211111⑥「万葉集十九の越中秀吟の世界」

万葉集巻19は日記らしさが強く、異色である。特に冒頭の12首は、三日間の感情の起伏を、視覚的・聴覚的な表現を組み合わせて、気分の揺らぎを歌っている。漢詩ではよく取り上げられる譬喩を取り入れ、他にはない描写方法を取っている。桃、李(すもも)という言葉も漢詩的である。

天平勝宝元年(749)孝謙天皇が即位。これらの歌が作られたのは、その次の年である。

19には傑作と言われる歌が多い。巻頭の12首、巻末の3首と言われる。越中での3年間を終えて、家持は帰京する。

 

19-4139

春の園 紅にほふ 桃の花 下照る道に 出で立つ娘子

春の園に、紅に輝く桃の花。その下の道も輝いている。そこに立っている乙女達の素晴らしいことよ。

19-4140

我が園の 李の花が 庭に散る はだれの未だ 残りたるかも

我が庭の園のはだれ模様は、白い李の花が散り敷いたものだろうか。それとも、春の淡雪が消え

残っているのだろうか。

19-4141

春まけて もの悲しきに 小夜ふけて 羽振き鳴く雁 誰が田にか住む

春を待ちかねて、物悲しい今宵も更けていく。羽ばたいて鳴いている雁は、誰のたに住んでいるの

だろうか。

19-4142

春の日に 張れる柳を 取りもちて 見れば 都の大道(おおじ)を 思ほえるかも

春の日に、芽吹いてきた楊の小枝を、折り取って、見てみると、都大路の柳並木が思い出される。

19-4143

もののふの 八十娘子らが 汲み乱ふ(まがう) 寺井の上の 堅香子(かたかご)の花

大勢の乙女たちが、寺の井戸で、入り乱れて水を汲んでいる。そこに咲いているカタクリの花の

様だ。

 

帰る雁(カリガね)を見る歌 二首

19-4144

燕来る時 になりぬと 雁は 国を思いつつ 雲隠り鳴く

燕ががやってくる季節になったと、雁が国を懐かしみながら、雲に隠れて鳴いている。

19-4150

朝床に 聞けば遥けし 射水川 朝漕ぎしつつ 唄ふ舟人

朝寝ながらに聞いていると、遥かに射水川を漕ぎながら唄っている舟人の声が聞こえてくる。

 

三日、守大伴宿祢家持の館で宴をした時の歌三首

19-4151

今日のためと 思ひて標し あしひきの 峰()の上の桜 かく咲きにけり

今日という日の為に、私がしるしをつけてきた峰の上の桜が、こんなに見事に咲きました。

19-4152

奥山の 八つ峰()の椿 つばらかに 今日は 暮らさね ますらをの伴(とも)

遠い山の峰にさく椿のように、存分に今日一日をお過ごしください、立派な勇士の方々よ。

19-4153

漢人(からびと)も 筏浮かべて 遊ぶといふ 今日こそ我が背子 花かづらせよ

唐の人も今日は筏を浮かべて遊ぶそうだから、こんな日には、皆さん、花で髪を飾りましょう。

 

三首とも今日と言う言葉を使っている。待ちに待った今日と言う響きが伝わって来る。

これらが優れた歌とされているのは、一つには独自の素材で独自な表現だからである。

例えば 桃の花、李・・・・

又秋の雁はよく歌われるが、帰っていく春の雁は今までにない。

特に帰っていく雁は、帰雁(キガン)と言って、漢詩の題である。桃、李も漢詩の素材である。

漢詩で取り上げられた素材は、使わないというのが不文律であった。家持はそれを敢えてやっている。

表現法の独特である。視覚的、聴覚的と言った漢詩にあるやり方を利用している。

その例を見てみよう。

8-1494

夏山の 木末(こぬれ)の茂に ほととぎす 鳴き響(とよ)むなる 声の遥けさ

夏山の梢の茂みで、ホトトギスがあたりに響くように鳴いています。その声は遠くまで聞こえています。

四月十六日夜 遥かにほととぎす啼くを聞きて、思いを述べる歌一首

17-3988

ぬばたまの 月に向かひて ほととぎす 鳴く音遥けし 里遠みかも

夜空に向かってほととぎすが鳴く。その音は遥か彼方から、か細く聞こえてくる。まだ人里遠い所に

いるのだろうか。

 

16歳の時に初めて歌を作った。この歌も発想も漢詩から来ている。

6-994

ふりさけて 三日月見れば 一目見し 人の眉引 思ほゆるかも

ふり仰いで三日月を見ると、一目見たあの人かの眉が思いだされるなあ。

 

こうした漢詩の譬喩を使いながら、家持はこういう光に対する感覚を磨いていく。

巻頭の部分は望郷の思いを中心にしながら、三月三日前後の気分の揺れを描いている。評価が

高いのは、独自の素材と、独自の漢詩からの技法で、創造性のある作品となったからであろう。

 

「コメント」

ワ-ドの不調で、丸一日ロスした。原因不明、隣の渡辺さんの協力で何とか復旧。基本が無いのでトラブルに弱い。歌はとても分かり易く、具体的で好きである。