211209⑩「一族を教え諭す歌が意味するもの」

天平勝宝8歳に難波行幸が行われる。聖武上皇は、天平勝宝三年(749年)に譲位して、薬師寺で

出家生活を送る。続日本紀にも顔を見せなくなる。時折、不慮(病気)が記録されている。

万葉集では天平勝宝4年の11月に、橘諸兄邸に行幸して宴をしている。前回述べたように、その時に家持も同席しているが、歌は奏上しなかった。

その後も聖武天皇の健康は思わしくなかったとされる。

天平勝宝8(756)2月、突然上皇は光明皇太后と孝謙天皇と一緒に、難波の行幸が行われる。その時の歌が巻22にある。

 

天平勝宝8歳 21日に太上天皇、皇太后、孝謙天皇が河内の離宮にお出でになって、河内国伎人郷(大阪市平野区喜連)の馬國人(うまのふひとくにひと)邸で宴して歌三首

20-4457 家持の作

住之江の 浜松が根の 下延()へて 我が見る小野の 草な刈りそね

住吉の浜に立っている松の音は、地中深く延びている。そんな松の根のように心深く思っているので、私が見ている小野の草は刈らずにそのままにしておいてください。

20-4458 家の主人 馬國人の作

にほ鳥の 息長川は 絶えぬとも 君に語らむ 言尽きめやも

息の長い、カイツブリのような名前の、息長川の流れが、絶えることはあっても、あなたと語る話題は尽きません

20-4459 大原の真人今城の歌を大伴池主が披露した

蘆刈りに 堀江漕ぐなる 楫のの音は 大宮人の皆聞くまでに

蘆を刈るために、難波の堀江を漕いで上っているらしい、楫の音を大宮人の誰もが聞いているくらいだ

 

この次に、難波の堀江を歌う歌三首 家持の歌であろう 作者名も記されていないが

20-4460

堀江漕ぐ 伊豆ての舟の 楫つくめ 音しばし立ちぬ 水脈速みかも

堀江を漕ぎ行く伊豆で作られた舟の、楫のきしる音は、流れが速いのであんなに響いているのかな

20-4461

堀江より 水脈泝る楫の音 間もなくそ 奈良は恋しかりける 

堀江より水脈 泝(さかのぼ).っていく、楫の音が絶え間なく響く。奈良が恋しいなあ。       

まき20 4462

舟競ふ 堀江の川の 水際に 来つつ鳴くは 都鳥かも

競うように舟が行き交う、堀江の川の水際に、来て止まって鳴いているのは都鳥である

 

難波の堀江には聖武上皇が行幸している。その時の歌と解する人もいるが、私はそうではないと思う。

歌の内容で、上皇が難波にいるにもかかわらず、家持は京を恋しがっている。そういう歌を作る状況には無いと思う。

難波の行幸と言うのは、美しい時に行幸があったらどんなだろうと、行幸の前年に家持が仮想から歌って歌であるが、それが現実には実現している。

だから行幸が現実にあった現在は、むしろ都を恋しがっている疎外感を感じている風に、思われる。

 

その次はホトトギスの歌二首ある。家持興に乗って作る歌とある。

20-4463

霍公鳥(わととぎす) まず鳴く朝明(あさけ) いかにせば 我が門過ぎ かたりつぐまで

ホトトギスが初めて鳴く朝誰も気付かないまま、ホトトギスが飛び去って行くというのが、それが語り草となるというのに

20-4464

霍公鳥 かけつつ君が 松影に 紐解き放くる 月近づきぬ

ホトトギスの声を気にしながら、君が松の木陰で、着物の紐を解いて解放的になる季節になった

 

歌の内容から平城京の自宅と考えられる。まだ行幸は続いているが家持は帰ってきている。どうも家持は聖武上皇、光明皇太后孝謙天皇に会わずに帰ってきたみたいである。そうしている内に、聖武上皇の崩御である。難波滞在中にも病が伝えられていた。そして417日に帰京し、52日に崩御する。家持はそのことについて一言も触れていない。しかし、617日の作として、三つの歌文があるが、それには聖武上皇崩御が色濃く影を落としている。

 

一族(やがら)を諭す歌一首、また短歌 近江の真人の讒言に由りて、大伴出雲守大伴古慈斐宿祢が左遷されたのでこの歌を作った

20-4465

久かたの 天の門()開き 高千穂の 岳に天降りし 天孫(すめろき)の 神の御代より 櫨弓(はじゆみ)を 手握り持たし真鹿児矢(まかこや)

手挟み添えて 大久保の ますら健男を 先に立て 靫(ゆき)取り負はせ 山川を 岩根さくみて 踏み通り 国境ぎしつつ ちはやぶる 神を言向け

まつろはぬ 人をも和(やは)し 掃き清め 仕へまつりて 蜻蛉島(あきつしま) 大和の国の橿原の 畝傍の宮に 宮柱 大和の立てて 天の下 

知らしめるける 天皇の 天の日嗣と 次第(つぎて)来る 君の御代御代 隠さはぬ 赤き心を 皇辺(すめらへ)  極め尽くして 仕へくる 

(おや)の職業(つかさ)と 事立てて  授け賜へる 子孫(うみのこ)の いや継ぎ継ぎに 見る人の 語り継ぎてて 聞く人の 鑑にせむを

(あたら)しき 清きその名ぞ 疎(おほ)ろかに 心思ひて 虚言(むなこと)も 遠祖(おや)の名絶つな 大伴の 氏と名を負へる 健男の伴(とも)

