今日は人間の最も根源的な罪とは何なのかについて考える。ドストエフスキ-の世界観の根底には、人間は罪深い、邪悪な存在だ、だから人は誰の裁き手にもなり得ないという認識がある。

しかし、過去に一度として、悪いことをしたことは無いという云える人は、皆無であろう。

どんなに気高く見える人間にも、一つ二つ、思いしだしたくない、罪の認識がある。だから、人は自らの罪と正当化を求め、他人の不幸を喜ぶのである。

ドストエフスキ-は言っている。「人は、正しい人の堕落と恥辱を愛する」 これは、「カラマ-ゾフの兄弟」の一節である。

ドストエフスキ-はこうも書いている。「高潔な心、孤高な清い愛、完全な自己犠牲の心を抱いている人間が、同時にテーブルの下に潜んだり、下劣極まる連中を買収したり、この上なくはしたなく、汚らわしいスパイ行為や盗み聞きと馴染んでいるのであろうか。」

さて、人間というものは、法に問われることがない限り、即ち疚しさとして、胸の内に秘めることが出来る限り、自分の罪に関して寛容である。

「他者の死の願望」  最も重大な罪

さてここで改めて考えてみたい。そもそも法的に問われることのない内心の重大な罪とは、何なのだろう。私見だが、それこそが他者の死への、願望ではないだろうか。他者の死への願望には、色々な形がある。恋愛関係において、ライバルを抹殺したいという願望、出世街道に障碍として立ちはだかる他者の死の願望もそれである。

他者の死の願望は、時として、愛する人にも向かうことがある。

いずれにせよ、それらの願望には、自己保存の本能が原動力になっている。殺人という行為は、個人的な動機が、相手の排除の欲求へとグロテスクに高まる瞬間に発生する。

「カラマ-ゾフの兄弟」で長男ドミトリ-が、最終的に無実の罪を引き受ける背景には、自ら父親の死を願望したという原罪的な感覚があった。また同じ「カラマ-ゾフの兄弟」に、登場する謎の客は、自分が過去に犯した殺人という罪を打ち明けた為に、却って打ち明けた相手を抹殺したいという憎悪にかられる。このエピソ-ドは、年月にまたがる罪の苦しみが、逆にその人間にとって、その人間たる所以、即ちその人間の揺るぎない、アイデンティを形成するまでに至っていたことを物語っている。罪を告白したことによって、そのアイデンティティが崩壊するのである。

「戦争・ナチズム・ヘイトスピ-チ」 独りよがりの正義

その一方、独りよがりな正義の観念に乗っ取り、抹殺ないしは排除は、社会にとって善であると見なして、他社の死を願望する場合がある。

極端に言えば、歴史的に何回も繰り返されてきた戦争が、その好例である。戦争は、国家間の憎悪であると同時に、しばしば個人間の憎悪へと転化していく。ナチズムのユダヤ人蔑視には、しばしばそのようなことが見られた。近年過激化しているヘイトスピ-チも、国家のアイデンティティと、自己のアィデンティテイとの境界の、消滅をむすびつけた、他者の死への願望と見ることが出来る。

他者の死への願望を巡って、極めて本質的な問いかけを行ったのは、「カラマ-ゾフの兄弟」であった。

修道僧のアリョ-シャが、無神論者の兄に向って、こう問いかける場面に注目しよう。「本当にどんな人間でも、誰それは生きるに値するか、値しないとかを、権利があるのか」アリョ-シャの考えはこうである。「人間の生命は、神の授かりものである以上、独りの人間に他者の生き死を、決定する権利などあろうはずがない。」思うにこれは、キリスト教の根本であり、犯すべからざる掟である。

だが、イワンはそうしたアリョ-シャの、親切な問いを、冷たく突き放して次の様に反論する。「何だってお前は、こんな問題に資格がどうだなんて、話を持ち込むんだ。この問題は第一に、人間の心の中で決められるもので、資格がどうだという問題ではない。別の原因に基づいているのだ。でも、権利という事で言えば、何かを願望する権利を持たない人間などいない。」

