2111258「橘諸兄と家持」
当時の最高権力者と、家持のやり取りを見て行く。
(橘諸兄)
天武13年~天平勝宝9年(73歳))。父は皇族の美努王(敏達天皇の後裔)、母は県犬養三千代(後に
藤原不比等と再婚)。光明子(光明皇后)は、異父妹。最初は葛城王と言っていたが、天平8年に臣籍降下し弟佐為王と共に、母の橘姓を継ぐことになる。
橘氏は母(県犬養三千代)が後宮のトップであったので、その貢献を讃えて賜った姓である。
臣籍降下のその翌年、天然痘大流行で、藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)が全員死去。
この結果、橘諸兄が台頭してくる。間に長屋王の変もある。大納言となり、右大臣となり、政権を
握り、天平21年正一位。天平勝宝2年には宿祢姓から朝臣姓となり、最高位となる。
天平8年に臣籍降下し、橘姓を貰って橘諸兄になる時の歌がある。聖武天皇の御製歌として、
巻6-1009 聖武天皇
橘は 実さへはなさへ その葉さへ 霜降れど いや常葉(とこは)の樹
橘は、実も花も、その葉までも 霜が降りても、益々常緑の木であることだ。
これに対して、橘宿祢奈良麻呂(橘諸兄の長男)が御製に応えて歌っている。
巻6-1010 橘 奈良麻呂
奥山の 真木の葉凌ぎ 降る雪の 降るは益すとも 地(つち)に落ちめやも
奥山の真木の葉をなびかせて、降る雪が、より一層降ったとしても橘の実が地に落ちることはあるでしょうか。→橘の木に一族の繁栄をかけて、父に代わって歌っている。
(歌日記の中で橘諸兄はどのように表れているか)
初めて出てくるのは天平18年正月。この時は従一位左大臣。大雪が降ったので、大納言藤原豊成などと太上天皇(元正天皇)の御所の雪かきに行った。奉仕の後で酒を下賜され、雪を題材に歌を作りなさいと仰った。
この時の橘諸兄の歌。
巻9-3922
振る雪の 白髪(しろかみ)までに 大君に 仕へまつれば 貴くもあるか
振る雪のように、白い髪になるまで、大君にお仕え申し上げることが出来たのは、何ともありがたい、幸せなことである。
この時に家持も歌っていて
巻17-3926
大宮の 内にも外にも 光るまで 降れる白雪 見れど飽かぬかも
白い雪が、宮中に内にも外にも光る程に降り積もっている。見飽きることがないほど素晴らしい。
家持は最初の歌からして、三日月の光を歌ったり、天平勝宝2年3月の歌 越中秀吟の一つ
見れば飽かぬかもは人麻呂以来の伝統的表現である。
巻19-4139 この歌の様に物の輝きを歌うことが多い。家持らしい歌である。
春の園 紅にほふ 桃の花 下照る道に 出で立つ娘子(おとめ)
春の庭が紅色に美しく輝く桃の花が、木の下まで照り映えている道に出でて、たたずむ娘たちよ。
この他、出席した官人たちの名前が出ているが、最後にチョットした逸話がある。
諸卿は詔に応えて歌を作り、奏上した。但し秦忌寸朝元(帰化人)に、左大臣橘卿が「歌が作れなかったら麝香をその償いにしてもいいぞ」と、からかったので歌を作るのを止めてしまった。
この様に橘諸兄は、磊落な所があった。
家持の歌に橘諸兄の長寿を祝う賀歌がある。家持と諸兄の間は親しい。
(諸兄と家持の関係)
巻19-4281天平勝宝4年11月27日に
橘奈良麻呂が公務で但馬に出張することになった。餞別の宴が開かれた。
白雪の 降り敷く山を 越え行くかむ 君をぞもとな 息の緒に思ふ
白雪の降り敷く山を越えていく、あなたを想うと、心底辛い思いがします。
これには註が付いていて、橘諸兄にこの歌の添削を求めた。諸兄は最初、息の緒に思ふ→息の緒にするとした方がいいと伝えたが、後に元の通りがいいと撤回した。このように、相当な身分差があるが、二人はそれを越えて、フレンドリ-であった。
家持にとって諸兄は、聖武天皇夫人光明子の異母弟にあたり、非藤原氏の中で頼りになる人であった。諸兄の息子・奈良麻呂の宴に出たこともあるし、橘氏全体と親しかった。
