211209⑩「あらかじめ作る歌と奏上しなかった歌」

第五回で扱った吉野讃歌の題は「吉野離宮に出でませむ時の為に、まけ作る歌」であった。「まけ」とは、準備するという意味である。まけて作る歌と違って、あらかじめ作る歌と言う題の歌も歌日誌にある。全て家持の歌である。

越中時代の、天平勝宝239日に、七夕の歌を作ったが、その最初である。

 

あらかじめ作った歌七首

19-4163

妹が袖 我枕かむ 川の瀬に 切り立ち渡れ 夜ふけぬとに

私は妻と共寝をしたいので、この川の瀬を渡るから、霧よたちこめて私を隠せ、夜が深まらない内に

(まけ作る歌とあらかじめ作る歌)

特に七夕の歌として変わった所はないが、春39日なのに、七夕の歌を作ってしまっている。それは作った時点では、家持の待ち遠しさの表現という事になる。それは単に待ち遠しいという事ではなく、妻の愛しさである。

家持の父、大伴旅人は太宰府で開いた七夕の宴では、二つの星の出会いに自分たちが都に変えることを託しているという風に思われる。巻8には山上憶良も七夕の歌があり、旅人の邸で作ったのである。家持はそれを踏まえつつ、越中からの帰京と言うのを、七夕に寓意させていたという風に考えられる。まけ作る歌とでは、若干の相違がある。

七夕は77日に決まっているので、あらかじめ作る歌と言うのは、その日が来るのは分っていて、それより前に作るという意味である。

それに対して、まけ作る歌と言うのは、それがいつ行われるか分からないのだけれども、その場がもしあった場合に備えて、作っておくという意味がある。

しかし、それらは共に作った時点での、家持の期待と言うものを表しているという点では、両者に変わりはない。

一方それが作った時点にそのまま置かれているという事は、その期待が空しく裏切られたという事を意味する。

まけ作った吉野讃歌であったが、結局孝謙女帝の吉野巡行は行われなかった。

孝謙女帝の即位は、先の見えない皇位継承であり、恐らく家持はそれも織り込んで、披露されることもないであろう、吉野讃歌を作ったのであろう。

家持は越中より帰京する道中で、二つのあらかじめ作る歌と言うのを作っている。

 

京に向かう道の畔にて、興を覚えてあらかじめ作る歌一首 長歌

19-4254 天皇を賀している歌

あきづ島 大和の国を 天雲に 磐船浮かべ (とも)に舳()に 真櫂(まかい)しじ貫き い漕ぎつつ 国見しせして 天降りまし  払ひ平らげ 千代を重ね いや継ぎ継ぎに 知らし来る 天の日継と 神ながら 我が大君の 天(あめ)下 治めたまへば もののふの 八十伴(ヤソトモ)の男()のを 撫でたまひ 整えたまひ 食()す国の 四方の人をも あぶさはず 恵みたまへば 古ゆ なかりし瑞(しるし)(たび)まねく 申したまひぬ 手枕(タムダ)きて 事なき御代と天地 日月 と共に萬代に 記(しるし)継がむそ やすみしし 我が大君 秋の花 しが色々に 見したまひ 

 明きらめたまひ 酒みづき栄ゆる今日の あやに貴さ

雲の上に磐船浮かべ、船の(とも)から舳()先まで 櫂(かい)を取り付け、大和の国を漕ぎ進めなさって、国見をなさって、地上に降り立って、賊を平定し、幾千年も次々と治めてこられた、帝位の継承者として、大君が神の心で全土をお治めになるので、仕える大勢の官人たちを大切になさり、四方の民も大切になさるので、目出たいことが度々報告されている。徳の力でお治めになった時代だと、

天地・太陽・月と一緒にいつまでも記録され、語り継がれることだろう。

我が大君が色とりどりの秋の花を御覧になり、気分も晴れやかにおなりになって、宴をなさって栄える今日は貴いのだ。

反歌一首

19-4255

秋の花 種々(くさぐさ)にあれど 色ごとに 見し明きらむる 今日の貴い

秋の花には種類が沢山あるが、帝がそれらを色毎に御覧になって、気分をお晴らしになる今日の日の貴さよ

 