イワンの回答に、アリョ-シャは不安に怯えながら尋ねる。「でも、その願望って、他人の死の事ではないでしょう。」

イワンに言う願望とは、人間に本来的に備わった願望そのものを言っている。
フロイトならば、対象が誰であれ、この願望は死の本能ないし、死の絶望と名付けるであろう。

イワンの主張の背景に、隠されているものとはこうであろう。「人間は願望の奴隷である。奴隷である以上、その様な

願望を抱くことも許されるし、願望を抱くこと自体が、人間の存在の証である。」
無論、他者の死を願望することも人間が人間である事の証、存在証明の一つとなり得る。
ここで、付け加えておくなら、イワンが念頭に置いている他者とは、他でもない、現に同じ家で寝食を共にしている
父フョードルである。

イワンは笑いながら言う。「いいか。俺はいつだって親父を守ってやる。但しこの場合、俺は自分の願望に完全な自由を留保しておく。どんな困難に直面しようと、親父を死守する用意が自分にはある。しかし、だからといって、その父の死を願望する完全な自由迄譲る訳にはいかない。」恐ろしい矛盾である。矛盾ではなくて、これがイワンの主張なのである。

そしてその主張を文字通り、体現化するかのような行為に走る。それが、彼のモスクワ行きであり
そしてそうした矛盾した行動が、やがてカラマ-ゾフ家を致命的な崩壊と導いていく。

イワンの意識下の願望を忖度し、父殺しを決行するスメルジャコフは、こうほくそ笑む。「賢い人は

一寸話すだけで面白い。」

スメルジャコフの「一寸話す」というセリフには、限りなく深い意味が込められている。

ドストエフスキ-の自己中心主義と利他主義の分裂」

ドストエフスキ-の伝記を見ながら、読者が困惑するのは徹底した自己中心主義と、利他主義の分裂である。一方に肉親や知人に対する切実な思いの吐露と、自己犠牲的な行動がある。かとおもえば敢えて極端な言い方をすれば、他者の死を願望することに、何ら痛みを感じないエゴイスティックな内面を、見せることである。ドストエフスキ-のそうした分裂は、過去の幾つもの苦しい体験を免罪符として来たかのような趣もある。

特に最初の妻マリアとの結婚の後、彼の自己中心主義と利他主義の分裂は悪化の一途を辿る。

兄ミハイルの死と共に生じた、債権処理に苦闘する裏腹に、若い愛人アポリナ-シアとの、恋の逃避行を企てている。

ヨ-ロッパでは、ルーレットに没入し、借金の山を作る。それは自己中心を越えていた。

所が作品から浮かび上がる作者の像は、徹底した罪の意識に苦しめられた、心優しいヒューマニストの印象である。

更に「貧しき人々」が少なくとも、虐げられた人々に至るまで、作者は確実に物語の作り手として、

物語の外部に立っていた。しかし、罪の意識の表現には、徐々に強度が加わっていく。私はそこに、ドストエフスキ-と妻マリアとの冷めきった現実を見る。彼は病身のマリアを置き去りにして、ヨーロッパに再三旅立ち、ルーレットに没入する。その妻が、亡くなった時、友人にこう手紙を書く。「彼女は私を限りなく愛し、私も彼女を愛していたが、私たちは幸福に暮らすことは出来なかった。私がこれまで

知った女性たちの中で、最も誠実で高潔な女性であった。」

しかし現実は、この手紙に書かれた内容よりも、はるかにシビアであった。妻マリアの死の二週間前、彼は兄ミハイルにこう書いている。「妻は文字通り、瀕死の状態である。毎日彼女の死を待っている瞬間がある。彼女の苦しみようは、恐ろしく心に響く。でも私は書き続けている。」一見してドストエフスキ-のドライさが窺われる文章であるが、これこそが彼にとって、あるがままの状態であった。

妻マリアの死は、既に確定し待ちの状態にある以上、他者の死の願望がここで問題になることは

無い。

問題はいつ死ぬか、極めて即物的な問いに変質している。ここにヒントが隠されている。マリアを失ったドストエフスキ-の喪失感は、尋常ではなかった。

若い愛人アポリナ-シアとの恋が破綻してから八か月なので、反省の時間もあったはずである。

そこでドストエフスキ-の辿りついた発見とは、自分を常に相手を苦しめる事によってしか、他人を愛せない人間であるという事であった。これが自称、マゾヒストの真実なのである。引用する。「愛するという事は、私にとって、暴君の様に振舞い、精神的に優位に立つことを意味する。性愛や