(橘諸兄の失脚)
ところがこの人が失脚するのである。天平勝宝5年、巻20に入ると雲行きは怪しくなる。
巻20-4304 天平勝宝5年3月25日 橘諸兄が山田比売島の邸宅で宴する歌一首 諸兄への
賀歌である。
山吹の 花の盛りに かくのごと 君をみまくは 千年にもがも
山吹の花の盛りに、このようにあなたとお会いずることが、いつまでも続いて欲しいものです。
これには註が付いていて、「右の一首、少納言宿祢家持 時の花を見て作る 但し未だい出さざる間に、大臣宴を退席・・・」 この退席の理由は分からない。家持の歌は披露せずに終わった。
巻20の歌はこういう歌が多い。その後、家持が諸兄と同席することは無い。
(諸兄にかんする歌)
巻20に何首か、諸兄に関する歌が出てくるので紹介する。
天平勝宝7年5月11日 左大臣橘卿が右大弁丹比国人真人の家で宴するときの歌三首
巻20-4446 この一首は丹比国人真人が上司、諸兄を祝福した歌
わが宿に 咲けるなでしこ まいはせむ ゆめ花散るな いやをちに咲け
我が家の庭に咲くなでしこよ、お礼を上げるから、決して花を散らすことなく、更に新しく咲いておくれ
巻20-4447 左大臣橘諸兄が、上の賀歌に応えた歌である。
賄しつつ 君が生ほせる なでしこが 花のみ問はむ きみならなくに
貴方が褒美を与えながら育てたなでしこの花。その花を見る為だけで、あなたを訪ねるのではありません。
巻20-4448 左大臣橘卿が右大辨丹比国人真人邸での歌
あぢさいの 八重咲くごとく 八つ代にを 花のみ問はむ 君ならなくに
アジサイが八重に咲くように、久しく長生きしてください。あなた方の活躍を眺めています。
この宴には家持は参加していない。
続けて 天平勝宝7年5月18日 左大臣兵部卿(橘 奈良麻呂)の家にて宴する歌三首。家持は参加していない。
巻20-4449 治部卿 船主が諸兄を賀する歌
なでしこが 花取り持ちて うつらうつら 見まきほしき 君にもあるかな
なでしこの花を手に取って見る様に、じかにお会いしたいあなた様です。
巻20-4450 家持が、諸兄に対する賀歌を後から送っている。
我が背子が 宿のなでしこ 散らめやも いや初花に 咲は増すとも
あなたの家の庭のなでしこが、散ることは無いでしょう。新しく咲いてくる初花に勝って輝きを増すことはあっても。
巻20-4451 これも家持が賀歌を後から送っているもの。
うるはしみ 我が思ふ君は なでしこが 花になそえて 見れど 飽かぬかも
麗しく立派なお方だと思うあなた様は、例えばなでしこの花になぞらえて見ても、飽きることはありません。
(橘諸兄の勢力減退と更には失脚)
家持は、終始 橘諸兄を賀する歌を作っている。当時、家持だけではなく、周囲の人は皆そうであった。
賀歌を歌われるという事は、高位という事もあるが、一方では高齢という事もある。
実は諸兄は、天平勝宝年間、聖武天皇が譲位して孝謙天皇の時代となると、次第にその勢力は空洞化していく。
代わって、藤原光明子と藤原仲麻呂に権力を奪われていく。最後は密告によって失脚する。失脚するのは天平勝宝8年(756年)、翌年に73歳で死去。更にその後息子の奈良麻呂がクーデタ-を起こして刑死。
万葉集では、橘諸兄への密告があった頃、天平勝宝7年11月28日に、橘諸兄は兵部卿 橘奈良麻呂邸で宴。
巻20-4454 橘諸兄の歌う歌
高山の 巌に生ふる 菅の根の ねもころごろに 降り置く白雪
高い山の岩に生えている菅の根のようではないが、降り積もった雪の見事なことだなあ。
昔話などしながら、上機嫌であったという。
という事で、家持の歌日誌は、こういう歴史の暗部を抉り出している。歴史を裏書きしているのである。
「コメント」
私のレベルでは、萬葉集と橘諸兄は繋がってこない。知っているのは歴史として、大伴氏が橘氏と親しく、奈良麻呂の乱に連座したこと位である。確かに萬葉集は歴史である。