210805⑥「分身と神がかり」

ドストエフスキ-作品の登場人物に見られるのは、病的なまでの多弁性、そして内向性である。ある種の神経症患者そのものである。これを三つのキ-ワドで見て行く。「分身」「神かがり」「僭称」

 

「分身」とは、自分自身の姿が、外界に見える幻覚のことである。次に「神かがり」。「僭称」、これは人や人間が、他人の立場や役割を騙って、騙す行為である。

ドストエフスキ-の小説に登場する境界線上に立つ人物について論じる。

「登場人物は、二つの境界に跨って立っている」

最初に優れたドストエフスキ-研究者であった、アルフレッド・デュ-ムという人と言葉を引用する。

「ドストエフスキ-における人間は、二つの世界の境界に、二つの生活圏の境界に立つという確信がある。」

これらが、具体的に何を指すかは、個々の作品で異なっているが、登場人物の足場が、二つの境界をまたぐようにして、おかれるという事自体、極めて危険である。何故なら、彼らはしばしばアイデンティティーの喪失へと追い立てる要因となるからである。そして、その危機を、ドストエフスキ-の読者は、彼の小説の中で、何度も目撃することになる。
「二重性」

さて、ドストエフスキ-の読者が気付くのは、登場人物たちの、病的なまでの多弁である。彼らはある種の神経症に侵されているか、常に侵された過去があって、ドストエフスキ-の小説それ自体が、まさに後遺症に苦しむ人たちの物語という事が出来る。無論、作者は傷ついたもの、今まさに傷つけられようとするものだけではなく、彼らの傍に静かに佇んでいる、決して傷つくことのない存在にも怠りなく目を向けている。ドストエフスキ-は、この傷を二重性と規定している。

この二重性が、単に小説の主人公だけでなく、良識がある人間にも備わっている、普遍的な現象であることを、ドストエフスキ-自身強い意識していた。

ドストエフスキ-最晩年、彼は執筆中の「カラマ-ゾフの兄弟」を読んだ女性の読者から、二重性の悩みについて、相談を受けた。その問いに答えて、彼は、「二重性と言うのは、凡庸ではない人間によく見られる、極めてありふれた現象であることを説き、更にその上で次の様に書き添えた。

「二重性と言うのは、大きな苦しみだが、同時に大きな快楽でもある。それは強烈な意識であり、自己批判であり、自分の本性の中に、自分自身とは、人類に対する精神的な説明への要求が、存在することを物語るものである。」
しかし、二重性というのは、大きな苦しみである。これは、とても含蓄に富む言葉である。

 

苦しみであると同時に、喜びであるという両義的な捉え方、これはドストエフスキ-のマゾヒズム哲学に通じる独特の信念である。もっとも、小説に表された二重性が、この種の人生相談で答えられる内容とは、次元もベルも質的にも、大いに異なるものである。

 

古来、人間に齎される災厄の二因性とは、理解の喪失、そして自己分裂である。

そして、この二重性がもたらす、大きな苦しみを表現する手段を、若いドストエフスキ-は「分身」

テーマとした。
デビュ-作「貧しき人々」に続く「分身」が、それである。彼は「分身」を執筆中、精神的にも経済的にも劣悪であった。兄ミハイルへの手紙にこうある。「もし、僕の生活が今この瞬間に停止するなら、喜んで死んでしまおうとさえ、思った。」

ドストエフスキ-は大変な読書家なので、この「分身」というテーマがキリスト教・非キリスト教に関わらず、古来の宗教や異教神話にも見られる現象であることを、充分知っていた。そして、その最も原始的な神話の一つに、「ヨハネの黙示録」がある。

ここに登場するキリストとアンチキリストの関係性も、分身関係の一つとして、捉えることが出来るで

あろう。

因みに、アンチキリストとは、世界の終末におけるキリストの再来に先立って、人々を惑わす偽の

予言者を言う。他方、文字通り血を分けた兄弟や双子同士の対立、葛藤もしばしば分身の延長線上で語られてきた。

「ゲーテのファウスト」

19世紀後半に書かれたゲーテの「ファウスト」は、ドストエフスキ-の愛読書の一つであるが、書かれているファウスト博士と悪魔メフィストとの関係も、典型的な分身関係の一つと見る事が出来る。