天孫が天の岩戸を開き、高千穂の峰に天下りした、皇祖邇邇藝命(ににぎのみこと)の神の時代から、始祖天忍男命(あめのおしおのみこと)から連なる大伴氏は、弓を手に持ち、矢を手に挟み添えて、もう一つの氏の祖である久米部の勇士は、先に立って矢を背負って、山河を歩き岩を割き分けて、皇都を求めつつ、皇神の勅を畏み、服従せぬ人々を帰させ、抵抗する人々を和合しつつ、進んでいった。このようにして国内を統一する大事業に

我等の始祖の久米大伴氏はお仕えしてきたのである。そして実り豊かな国となった時、神武天皇は大和の国畝傍山に橿原宮をお建てになり、この天の下を知ろ占めて、この世界を一つの家族とされた。そして、その建国の精神を受け継がれる後裔である代々の天皇が、大事業に取り組まれている。我等は一点の曇りもなく、明かき真を持って尽くしてこそ、祖先伝来の役目である。と大伴氏は、祖先より言いつがれて今日に至っている。

そしてその行いによって、この大伴氏は人々より、世の中で模範としなければならないと讃えられた来た清らかな名前であるぞ、大伴氏は。

それゆえに、疎かに思って、疎かな行動を取って祖先の大業に傷をつけてはならない。大伴氏の名前を頂いている一族の益荒男たちよ。

 

20-4466  淡海真人三船の讒言(ざんげん)に縁り、出雲守大伴古慈斐宿祢の任(まけ)を解()かゆ。是を以ちて家持の此の謌を作れり。

磯城島の 大和の国に 明らけき 名に負う伴の 男心つとめよ

大和の国に知れ渡る名を持つ一族の者よ、心して務めを果たせ。

20-4467

剣太刀 いよよ研ぐべし 古(いにしえ)ゆ さやけく負ひて 来にしその名び

剣太刀をいよいよ磨くべし。古の昔から、汚れのない清らかな氏として背負ってきた、その由緒ある

名なのだから

 

大伴氏の名誉を強調している。それを作った経緯が述べられている。讒言によって大伴古慈斐の左遷で、この歌を作っている。一族に教え諭しているのである。聖武上皇崩御によって、いよいよ孝謙女帝の後をどうするかという事が喫緊の課題となっていく。ともかく、重しになっていた聖武上皇がいなくなったことで、光明皇太后、藤原仲麻呂がいよいよ専権を振るう時代となった。結果的に見ると、崩御8日目の510日に、出雲守 大伴慈斐、朝廷を誹謗して左遷。続日本紀では、無礼な発言をしたと書いている。そもそも出雲守自身が左遷であるのに、衛士符で拘束されたという事であるが、嘘の讒言であり、橘諸兄が密告で失脚したように、藤原仲麻呂政権は、恐怖政治の結果である。

家持が一族を戒めているのはまさに現実的な対応である。

長歌で述べられている言葉は、聖武上皇が大伴氏を賞賛して述べた言葉を、受けて強調している。

聖武上皇は、かって家持が内舎人として直接仕えたのだった。上皇が出家して直接関係は無くなったが、家持は変わらぬ忠誠心を明らかにしている。

同じ日付でもう二つの歌になる訳であるが、

20-4468 病に伏して無常を悲しび作る歌二首

うつせみの 数なき見なり 山川の さやけき見つつ 道を尋ねな

この世に生きている人間は、儚いものだ。澄んだ景色を眺めながら、仏道に入りたい

20-4469

渡る日にの かげに競ひて訪ねてな 清きその道 またも会はむため

空を渡っていく陽の光と、先を争って清らかな仏の道に行きたい また再びお会いするために

 

ここで家持は大きく揺れている様に見える。家持は越中でも病をした。都の家族が彼を思う歌を作っている。中国文学では病は主題とされ、晩年の山上憶良も歌を作っている。しかしここでの家持は、修道、清き道を尋ねるという事を志向している。それは出家し崩御した聖武上皇の事が念頭にあるからであろう。

密告讒言の横行する政界から、聖武上皇のように、隠遁する願望が萌している。家持42歳。一族を諭す立場でもないのに、長歌で目下に教えを諭す歌を作っている。半ばこの世を退きたいとの願望を持っていたのではないか。

しかし最後に歌ったのは命を願って作る歌であった。

 

20-4470  

水抹(みつぼ)なす 仮れる身そとは 知れれども なほし願ひつ 千歳の命を

わが身がしずくのようなかりそめのものとは知っている けれどもやはり願ってしまう千年の命を

 

家持は大伴家本流の人だから、従五位下のままで死ぬわけにはいかない。もっと命を貰って、一族繁栄を図りたいのだ。

 

「コメント」

 

講義を聞いている内に、元々持っていた家持のイメ-ジが崩れてしまった。お父さん、おばさんの苦労を外に、貴族の気楽なぼんぼん。そして氏を盛り返すことも出来ずにしまった歌好きな男。藤原一族の専横檄する中で、大いに悩んでいるとは。