あらかじめ作る歌はもう一首あって、左大臣橘卿を賀するためにあらかじめ作る歌一首

19-4256

古に 君の三代(みよ)経て 仕へけり 我が大主は 七代(ななよ)申さね

昔、三代の帝にお仕えした人がいたが、諸兄様あなたは七代の帝に仕えて、政務をなさいませ

 

(家持の期待と、それが裏切られるということ)

これらは待望の帰京が実現して、家持が期待を持って臨む場面でも、あらかじめ作る歌だから、天皇が主催する宴、或いは橘諸兄を祝う場がその内に有るだろうと、その時の為に準備しておくという事である。それは都に向かう家持の心の弾みを窺わせるものである。5年にわたって越中暮らしをして、ようやくの帰京である。しかしこれがあらかじめ作る歌であるという事は、実際にはその期待が裏切られるという事も、あるということである。

天皇の宴で、詔に応えて歌うというようなことは、家持クラスの中級貴族にとっては、考え難い事である。

宮廷讃歌は柿本人麻呂、山部赤人という身分の低い漢人が作るもので、従五位下というように官位を持つものが作るものではないのである。

聖武天皇即位の年、父旅人が吉野讃歌を作っているが、結局奏上されなかった。それと同じ様に、家持の長歌も宮中で披露されなかった。そもそも、家持の長歌に歌われている天皇と言うのは、現在の孝謙天皇とは思えない所がある。

奇瑞が何度も起きたということは、孝謙女帝の在位期間には伝えられていない。それは聖武天皇の時代あったことである。どうも孝謙天皇を念頭に置いて作られたと思えない。

そして橘諸兄を賀するというのは、十分考えられる。しかしこの頃の諸兄には昔日の権力はなかった。賀歌ばかりが捧げられているのは、却って諸兄の衰えを露わにすることでもあった。

 

奏上しなかった歌という事になるが、家持が帰京してから、あらかじめ作る歌と言うのは少なくなる。代わって折角作ったのに、披露することなく終わったという歌が現れてくる。天平勝宝4年、聖武天皇が橘諸兄邸に行幸して、宴をやるが、その時に家持が作った歌。

19-4272 右の一首、いまだ奏せず

天地に 足()らはし照りて 我が大君  敷きませばかも 楽しき小里

天地をあまねく照らして大君が治めていらっしゃるから、この里も楽しく平穏でございます

この時この宴会に家持は出席しているが、奏上していなかった。巻20になるとこうした例が多くなっていく。

天平勝宝6325日 左大臣橘大臣邸の宴

20-4304 注には、大臣が宴が終わらない内に退席したので、奏上しなかったとある。

山吹の 花の盛りに かくのごと 君を見まくくには 千年にもがも

山吹の花の盛りに、あなた様にお会いすることが、千年も続いて欲しいものです。

 

その後聖武上皇が亡くなって、孝謙天皇は譲位して、淳仁天皇に代わるが、宮中に焼いて披露しなかった歌が連続して現れている。天平宝字2

 

20-4493 天皇主催の宴。孝謙天皇が玉箒を賜り、諸官人にそれぞれ歌ったり、詩を作る

       ようにと勅が下った。注によると、別の用事で奏上できなかったとある

初春の 初子()の 今日の 玉箒(はばき) 手に取るからに 揺らぐ玉の緒

新春になって、初めての子日(ねのひ)の今日、玉はばきを手に取ると、玉の緒が揺らいでいい音がした。

20-4494 この歌は、七日の宴の為に家持は作ったが、宴が9日になったので奏上せず

水鳥の 鴨の羽の色の 青馬を 今日見る人は 限りなしといふ

水鳥である鴨の羽の色をした、青い馬を今日見る人は、長寿を得ると言います

20-4495 奏せず とだけ書いてある。前の二つには理由がかいてあったが、これには

        無い。

うち靡く 張る友しるく 鶯は 上木の木間(こま)を 鳴き渡らなむ

ものがうち靡く春だよと、はっきりと告げる為に、鶯が木間にやってきて、鳴きわたって欲しい。

 