情熱や自己の追及は呪わしい。

堕罪とは、人類の始祖アダムとイブが神の命に背いて、原罪を背負い楽園から追放されたことを云う。人類はこの堕罪の結果、現在の死と苦悩に縛られることになる」。人類全体の運命が、まさにこのおかしな男の人生と、一体化するのである。

このおかしな男の認識は、ドストエフスキ-の全ての登場人物にとっての出発点になった。この事を次の様に置き換えれば、文意は明らかになる。堕罪の原因は人間のエゴだ。

さてこれから引用するのは、妻マリアの死の翌日に、ドストエフスキ-がテーブルの上に安置された

遺体を前にして、記録した文章である。これ以上に作家の心の真実を解き明かすことは無いと言える程、真摯さに溢れた文章である。

彼は自分を呪っている。キリストの名において、自己も救い難い堕落を呪うのである。

「マリアがテーブルに横たわっている。キリストの戒律のままに、人間を自分自身と同じ様に愛する事、それは不可能だ。地上における個としての人生の法則が、我々を縛っている。自我が妨げとなる。しかし、キリストのみがなり得たが、キリストは人間が目指している理想なのである。

「堕罪の克服の道 ル-レット」

ドストエフスキ-は考える。自我を滅ぼし、それを進めることは最大の幸福であり、そこでヒューマニズムと合体する。それこそが、楽園であり、人類の歴史は、そこに至る戦いなのである。

 

ドストエフスキ-は堕罪の根源にある者は性愛である事を、そして性愛こそが、諸悪の根源であることを認識している。

ではどうしてその罪を遁れることが出来るのか。
一切の性愛を克服し、超越する世界に生きることは、果たして可能なのか。ドストエフスキ-性愛からの解放の道を、
必死に求めていた。

しかし現実に性愛は存在する。彼がかりそめにも、その克服の道を発見したと思った瞬間が、あるのではないかと思う。それこそは、ル-レット。ル-レットが提示するのは、運命の平等性で、その前で、人間の無力と無意味さであった。

 

さて「罪と罰」の完成後、直ちに着手された「賭博者」で、何よりも驚くのは殆ど全ての登場人物が、罪の意識を欠落させていることである。同じ長編小説のジャンルでありながら、「賭博者」は、他の長編小説と全く趣の違う作品となった。

読者は物語の始めの部分で、「賭博者」の主人公全員が、モスクワからのある電報を、待受ける事を知らされる。

モスクワに住むお婆さんことアントニ-ダである。登場人物の殆ど誰一人、そうした他者の死の願望に対して、道義的な感情を抱いていない。

「ル-レット」

では何故この様な罪の感覚の不在が生じるのか。その理由は、「賭博者」で描かれるル-レットゲ-ムそのものの-二バル的性格による。一握りの勝者と、圧倒的敗者からなるル-レット場には、「罪と罰」の主人公ラスコ-ニコフが、かって思い描いた二つの階層、即ち撰ばれたもの、撰ばれざるものの二つの階層が存在している。即ち一握りの勝者と、圧倒的多数の敗者。

「罪と罰」の世界では、この二つの階層間には、モビリティがない。ラスコ-リミフはまさにこれらの階層間のモビリティに、挑戦したといっても過言でない。というのも、彼自身自分がその二つの階層のどちらに属するか判断しかねているからである。「罪と罰」では、勝者と敗者は殆ど最初から、運命によって決められている。所が「賭博者」の世界は、まさにモビリティそのものの世界である。勝者と敗者は一瞬の間に入れ替わるのである。多くは敗者となる。まさに運命論的世界に世界でありながら、同時にここにはカ-ニバル的な世界が現出している。一種の条である。ル-レット場では、生と死の観念それ自体が、麻痺している。

従って死という観念も絶対性も、又失われてしまうのである。

ル-レットとは金に関する観念を麻痺させると同時に、個人の死をめぐる想像力から人間を解き放つ遊戯である。

従って他人の死の願望も、特に責められることのない正義とさえ見做すことの出来る、倒錯的空間と言うことも出来る。

賭博者の持つ極端なニヒリズムを、克服すべく書かれた作品が「白痴」である。登場人物に二重写しした、完全に

美しい人物を配した。そして彼は世界を救うという言葉まで吐かせる。しかし「白痴」は思いがけず、

深い陰影に彩られた作品に仕上がった。そして、今日のテ-マ「他者の死への願望」という問題に

焦点を当てるならば、まさに他者の死をめぐる悲喜劇に、結実してしまったという事が出来る。

「白痴」において、他者の死への願望の犠牲となるのは、ほかならぬ物語のラストで、億万長者のロゴ-ジンによって殺害されるナスタ-シャそして、「白痴」の主人公ムイシュキン、更には重い結核に