メフィストは、ファウスト博士の欲望を忖度して、実行に移す悪魔である。

「ゴーゴリの鼻」

他方、ドストエフスキ-の一世代上にあたるロシアの作家 ニコライ・ゴーゴリ-も、分身性に肉薄した作家の一人である。
ゴーゴリ15歳の時に書かれた中編小説
「鼻」が、最も典型的な例である。ある日、理髪師イワン・ヤ-コウレビッチは、朝食のパンの中から、突如人間の鼻が出て来て仰天する。他方、理髪店の常連であるコワーリョフは同じ朝、鏡の中の自分のンおから鼻が消滅しているのを気付く。殆ど、滑稽と言って良い物語が、読者に期待するのは、勿論驚きと笑いである。従って、この小説に対してアィデンティテイの喪失とか、自己疎外と言った倫理的な意味づけを、施すことは恐らく原作者の意図にそぐわないものである。

 

新しいゴーゴリと絶賛され、かつゴ-ゴリ深いと自負するドストエフスキ-は、その自負を裏書きする傑出した才能を持っていた。ドストエフスキ-の「分身」は、まさに身につまされるような、恐ろしい分身の物語である。

身につまされる恐ろしい物語という言い方をしたが、ゴ-ゴリと違ってこの物語を読んだ読者は、どんどん彼の不安と狂気に感情移入していく。

ここで、一つだけドストエフスキ-の文体についてコメントしておく。多くの読者は、ドストエフスキ-の小説に感じ取る

異様な熱気に、まさに、登場人物の一人一人が発する狂気と、ポルテ-ジの高さに由来する。

実は、彼の文章には、異常なほどとか、突然と言った副詞が頻繁に使われる。特に、突然の使用は異常とも思える。

 

「分身」のゴリャ-トキンを、破滅に導くのは、あたかも作者が文体に注ぐ熱かと、錯覚させられるほどである。

 

さて、「分身」の小説に登場する主人公は、何かしら精神的なトラウマを持って生きていくが、「分身」のテーマそのものには、大きく分けて、次のような類型が見て取れる。少し難しいかもしれないが、よく聞いて欲しい。

    純粋な自我の分裂として、生じる悔いの分身

    芸術的な手法として、採用された分身

ドストエフスキ-は分身自体を、念頭に置いて執筆にかかった最初の作品が「罪と罰」である。

作品は極めて暗示的な一言、例えば同じ畑の苺という言葉を用いる。高利貸し殺害の犯人が、妻殺しの嫌疑のかかるズヴイドリガイロフとの分身関係を、暗示している。この様な分身関係は、この小説の随所に見られる。

分身関係の暗示は、「白痴」においても、踏襲されることになる。

真実、美しい人として登場するムイシュキン公爵と、莫大な遺産を手の入れたロゴ-ジンの二人である。先程のカテゴリ-デイで言うと、2に当たる。ム-シキン公爵と、ロゴ-ジンというライバル同士の間で、行われる分身関係は、二人がそれぞれに別の形で愛する、ナスタ-シャの悲劇的運命を暗示することになる。男同士の分身関係は、ナスタ-シャを阻害するのである。この分身関係が、ナスタ-シャの運命を決する。こうして、ナスタ-シャ殺害を、受け入れるムーシキンとロゴ-ジンの、二人の共質というのは、揺るぎないものとなる。

「白痴」のラストシ-ンに注目して欲しい。ナスタ-シャを殺害したロゴ-ニンは、熱に浮かされた様に、ムーシキン公爵に語り掛ける。「俺の尋問が始まり、俺はやったと喋るから直ちに連れていかれる。だからせめて、今の所このままナスタ-シャをそこに寝かせておこうぜ。俺たちの傍に。」

こうしてナスタ-シャの死によって、二人は互いに共有の夢を実現させるのである。

 