作っても作っても、奏することがなかったという事になる。やはり家持の宮中での、力を象徴している。

 

それと重なると思われるが、家持は難波で防人の歌の収集、報告を行っている。その時に歌を作っている。

20-4360 防人の歌を集めながら、天皇を賀する歌を作っている。そしてこれを、陳私拙懐

      (ちんしせっかい)歌としている。拙(つたない)歌と言う意味である。

皇祖(すめろき)の 遠き御代(みよ)にも おしてる 難波の国に 天(あめ)の下 知らしめしきと 今のをに 絶えず言ひつつ かけまくも あやに恐(かしこみ)し 神ながら わご大君の うちなびく 春の初めは 八十種に 花咲きにほひ 山見れば 見るのともしく 川みれば 見るのさやけく ものごとに 栄ゆる時と 見めしたまひ 明きらめたまひ 敷きませる 難波の宮は 聞こしめす 四方の国より 奉る 御調(みつき)の船は 堀江より 水脈(ミオ)引きしつつ 朝なぎに 楫引きのぼり 夕潮に 棹さし下り あぢ群の 騒ぎ競ひて 浜に出て 海原見れば 白波の 八重折るが上に 海人小舟(あまおぶね) はららに浮きて 大御食(オオミけ)に 仕へまつると をぢこちに いざり釣りけり そきだくも 

おぎろなきだも こきばくも ゆたけきかも ここ見れば うべし神代(かみよ)ゆ 始めけらしも

遠い昔から、帝は難波の国を治めてこられました。言うのも恐れ多い神様のご意思で、わが大君が治められる国は春になると花が色とりどりに咲き、山は見飽きることもなく、川は清らかである。あらゆるものが栄える頃になると、周囲を御覧になって気をお晴らしになる。都としておられる難波の宮には、四方の国からの貢物を運ぶ船が、難波の堀を水跡を引きながら、やって来る。朝なぎ時には、楫を操って、夕潮時には棹をさして下って来る。まるで、あじ鴨の群れのように、競い合って。浜に出て海原を見ると、白波が重なり合う海の上には、漁の小舟が浮いている。大君の食膳に供しようと、

あちこちで釣りをしている。なんと広大な事か。こんな風景を見ると、神代の時代から今日までお治めになってきたのは尤もなことだ。

20-4361

桜花 今盛りなり 難波の海 おしてる宮に 聞こしめすなへ

桜の花は満開だ。難波の海に光り輝く宮殿で、お治めになっているこの時に

20-4362

海原の ゆたけき見つつ 蘆が散る 難波に年は 経ぬべく思ほゆ

海原ののどかな景色を見ながら、蘆の花が散る難波で、一年くらい過ごしたいものだ

 

(家持の屈折)

長歌、反歌二首。内容は難波の宮の讃歌である。しかし長歌でも反歌でも、何故か天皇がここにいない時に歌っている。

当時の孝謙天皇は、平城京で、行幸の予定もない。それでも家持は、讃歌を歌っている。難波に天皇を描く出すことで、自分がいる場所が、理想郷であるかのように、歌の上で作り出している。

何故、陳私拙懐と言う題をつけたのか。それは、家持の屈折を表している風に思われる。作りながら、奏上できなかったと書くことも、家持のねじれた表現として見ることが出来る。

 

「コメント」

今回の講義の言わんとすることが良く解らない。作ったけど、発表しなかった歌なんて沢山あるはず。上の人にお世辞を言いたかったけれど、それを言う場さえもなかった。それが悔しいと、僻んでいるという事なのか。それでも萬葉集には出てる。