苦しむイッポリ-トそしてこの三人の運命を司るのが、他者の死への願望者である百万長者ロゴ-ジンなのである
ロゴ-ジンはまさに、さまよえる死の天使である。彼の生命力そのもののような存在に見えるが、彼の役割は最初から
最後まで、不吉な影を帯び、彼自身が生命力そのもののシンボルであるような場面に、遭遇することは出来ない。

ムイシュキン公爵殺害は未遂に終わるが、ナスタ-シャは彼のナイフによって殺害される。結核を病むイッポリ-ト少年の傍らに、死の影の様に寄り添うのもこのロゴ-ジンである。

次に「悪霊」における他者の死への願望にテーマを探ってみよう。妻マリアの死、「賭博者」の執筆をきっかけに知り合った速記者アンナ・スニートキナとの結婚、更には4年に渡るヨーロッパ放浪という経験を経て、ドストエフスキ-は確実に成熟を遂げていく。その彼で明確な意思を持って、他者の死を

願望というテーマに切り込んだ作品が「悪霊」であった。

この小説で、他者の死への願望で最大の対象となるのが、主人公スタブロ-ギンの妻で足の悪い神かがりの女、又しても妻の死という問題が浮上してくる。彼女は、ドストエフスキ-の最初の妻マリアの最晩年の影を背負っていることを、しばしば指摘される。「悪霊」の中で、スタブロ-ギンは次の快楽に踏み出そうと、マリアの抹殺を空想する。

その秘められた願望を忖度し、現実化するのがフェージカである。このフェ-ジカという名前が、ドストエフスキ-の名前フョードルの愛称形であることが重要である。ドストエフスキ-の現実の妻の名はマリア、つまりここには作家の内なる秘密が隠されている。
このモチ-フに注目するのは、まさにこの構図は
「カラマ-ゾフの兄弟」における、イワンとスメルジャコフの関係を、先取りするものとなっている。他者の死を願望すること、それが人間の最も深い罪であるという自覚、それが明確に示されたのが、「カラマ-ゾフの兄弟」におれる父殺しであった。「カラマ-ゾフの兄弟」の下男スメルジャコフから、明日にも長男のドミトリ-が、父フョードル殺害をし兼ねない示唆されているにも関わらず、イワンはそれを無視してモスクワへ出発する。
注意したいのは、父親が殺害される日、モスクワへの出発を明日に控えた夜のイワンの行動である。

「カラマ-ゾフの兄弟」に中でも、最も重要な場面の描写を引用する。

「この夜の事を思い出すたびに、イワンは一種独特な自己嫌悪と共に、ある一つの光景を蘇らせることになった。

彼は何回かソファから身を起こし、誰からか覗き見されていないかと、ひどく恐れてでもいるかのように、こっそりドアを開けて階段に出た。そこから彼は、階下の部屋の様子や、父親のフョードルがみ動きしたり歩き回ったりする動きに耳をそばだてた。それも毎回五分位ずつ、奇妙な好奇心で息を潜め、胸をドキドキさせて聞いていた。

この行為を彼は一生通して、汚らわしい行為と呼び、生涯を通して密かに、自分の人生で最も卑劣な行為と見なした。

明日、父が殺されるかもしれないことを、イワンは理解している。しかし、彼はモスクワへ旅立つ決心をしていた。

その彼が、殺されるかもしれない父親の同棲に、恐ろしい好奇心をかきたてられている。」

ではドストエフスキ-は何故、その行為を全人生で最も卑劣な行為と書いたのであろうか。

それはまさに、他者の死を望む行為だったからに、他ならない。他者の死への願望、まさに神の不在を決定づける証といえる。

ドストエフスキ-はだからこそ、この問題に関わり続けたのである。自分の人生で最も卑劣な行為、
他者の死の願望とはまさに、それだけの重みを持った罪深い宿命というのが、ドストエフスキ-の

認識である。

 

「コメント」

 

ロシア文学の中でも難解とされるドストエフスキ-、読む気は更になくなった。
よって、このまことに難儀するこの講義を、続けることにする。終わらない講義はない。