「カラマ-ゾフの兄弟」に注目してみる。これはカラマ-ゾフ家の主フョードルの殺害を巡るミステリ-だが、ここでも分身関係が重要な位置を占める事になる。カラマ-ゾフ家の二男イワンと、下男で料理人のスメルジャコフとは強く結びつけている符丁がある。これがイワンの哲学「神がなければ全ては許される」という言葉である。二人の関係は、一種の主従関係をなしているという点で、ゲーテのファウストと悪魔のメフィストと言う関係に、似ている。

下男のスメルジャコフは、主人公イワンの父殺しの願望を忖度し、実行する。しかしイワンの裏切りによって、両者の主従関係、絶対支配、絶対的服従は一挙にほころび、両者は闘争関係に入る。

フイヨ-ドル殺し実行犯スメルジャコフの死因は、最後まで明かされることは無かったが、殺害のプロセスそのものは彼の口を通し、生々しく明かされる。フイヨ-ドル殺害の前夜、スメルジャコフは帰宅したイワンに向かって、長男ドミトリ-による父親殺害の可能性を示唆する。長男と父親は、グル-シェンカという女性を巡って、ライバル関係に有った。

イワンは、父殺害の前夜に旅立つ。父親の死を知って、イワンはモスクワから帰宅する。イワンは当初ドミトリ-犯人説を疑ってなかった。

しかし愛する弟アリョ-シャの一言で、深い疑念にかられる。そして、疑問を解決しようとスメルジャコフを訪ねる。するとかれはこう答える。「何しろ貴方は私に、殺しを任された上、何もかも承知の上で、出発なさった訳ですから、事件全体において主犯は貴方であり、私は、確かに殺しはしましたが、決して主犯ではないという事を、面と向かって証明するのです。つまり法律上の真犯人は貴方なのです。」

最後全ての真実が明らかになった後、スメルジャコフは自殺する。そしてイワンの前に、悪魔が姿を現す。ここでイワンと悪魔の分身関係は、先程のカテゴリ-で言うと1に当たる。イワンは悪魔に向かって言う。「お前は嘘だし、俺も病気だし俺の幻だよ。暫らくは苦しまなくてはならないと分かっている」

「僭称」

生涯引用したラテン語のことわざ。「神は滅ぼしたいと思う人からまず理性を奪う。」を思い出させてくれる場面である。

それは、この分身と言うテ-マの延長線上にあって、分身のテ-マを補完するトピックである。一言でいうなら、僭称である。

僭称とは何だろう。

歴史的に、世界に遍く見られる現象であり、身分制度のある社会において、本人の身分を越えた地位、称号を名乗ることを言う。内乱が勃発したローマ帝国・三国時代の中国・日本でも南北朝に、天皇を名乗る人物が登場する。

そして、この名称は中世から近代に至る、ロシアの歴史の中でも、頻繁に生じ、いわゆる動乱期には、一つの大きなドラマを形作るに到った。僭称ないしは僭称者のドラマは、広大無辺のロシアならではの感がある。
ロシアの専制権力の圧倒的強さと、それに相反する脆弱な側面という二重性を、浮き彫りにするのである。

まさに、噂が噂を呼び、真実が虚偽と入れ替わる。
ある意味では、極めて現代的な現象と言っても、良いであろう。
更に注意して欲しいのは、僭称者の問題が別の文脈でも、使用されていることである。

即ちキリストを僭称するアンチキリスト、即ち悪魔をイメージするものとして。

皇帝ボリスに反旗を翻して、ポーランドの助けを得て、政権奪取を図ろうとした、この青年に対し、

ロシア正教会は、アンチキリストの烙印を貼るのである。

ドストエフスキ-は、この権力奪取のドラマに強い関心を抱いていた。但しかれが関心を抱いていたのは、そのドラマではなく、むしろ日常生活に普遍的に見られるドラマとして、僭称者のモチーフを

使用したのである。僭称のテーマを、分身テ-マの延長線上に語ろうとしたのである。

 

