210708②「苦痛を愛する」

ドストエフスキ-の作家としての転換点はどこにあったのかと問われると、多くの人は「地下室の記録」と答えるであろう。その転換の持つ意味は何だったのか。「地下室の記録」を境に、その前と後では、根本的な変化を遂げたのである。

答えを先に述べれば、マゾヒズムの発見である。後ほど、詳しく触れるが、従来の苦痛を絶対悪の根源とみなす、ヒューマニズムの思想を、彼は180度転換させたのである。

「マゾヒズムの発見」  「地下室の記録」

そのマゾヒズムの発見を、講師はドストエフスキ-におけるコペルニクス的転換とみなしている。

主人公は極度に内向的な小役人、彼は「地下室の記録」の冒頭でこう宣言する。私は病的な人間だ。底意地が悪く、およそ人に好かれる人間ではない。そして、何頁か先で、彼は更に次のような挑発的な一文を加えている。

「敗退にだって快楽はあるさ。もし敗退に快楽を感じていなかったら、ウンウンとうめき声をあげる訳もない。まさに病的なこの元小役人の口にする「地下室の記録」の快楽の本質こそマゾヒズムなので

ある。

小説の舞台は、アレクサンドル二世のよって農奴解放令が公布されて間もないサンクトペテルブルグ。拝金主義の横行する資本主義勃興期のロシアで、痛みを愛する、苦悩を愛するといったおよそ

現実離れした考えが、受け入れられるはずもない。

しかし、それでも主人公は、地下室に長く引き籠る中で、得た一つの発見に全てを賭けようとする。
即ち、絶大な力で人々の心を支配する資本、金の対極にありながら、かつそれに劣らぬ孤独と力を約束している哲学、それこそマゾヒズムなのだ。

彼は手探りの状態で、痛みの哲学の構築に心を砕いていたのである。
これは私の仮説であるが、ドストエフスキ-は、痛みの快楽と言う危険な発見を、心に内に隠しながら、いずれこの発見を武器として、同時代の文学とイデオロギ-闘争に打って出ようと考えていたに違いない。

ではこのように考える根底について、少し述べる。

第一にドストエフスキ-は、「地下室の記録」で、論争の相手に撰んだのは同時代の作家であるチェルヌイシェフスキーであっことは、大切である。
若い革命家たちの小説「
何をなすべきか」において、チェルヌイシェフスキーは、徹底した合理主義と理性に基づく、未来のユートピア社会を描き出したのである。所がドストエフスキ-は、チェルヌイシェフスキーが描いたこの若い革命家たちを念頭に置きながら、彼らを野太い連中と毒づいてみせた。

そして、裏腹におよそうだつの上がらない40がらみのマゾヒストを主人公として対比したのである。

これだけでも圧倒的にバランスを欠いている。何といっても、革命家と小役人を堂々と勝負させようと言うのだから。

しかし、この手法は高度の戦略性を帯びていた。この小説が、社会主義的概念としての方向に、軸足を置くかぎり作家の立場は、安泰であったからである。

しかし、この思想は遂に皇帝権力から何かしら検閲を受けるという事態を恐れる必要はなかった。

作家自身マゾヒズムの哲学が、皇帝権力のイデオロギ-と同じベクトルを描いているとにらんでいる節さえ窺えるのである。なぜなら、ドストエフスキ-はこの後、マゾヒズムを後に述べる様に、ロシア人を本来的に抱えている受動性または強大な権力に対する自虐的な忍従として捉えることになるからである。

ドストエフスキ-は書いている。
思うにロシア人の最も大切な、最も根源的な精神的欲求とは、苦痛の欲求である。

尤もこの時点で、「直情径行型の人間や、活動的な人間は彼らが鈍感であるからだ」と言っている。

この言葉の裏に透けて見えるのは、資本主義への道をひた走る帝政ロシアの若いエリ-ト達の姿である。

今日、私たちはしばしばグロ-バルな人材という言葉を口にするが、ことによると国際的ビジネスの舞台でバリバリ活躍するエリートビジネスマンたちも「地下室の記録」の眼から見ると、極めて胡散臭い人間と映っているに違いない。

