210715③「黙過、または支配の欲求」

ドストエフスキ-文学とは何なのか。現代における彼の文学が、私達の心を離さない理由は何なのか。基本的には、14のテ-マを設定して、彼の文学のアクチュアリティを探りながら、同時に又、

ロシアという文化的風土の持つ普遍性と特殊性についても、論じていきたい。

 

さて三回目は「黙過、または支配の欲求」と題して、マゾヒズムと並んで、マゾヒズムの次の概念であるサディズムの問題が、ドストエフスキ-の文学にどう提示されているかを見てみよう。

マゾヒズム同様、サディズムと聞いてたじろいだ方も、少なくないと思う。しかし、ここではサディズムを百科事典の説明にあるような、卑俗な定義に押し込めることは無い。それ故、今日のタイトルは敢えて、軟らかく表現している。黙過とは、黙って見過ごす事を意味する。
他者に苦痛を与えることで、喜びや快感を感じる、そうした心象を、黙って見過ごすという非作為の行動との間に、どのような関係があるのか。

(現代ロシアの病→家庭内DV) 被害者は女性、幼児
現代のロシアは重い病に苦しんでいる。それは、家庭内暴力、DVという名の病である。
毎年数万人の女性がDVによって、死亡しているという。そのロシアの家庭内での、暴力を合法とする法律が制定された。
アルコ-ルに起因するDVが常態化する中、警察や裁判所が、支えきれなくなったための苦肉の策である。

しかしDVの犠牲者は、女性に限られた訳ではない。幼児虐待も大きな社会問題化している。
背筋が寒くなる様な話であるが、ソ連崩壊から30年、ロシアは再び革命以前の混沌に回帰し始めた印象さえある。

ドストエフスキ-が活躍した、19世紀後半、犯罪に強く関心を注ぎ始めた背景には、そうした事情が

あった。

「ドストエフスキ-が創刊した雑誌→犯罪事件のシリーズで好評」

ドストエフスキ-が兄のミハエルと一緒に創刊した雑誌で、彼は欧米で広く知られた裁判の事例を、

シリーズで連載する。

このシリーズで最初に取り上げられたのが、19世紀初頭のフランスを震撼させたラスメ-ル事件であった。強盗殺人犯ラスメ-ルは、自分は社会の犠牲者で、意識的な復讐者であるという。「殺人は兵士と同じだ。時間が許せば、ビクトル・ユーゴ-に匹敵する傑作が書ける」と豪語して、断頭台に

送られた。

「罪と罰」
因みにドストエフスキ-が書き始めた「罪と罰」は、1865年のモスクワで起きた連続殺人事件を、モデルとしている。

「白痴」

「罪と罰」に続く大長編「白痴」では、まさに典型的なDVの裁判が、執筆の切っ掛けになっている。ドストエフスキ-は、ロシア国内にはびこるDVに関心を深めていた。

(ロシアにはびこるの暴力への解決策)

ドストエフスキ-を苦しめていたのは、この様に悲劇が何故ロシア正教を奉じるロシアで生じるのかという、根本的な疑念であった。大衆を教化する事の困難さ、無力の自覚と同時に、例え革命家たちの目指す手段によっても、この現実は解決し得ないだろうという認識があった。何故なら人間には、加虐に対する凄まじい欲求があるからである。

まさに、その本能がロシアと言う広大な土地で野放しになっているのだ。
ではどこにその解決策を求めるべきなのか。結局、その解決策を見出すことが出来ず、自己犠牲といった内向きの解決策を提示するに留まるのである。自己犠牲は最後の手段であるから、これ以上の答えはない。

ドストエフスキ-のサディズム理解には、二つの基本的なイメージが交錯している。
第一には、体罰とかむち打ちといった現象の見られる社会に、はびこった現象である。第二には、純粋な性的な放蕩、
性の快楽としてのサディズムである。
現実に体罰を目撃した作者は、むち打つ人間の快楽を冷徹に観察している。
引用「体罰を執行した経緯は、精神の高揚を称え、自分の力を自覚し自分が権力者である事を意識している。

「虐げられた人々」に登場するワルコフスキ-侯爵は、ペテルブルグの上流階級で、サディズムの

快楽に目覚めた人間である。彼は、ドストエフスキ-における悪の系譜に繋がる最初の人物である。ドストエフスキ-はその後も、サディズムの快楽に目覚めた登場人物を次々と作り上げていく。

その最大の主人公こそ「悪霊」の主人公ニコライ・スタヴロ-キン。
「虐げられた人々」のワルコフスキ-侯爵、「悪霊」のスダブロ-キン等に書かれる洗練さを、一切欠いているという点で、いささか見劣りがするが、「カラマ-ゾフの兄弟」に登場する淫蕩な父親フョードル・カラマ-ゾフはまさにサド的な放蕩人のロシア版と言ってもいい。その引用  「土地の爺さんに聞いたんだが、俺たちの何よりの楽しみは村の娘にむち打ちの罰を食わせることだ。むち打ちは、いつも村の若い衆にやらせるが、むち打った娘を明日は、嫁に迎えるもんで、娘にとっても何とも楽しいんだ。」こいつはサド侯爵も顔負けではないか。
しかし、ドストエフスキ-は、何も読者のみだらな気を引こうとしている訳ではない。ドストエフスキ-はサディズムの問題こそ、神の存在の根本問題に通じているとの認識があったのだ。

 