「神がかり」

さてここで、テーマは僭称者のテーマから、神かがり即ち「悪霊」の物語へとスライドしていく。

ドストエフスキ-は、主人公スタブロ-ニンに神がかりとしての、資質を与えている。

神がかりは、世俗的な権力を恐れずに、思う所を歯に衣着せず、口にできる勇気の持ち主である

。因みに、ロシア正教会は36人の神がかりに対する、崇拝で知られていた。

イワン雷帝は、神がかりの一人が、皇帝のこれからの運命に対して、雷に打たれて死ぬことを予言した時、その運命から逃れることが出来る様にと、神に祈ったほどである。

残虐性で知られたイワン雷帝ですら、神がかりの力に、それほどの恐れを抱いていたのである。

神がかりについて、ロシアの研究者は、他人が黙っていることを、敢えて口にする人間の、
異常な神経状態といい、同様に純朴さ・無欲さ・誠実さ・善良さ・柔和さ・羞恥心の持ち主であると定義した。

この二つの観点を念頭に置きながら、ドストエフスキ-の五大長編における神がかりの実像を振り返ってみる。

神がかりとして、最も典型的なのは、「白痴」に登場する主人公ムイシュキン公爵である。ドストエフスキ-は、美しい人間を目指してこの物語に着手した。てんかんの治療のために、スイスの山奥の病院で過ごした彼は、まっさらな心を抱いて、ペテルブルグら登場する。

しかし、彼は人間関係、愛情関係の渦に巻き込まれ、徐々に正気を失っていく。
真実しい人間である彼は、他人が黙っていることを、敢えて口にする存在でもある。

そうして、ペテルブルグの上流社会の虚妄性を暴き、正義と不正、真実と虚偽、美と醜の間の一線を明確に引き、隠された真実を明るみに出していく。

不当にさげすまれたナスタ-シャの真実を、解き明かして見せるのも、このムイシュキン公爵である。彼の神がかりの洞察力が、彼女の秘密を明るみに出す。

ドストエフスキ-が、意識して神がかり的な存在を取り上げてきたのは、「白痴」が初めてではない。

彼はそれまでにも、何人もの神がかり的人物を描いている。

最も身近な所で取り上げられるのは、「罪と罰」に登場するエリザベ-タという女性である。

ご存じのように、ラスコ-リニコフによる、金貸し老婆殺害の道連れとなって殺される、女性である。

彼女については、神を見る人とは言い回されてはいないが、神かがりの資質を暗示している場面が

ある。

このエリザベ-タと言う女性と、十字架交換によって、姉妹の契りを交わしたソーニヤも、又神かがり的女性である。

彼女は殺されたエリザベ-タに代わって、他人が黙っていることを、敢えて口にする。

神かがりの特色とは、キリストの為に、愚者を装う点である。現在における最後の審判代行者という事である。

従って、どのような権力の前でも、膝を屈することは無い。

ドストエフスキ-の最後の小説「カラマ-ゾフの兄弟」は、まさに神がかりのオンパレ-ドである。

最も典型的なのは、次男イワンと三男アレクセイの二人の母親である。この母親から、無神論者と修道僧が、生まれたのである。しかし、この母親より注目すべき存在は、下男、料理人スメルジャコフの母親 エリザベータ・スメルジャチシャ。

引用。「一生通して、女は夏も冬も同じ麻の肌着を、身に着けちまま、裸足で歩きまわっていた。神がかりというので、街のどこにでも転がり込むことが出来たので、家には稀にしか戻らなかった。」

さて、「カラマ-ゾフの兄弟」最大の、神がかりは誰かと問われると、誰もが三男アレクセイの名を

告げるであろう。そして、ドストエフスキ-自身、アレクセイについて、「貴方は、神がかり一年生」と

言っているし、他人が黙っていることに、敢えて声を発する場面がある。

「カラマ-ゾフの兄弟」は、主フョードル殺しの犯人探しと言うミステリ-である。その真の謎解きは、

ことによると神がかりであるアレクセイによってなされるかもしれない。

父殺しの真犯人を巡って、深い疑念に陥ったイワンに向かって、アレクセイは次の様に言う。
「父を殺したのは、貴方ではない。」

ドストエフスキ-は、真実の唯一の声の担い手として、アレクセイの言葉を配したのである。
「父を殺したのは貴方」

 

「コメント」

 

今日も悪戦苦闘。最後まで分からなくなった。決して、小説を読む気にはならないぞ。