左右を問わず、進歩的な考え方を持っている人々は、次の様に理解していた。

即ち、革命家にしろ、実業家にしろ、極めて安易な世界観に安住している。例えば、彼らは人間が利益に反して行動するといった事態は、考えられない。
しかし世界は教科書通りに動いている訳ではない。それよりも、はるかに不条理な世界を生きている。

地下室人は書いている。この数千年のいつ、人間が自分自身の利益にのみ、従って行動した実例があったであろうか。

ここに見る様に、ドストエフスキ-のマゾヒズム礼賛は、同時代の革命家たちのイデオロギ-とも、或は資本主義の道を突っ走り始めた国家のイデオロギ-とても、一線を画そうとする彼の意志が隠されていた。彼がそこで示唆したのが、とにもかくにも立ち止まって考える事であった。
立ち止まると言うより、世界に背を向け、自分の片隅に引き籠ると言う方がいいだろう。

反国家に連座し、一度は死刑判決を受け、その後、10年にも及ぶシベリア流刑を経験し、そして中央アジアで国境警備隊に一員として厳しい試練を経て来た。

ようやく首都に帰還できた、その苦しい過去が、ドストエフスキ-をして、賢明な身の処し方を教えてくれたともいえる。

改めて話を戻す。

フロイト以降、多くの精神分析学者が罪の概念で捉えて来た、マゾヒズムとサディズムの関係性だが、これはドストエフスキ-にとって、極めて重要であった。しかし、ある時点まで、ドストエフスキ-は、恐らくこの関係性には気付いて両者の間に厳しい一線を、考えていた様である。記された一文が、その事を示唆している。

「人間は他の人間を体罰に処する権利こそ、社会の病害の一つであり、市民社会の芽を摘み取り、市民社会を育てようとする、あらゆる試みを潰えさせる最強の手段の一つである。」

無論、体罰をサディズムと同一にすることは出来ない。しかし、少なくともドストエフスキ-は、残忍な快感を伴う体刑を、社会を、不可避的に解体するものとして断罪している。

所が、三年経ずして、さながら手の平を返したように、ドストエフスキ-は、一種のサディズム肯定とも理解されるサディズム礼賛を説く。

彼にヒューマニズムと言う言葉があり、これを人類愛の立場から、人々の福祉を計ろうとする、思想的な態度、或いは人間尊重主義の一つと捉えるならば、そこで最大の悪とされるのは、勿論、虐待そして苦痛である。

しかし、ヒューマニズムを人間肯定と、定義づけるならば、マゾヒズムもそれ自体、広い意味でのヒューマニズムの概念に包摂されることになる。

事実、ドストエフスキ-が「地下室の記録」で取ろうとしたポジションはそこにあり、むしろマゾヒズムこそが、人間主義に純化した形として意識されていた。

ドストエフスキ-はそのポジションに自信を持っていた。彼は書いている。

「苦痛はそれこそ意識の唯一の原因である。そもそも生きていることは、生命と言うより、死の始まりではないか。」

「地下室の記録」の中の、中心的なモチーフとも言っていい、この一行について補足する。恐らく異論を挟む人はいないと思うが。市の始まりと言う言葉から、連想される人がいる。

「ドストエフスキ-に強く影響された日本の作家」
戦後日本を代表する小説の一つ「死霊」を書いた植谷雄高である。本書は、ドストエフスキ-に多大な影響を受け、形而上的思索が繰り広げられ、極めて難解。例えば
「キリスト教信仰は、イエスキリストの奇跡や復活と言った、そうした不合理さを、土台にしてそれを

真実として、受け入れることを出発点としていた。言い換えるならば、不合理を愛する気持ちなくして、信仰の道に立つことは出来ない。」

植高雄高は、生涯国家権力と反国家的権力の双方に、アンチの姿勢を貫き、自同律の不快を自らの主張の根幹にするのである。

以下、録音不良にて割愛。