161021③「吾輩」はニュートン力学を理解する「猫」である。

前回は物理学者の水島寒月を話の主人公としたが、「今回は吾輩は猫である」の吾輩に光を当てる。

この小説を読んでいつも透徹(とうてつ)した猫の眼差(まなざ)しに感心させられる。この猫の姿は、人間の生態を観察する科学者の如くである。この小説は一般にはユーモア小説であるという印象であるが、猫が人間を見る鋭い観察眼に注目すると、寧ろ風刺小説が妥当であろう。人間の滑稽さ・愚かさ・悲しさ…これらが猫の目を通してえぐり出されているのである。

勿論、これは漱石の筆の力であるが。例えば人間の様子を観察している例である。

<猫が銭湯に行く場面>

「世界広しと云えども、こんな奇観は又とあるまい。何が奇観だと言ってこれを口にするのも憚られる程の奇観である。

このガラス窓の中にウジャウジャ、ガ-ガ-騒いでいる人間はことごとく裸である。・・・・なんで衣服を付ける様になったかを

考察する。人間は裸で生まれる。しかし平等で成長すると何をしても甲斐が無い。勉強・仕事など他人と自分は違うのだと、人の目に付く工夫をしたくなったのが人間なのだ。それが衣服に現れていると吾輩は考えている。・・・・・

自然が真空を嫌うが如く人間は平等で人と同じことを嫌うのだ。

この様に漱石は対句表現が上手い。似た表現は「野分」にも出てくる。

自然は真空を忌み、愛は孤立を嫌う

対句表現というのは、後ろの部分が、言いたいことの神髄である。何で漱石は対句表現を多用するか。後ろの方だけ

だとインパクトが弱い、前半を付けることでより強調できるのである。

<自然は真空を忌む>

これはギリシァのアリストテレスの自然学に由来する言葉である。彼は色々な例を出して、自然界には真空は存在しないと結論した。→「自然は真空を嫌うのだ」となる。猫はこんなことも知っていたのだ。

<余は思考する、故に余は存在する  デカルト>  我思う故に我あり  コギト アルゴ スム(cogito  ergo  sum)

猫が人間を見る透徹した目の鋭さというのには恐れ入るが、その背景には例を出したように猫の該博(がいはく)な知識がある。

何処で勉強したのかと思う。こういうことも言っている。

「余は思考す 故に 余は存在す   とデカルトは言っている。三つ子にでも分かる真理を考え出すのに10年も掛かった

そうだ。」これはデカルトの「方法序説」に在る有名な言葉である。猫に掛かるとデカルトも形無しである。

<猫は有名人の人名事典を知っている>

プ-シキン・アイスキッュロスギリシアの悲劇詩人・ガレモス・ラファエロ・ダラケリスス・ユ-ゴ-・バルザック・二-チェ・・名前を知っているだけではなく、彼らが何をやったかも分かっている。

<何故猫がこんなにも教養深くなったのか>

・知的レベルの高い人々の中で生きている   

・飼主がインテリの苦沙弥先生

・寒月や迷亭など来客が知識人  これらから吸収する

<猫はニュ-トン力学を理解している>

小説の中で、漱石の家の隣は「落雲館」という中学校があり、しばしば野球のボールが庭に飛び込んでくる。ここで

飼い主の苦沙弥先生は怒りだす。そして、猫は「ニュ-トンの力学法則」を説明しながら、ポ-ルが先生の頭を直撃しない

ことを説明していく。

「ニュートンの運動律第一に曰く、もし他の力を加えるに有らざれば一度動き出した物体は均一の速度を持って直線に

動くものと、もしこの律のみによって物体の運動が支配されるものならば主人の頭はこの時にアイスキュロスと運命を

同じにしたであろう」

  ・アイスキュロス

   ギリシァの悲劇詩人。猫の説明によると、頭上を舞っていた鷲が捕まえていた亀をアイスキュロスめがけて、

   落とした。それが頭に当たってアイスキュロスは死んだとされている。

もし「ニュ-トンの運動法則」が第一しかなかったとすると中学生がバットで打ったポ-ルはそのまま、直進してきて先生の

家の障子を破って、頭を直撃して、アイスキュロスと同じ運命を辿ることになると猫は言っているのである。所が幸運

にも、第二法則がある。猫の説明は続く。

  ・「ニュ-トンの第二法則」

   運動に変化は加えられた力に比例する。しかして、その力の働く直線の方向に於いて起こるものとする。

<猫の話のまとめ>    現在の高校物理のレベル

  第一法則(慣性の法)に従うと、物体の運動は、運動を保持しようとして、変化を嫌う性質である。

  つまり何の力も働かなければ、同じ方向に同じ速度で動いて行く。→等速直線運動

  何か力が働くと物体の運動に変化が起きる。重力が働くので、垂直方向に変化し、ポ-ルは放物線を描く。

  ポ-ルは庭に落ちて、先生は命を取り留めたのである。 →

 「ポ-ルが主人の頭を破壊しなかったのは、ニュ-トンのお蔭に相違ない」主人が中学生を捕まえて文句を言って

 いる横で、猫は力学を論じているのである。

漱石はニュ-トンが好きだったのだ。性格的にあっていたから。ニュ-トン力学というのは、近代科学の中で最初に

理論体系化された学問であったから。

<巨人引力>

もう一つ「吾輩は猫」で取り上げられているニュ-トン力学の「巨人引力」これは漱石の創作と言われている。

ケ-トという女の子が、男の子のポ-ル遊びを見ている。ポ-ルは上に投げ上げられるが、下に落ちてくる。ケ-トは

母に聞く「上に上に行かないで何故下に落ちて来るの」。母は答える。「地面に中に巨人がいて、力が強いので何でも

自分の方に引っ張るからよ」  これで慣性の法則と重力を説明しているのである。

 

この様に小説の中に、ニュ-トン力学を噛み砕いて面白おかしく溶け込ませた力量は大したものである。

ニュ-トンが「吾輩は猫である」を読んだら、感心することは間違いない。

 

「コメント」

私が読んだ時はとてもこうした理解は出来なかった。むしろこの人物観察、先生の変人ぶり、周辺人物の描写を面白

がっただけ。特に女性描写が辛辣。小説のこうした読み方もあるのだ。当時大ヒットしたが、読む層はどんな人達だったのだろうか。「不如帰」連載なので、一般の人達ではなくてそうした人種だったのか