていた時代であった。

(関西の学生俳句)

京大と立命が活躍。

「青春の俳句は不安定なものである」 「俳句を作るという事は自己の内向的なものと外的情況との関わり合いを持ちながらの表現行為であるべき。俳句を単に作るという事に自己満足してはならない」→単に作るだけでは駄目だ。

「自己と社会との葛藤が俳句である」まさに全共闘時代の雰囲気を反映している。

・日野 草城(そうじょう) 京大 俳句雑誌「青玄」

 ホトトギス同人であったが、虚子に除名されて新興俳句という反ホトトギスとなる。自由主義の立場

 から無季俳句、連作俳句の新興俳句となる。

・坪内 稔典(ねんてん)  立命館 高校時代から「青玄」の投稿  文学部で短歌専攻

 在学中全国学生俳句連盟」を創立し、仲間の摂津 幸彦らと同人誌「日時計」「黄金海岸」を創刊。

 研究者としては正岡子規の関する著書。

(たそがれの城郭の下腕組みて)

 (春の風ルンルンけんけんあんぽんたん) 

 (晩夏晩年角川文庫蠅叩き)

 (三月の甘納豆のうふふふふ)

 (魚臭い路地の日だまり母縮む)

・高野 悦子 立命 20歳で学生運動と恋愛で自殺 日記が「二十歳の原点」として出版され、

         映画化され大ヒット。

 (バリケ-ド守る重き沈黙もてあまし)

・摂津 幸彦 関学 

 「関学俳句会」を創立、機関誌「あばんせ」。全国学生俳句会の繋がりで、他大学の人達と「日時計」

 創刊。

 高柳 重信の主宰する「俳句研究」で入選し注目される。前衛俳句の人。俳句を言葉の意味だけで

 完結させることを嫌い、言葉同士が出合うことで生まれる新しい抒情性を求めた。

 しかし、チンプンカンプン。

・南浦和のダリアを仮のあはれとす

・幾千代も散るは美し明日は三越 →三越のコマ-シャル「今日は帝劇、明日は三越」のパロディ

・南国に死して御恩のみなみかぜ

・階段を濡らして昼が来ていたり

・露地裏を夜汽車と思う金魚かな

戦争を連想させる言葉が続くが、この時代には既に戦争は過去のものパロディのように詠んで

いる。という事は、日本は平和で経済繁栄の時代となっていることを表している。これを当たり前と

する戦後生まれの人々をシニカルに皮肉って詠んでいるのだ。

・阿部 完市     坪内 稔典、金子 兜太と共に「青玄」会員、社会性俳句のリ-ダ-

(透き通る そこは太鼓を叩いて通る)   全く理解不能

この時代の俳句を表す言葉を 坪内 稔典が述べている。

「俳句は片言で非力なものだ。か弱いものだ。これを引き受けるのは僅か17音である。」

今の俳人たちは次の様に言うであろう。「俳句は17音だが、色々な事を言える」と。

しかしこのような関西主導の既存の俳句会への異議申し立ては、1980年代以降出て来なくなる。

こういった反逆児たちがいたのだ。

 

「コメント」

何となく時代背景は理解できたが、全く知らない人達ばかり。知らない作品ばかり。それぞれの

作品には、主張があるのだろうが、意味が分からないので何とも言いようがない。発信は人に

分かって貰おうとしてやるのではないのか。でなければ、言葉の意味はないと思う。