例えば「カラマ-ゾフの兄弟」に登場する次男イワン・カラマ-ゾフ。彼は唯物論者で知的な青年であるが、その彼が弟の修道僧アレクセイに向かって、これでもかと言うほどのサディステックな扱いをする。その中で、特に読者の肺腑を抉るのが幼児虐待のエピソ-ドである。ドストエフスキ-はフィクションではないと言っている。弟を少しの罪で小屋に閉じ込め、朝裸にして猟犬に襲わせるという場面である。

こうした醜悪極まる現実を目の当たりにして、果たして、神の存在など信じられるか、神の下での予定調和と言ったことが論じられるのか。そもそも、信じるに足る神など存在するのか。

(サディズムとは何か) 馴化との関係
そもそも、サディズムとは、何であろうか。百科事典の記述に倣い、単純化していえば、相手に精神的、肉体的苦痛を与えることで、性的快感を得る異常性欲を意味する。苦痛を与える側に、痛みの自覚はない。自覚の代わりに、
想像力の中での痛みの共有がある。物理的に痛みを自覚するかしないかと言う問題は、ドストエフスキ-にとって極めて重要であった。サディズムを考えるドストエフスキ-の胸に大きくのしかかるのは、馴化(なれ)の問題である。

人は諸々の不幸に、馴化し、無関心になる。この不可避のプロセスをどう考えるべきか。

ドストエフスキ-はこう言っている。「人間はどんなことにも馴れる」

彼は、この事を、苦痛を通して発見したのである。無論、この発見はある日突然、天下って啓示されたのではない。

むしろ、流刑生活を通じて徐々に獲得した真実であろう。

しかしドストエフスキ-は、人間全般に目を転じて、個々の人間の根源に秘められた暴力性と、その暴力性の馴化という問題に目を向けていく。ドストエフスキ-は書いている。「どんなに優れた人間でも粗暴化し鈍化することがある。」

馴化=馴れるという事の中には、常に相反する特性がある。

自らが経験する苦痛に関する馴れもあれば、人の苦しみに対する馴れ=無関心もある。

「罪と罰」の主人公 ラスコ-リニコフはこう考える。「苦しみと涙、それはまだ生命ではないか。」

ドストエフスキ-はそれについてこう書いている。「しかし彼は自分の罪を悔いてはいない。」

無関心、馴化の本質を、どの作品にもましてリアルに開示してみせた作品が「悪霊」であった。
ドストエフスキ-は、この悪霊において、いわば他者に苦しみを与えることに対する馴れと、そこからもたらされる人間を描いている。主人公 ニコライ・スタプロ-キンである。彼は12歳の少女に暴力を加えた挙句、その少女の自殺の現場を覗きにいく。そして彼は手記の中にこう書く。「遂に私は必要であったものを見極めた。」

そして、物語の終わり近くに自殺を決意した彼は、彼を慕う女性に向かって次の様に、自分の事を書き記す。「人から流れ出て形を成したものは否定のみ。どんな寛大さも力もない」

馴化はあるものにおいては否定を、あるものにおいては無関心を志向するのである。では、スタブロ-ニンの自殺に代わって、ドストエフスキ-が提示できた希望の定義とは何だったのか。これは、極めて内向きであり、脆弱であった。よってドストエフスキ-は、聖書からの引用で凌がざるを得なかった。

「私は貴方の苦難を知っている。貴方は冷たくも熱くもない。生ぬるいのだ。むしろ冷たいか、熱いかどちらかであって欲しい。人間であれば熱くなったりも冷たくなったりして当然だ。しかし、生ぬるいという事は、無関心である事、それが最悪である。」これが、ドストエフスキ-の考えである。

 

最晩年の作品である「カラマ-ゾフの兄弟」でも、サディズムの問題は、否定と無関心という問題に結び付けられている。

次男イワン・カラマ-ゾフは明日父親フイヨ-ドルが殺されるかもしれないという予感を持ちながら、敢えて家を去りモスクワへと出発する。イワンの行動は、一見彼の無関心、黙って見過ごす事即ち黙過として解釈されるが、実は彼の行動をしっかり見極めていくと、決して無関心でないことが判る。つまり、次男の黙過は無関心どころか、むしろ過剰すぎるほどの意識から生まれた行動、そのものである。イワンの胸の内にあるのは、ある曖昧なもの、端的に言えるのは、父親の死への願望であった。
ある意味では、父殺しの願望を実現するための無意識で、緻密な計算という事も出来る。

所がイワンには、その願望を成就させる手段はない。あるのは、カラマ-ゾフ家の料理番であるスメルジャコフの存在である。幼い頃から差別的環境で育てられてきたスメルジャコフは、まさにニヒリズムの権化の様に人物である。
彼は、自らの出自を呪うばかりでなく、ロシアに対して憎悪の念を抱いている。こうしてイワンの父殺しの願望と共感したスメルジャコフと手を結ぶのである。彼はイワンに洗脳され、父殺しの願望をしっかりと見極めていた。躊躇はしなかった。
彼は襲い掛かる時に、サディズムの欲望に酔っていた。

途中 略

ドストエフスキ-の文学は、サディズムの体現者を、小説に取り込むことに依り、最高の大なリズムと深さを獲得したのである。

 

「コメント」

ああ、疲れた。意味不明、理解不能で飛ばし飛ばしでも、時間がかかる。さりとて、ドストエフスキ-小説を読む気には、全くならない。しかし、ルビコン川を渡ったのだ、後へは引けない。