211028④「『海ゆかば~軍事をつかさどる一族の末裔として」

前回は安積皇子の挽歌について話した。家持25歳。この二年後に従五位下。いわゆる殿上人となる。中級官僚の一番下。天平18(746年に越中守。国府は富山県高岡市。在任期間5年。家持

歌日記の中でも、17-19巻は越中守時代の物。

(金 発見)

陸奥の金発見により、天平21(749))5月、大伴氏は聖武天皇の宣命の一部で触れられている。

当時大仏建立用の金が欠乏していたが、この年陸奥国より金発見の報で、朝野は沸き返った。そして天皇は宣命を出して、喜んだ。その中に、大伴氏にも言及し、古くから天皇を守る氏として賞賛している。

宣命

独特の文体。天皇・光明皇后・阿倍内親王(皇太子)が並んで、左大臣橘諸兄が述べる。

・陸奥国からの出金を祝う  仏の光明である。

・藤原氏と特に不比等のお陰である

・大伴氏は、昔から天皇を守ってきた功績が大きい。その心を忘れないで仕えて欲しい。

・大伴家持 従五位の下→従五位の上

家持は、これに感激して長歌と反歌3首を作る

長歌  4-4094

蘆原の 瑞穂の国を 天下り 知らしめしける すめろきの 神の命の 御代重ね 天の日継と 知らし来る 君の御代御代 敷きませる 四方の国には 山川を 広み厚みと 奉る 御調宝は 数へえず 尽くしもかねつ しかれども 我が大君の 諸人を 誘ひたまひ よきことを 始めたまひて 金かも たしけくあらむと 思ほして 下悩ますに 鶏が鳴く 東の国の 陸奥の小田なる山に 黄金ありと 申したまへれ 御心を 明らめたまひ 天地の 神相うづなひ すめろきの 御霊助けて 遠き代に かかりしことを 我が御代に 顕はしてあれば 食す国は 栄えむものと 老人も 女童も しが願ふ 心足らひに 撫でたまひ 治めたまへば ここをしも あやに貴み 嬉しけく いよよ思ひて 大伴の 遠つ神祖の その名をば 大久米主と 負ひ持ちて 仕へし官 海行かば 水漬く屍 山行かば草生す屍 大君の 辺にこそ死なめ かへり見は せじと言立て 大夫の清きその名を いにしへよ 

今のをつづに 流さへる 祖の子と゜もぞ 大伴と 佐伯の氏は 人の祖の 立つる言立て 人の子は 祖の名絶たず 大君の まつろふものと 言ひ継げる 言の管ぞ 梓弓 手に取り持ちて 剣太刀 

腰に取り佩き 朝守り 夕の守りに 大君の 御門の守り 我をおきて 人はあらじと いや立て 思ひし増さる 大君の 御言のさきの「一云 を」 聞けば「一云 貴くしあれば」

蘆原の瑞穂の国を天から下ってきて治められた皇祖神。その神の命が幾代も重ねて、次々と代を

日継ぎなされた。どの御代も治められている四方の国々には、山や川があり、国土は広く豊か。献上

申し上げる御宝は数えきれず、尽くしきれない。けれども、多くの人を率いて、立派な軍事力を始めら

れ、黄金もあるだろうと思っておられた。この事が心にあった頃に、東の陸奥国の小田なる山に黄金

があるとの報告を受けられた。それが明らかになって、神々共々喜ばれた。皇祖神の助けで、遠い

御代から懸案だったことが現実化した。官人たちも心から心服して、老人や女子供の心も、平安に

なさった。この事を私は貴く思い、ますます嬉しい。大伴の遠い祖先の神、その名も大久米主と

いう誉を背負って、お仕えしてきた一族である。「海を行けば、水に沈む屍、山を行けば草に埋もれる

屍となって、大君の傍で死ぬのは本望である。決して顧みることは無いと、誓った一族である。此の

丈夫の潔い名を古より、今まで受け継い

できた子孫である。大伴と佐伯の氏は、祖先が立てた誓いのままに、子孫はその名を絶やさず、大君

におつかえする。そう云い継がれた来たのだ、大伴は。梓弓を手に取って、剣太刀を腰に帯びて、

守るのだ。朝に夕に大君の御門を守るのは自分をおいていないと、いよいよその思いは強くなるばか

りである。大君の御言葉の有難さはその内容を知れば尊いものだ。

反歌1 4-4095

長歌に対する反歌は、長歌に歌われている事を、もう一度繰り返すという性格がある

ますらおの 心思ほゆ大君の 御言の幸を 云々を聞けば貴み云々 貴くしあれば

先祖伝来の、雄々しい心が湧き上がってくる。大君の御言葉の有難いのを聞けば。

反歌2 巻4-4096

大伴の 遠つ神祖(かむそ)の 奥城(おくつき)は しるく標立て 人の知るべし

大伴の遠い祖先の墓所は、標(しめ)を立てて、人が見て分かるようにしよう

反歌3 巻4 4097

天皇(すめらぎ)の 御代栄むと 東なる 陸奥山(みちのく山)に 黄金(くがね)花咲く

天皇の御代が栄える様にと、東にある陸奥山に黄金の花が咲いた。

 

天皇が、黄金が出て大喜びしているのは、大仏建立のために、それだけ金を渇望していたのと、瑞祥

として治世が栄えることを喜んだのである。聖武天皇は病気がちで、仏にすがっていた。そして、既に

出家して藤原氏の言うままに阿倍内親王に譲位することを決めていた。この事を、藤原氏の抵抗

勢力の家持はどう思っていたのであろうか。任地の越中にいつまでいるのだろうか。

 

4-4090 天平感宝元年 越中で

行方なく ありわたるとも 時鳥 鳴きし渡らば かくや偲ばむ

途方に暮れた日々を送ることがあっても、ほととぎすが鳴くと気が晴れることもあるなあ。

 

「コメント」

藤原氏隆盛の中で、古代からの名門大伴氏は衰退していく。氏の長者としての焦りが出てい

る。万葉集の中での家持のイメ-ジ、気楽な名門の坊ちゃんとは違うのである。