科学と人間「漱石、近代科学と出会う」      小山 慶太 (早稲田大学教授)

 

161111⑥「漱石の俳句と寺田寅彦の科学研究」

「漱石と俳句」

漱石は英文学者・作家として知られているが実は多くの俳句を詠んでいる。それは友人の正岡子規との親交通じて句作に励むようになったのである。現在分かっているだけでも2400余りの作品が

ある。そのほとんどは熊本の第五高等学校教師だった頃である。

・熊本第五高等学校理科系の物理室・動物室・化学室を題材にした作品

 「南窓(なんそう)に写真を焼くや赤とんぼ」

 「暗室や心得たりとキリギリス」

 「剥製(はくせい)百舌鳥(もず)鳴かなくにいる淋し」

 「魚の祀らず(かわうそ)老いて秋の風」

 「化学とは花火を作る(すべ)ならん」  線香花火を意味している 

「寺田寅彦と俳句」

その頃に寺田寅彦が第五高等学校に入学。当時旧制高校にはこういう風習があった。学業試験に

失敗した生徒救済の為に、成績優秀な者が担当教師の家に進級を頼みに行くという事。寺田寅彦は成績優秀であったので、この事で漱石に家にしばしば行くこととなる。その時の思い出をエッセイ

「漱石先生の追憶」の中で「友人の重大な使命を果たした後で、自分は俳句とはどんなものですかと、質問した。それは漱石先生がかねてから俳人として有名な事を承知していたしその頃自分も俳句に興味が出て来ていたから。」これを契機に寺田寅彦も俳句を作り、漱石に講評して貰う為に

しばしば漱石邸を訪問するようになる。

その時の心境を「まるで恋人にでも会いに行くような気分で通った。」と書いている。

「漱石と寺田寅彦の関係」

気難しい文学者と物理学者が長い間に絶えることなく親しく付き合うというのは不思議である。二人がそういう間柄に なるきっかけは俳句であった。

明治32年に寺田寅彦は熊本の第五高等学校を卒業して、東京帝国大学に進学。その時漱石は

正岡子規宛に紹介状を書いている。「寺田寅彦は理科生なれどすこぶる秀逸の才子、(さと)り早き少年である。上京の説は、御高説を賜りに行くであろう。ご指導を乞う。」

寺田寅彦のエッセイ「漱石先生の追憶」には「線香花火の一本の燃え方には序破急があり、

起承転結があり、詩があり、音楽がある。これは漱石先生が熊本時代に詠んだように俳句の対象になると考えてよいと思う。化学を題材とした句は科学と俳句を融合する作品である。」

「寺田寅彦の線香花火の実験」

以上の事を具体化したのが、寺田寅彦の実験である。寺田寅彦の門下生の一人に人工雪の研究で国際的に有名な中谷宇吉郎がいる。彼の協力で線香花火のプロセスを解明するというユニ-クな

試みをする。そして論文を発表する。

科学の実験というのは、これまでに何度も話したように、知りたい対象の本質を取り出すために、

関係のない要因を如何に取り除くかがポイント。ご存知のように花火の火球が二次三次と生まれて小さな火花が発生する。それが美しい松葉模様を形成する要因である。この火球の中で進行する

化学反応を調べている。様々な段階の実験を工夫して、線香花火の一連の動きの解明をした。漱石が亡くなっても、こうした花火の実験を通して、二人の師弟関係は俳句を媒体として続けられていた事が分かる。二人のきっかけは俳句であったたが、それは漱石が没しても続く絆になったのである。

「寺田寅彦の椿と(あぶ)の実験」

「落ちざまに虻を伏せたる椿かな」  漱石

漱石の俳句を題材にした実験も行っている。似た句に「落ちざまに水こぼしたる花椿」 芭蕉

この椿の落下現象を寺田寅彦物理学者の目でこう読み解いている。昭和9年随筆「思い出草」に

「椿の花は最初俯きで落ち始めて、途中で回転して仰向けになっていく。この流れで行くと虻は伏せられることにならない。所が虻が椿の花に中に入っていると、重くなるので要因の変化で椿の回転の

仕方が変化する。よって虻を伏せることも有り得るのだ。」

こうして寺田寅彦は、漱石の句を題材にして様々な工夫をして物理実験を行う。研究成果は漱石

没後17年に理化学研究所の雑誌に発表する。「空気中を落下する特殊な形の椿の花の運動に

ついて」

落下を引き起こすのは重力であるが、空気の抵抗があるので物体の形・材質・質量分布・重心の

位置・風の向き・温度・湿度・・・・要因が沢山あって解析は難しい。またニュ-トンの運動方程式・

オイラ-の運動方程式を用いて力学計算も行っている。結論として椿の花の質量が重くなると椿は

反転しにくくなる。→虻が入ると反転しにくくなる。

漱石の句が立証されたのである。友人への手紙に次のように書いている。

「落ち椿の研究という珍研究を始めた。いよいよ吾輩は猫であるの変な物理学者の事を証明しようとしている」

これは、作品中の水島水月という変わった物理学者が登場し、モデルは寺田寅彦とされていることを指す。

 

こうした一連の事は、寺田寅彦の漱石への追慕が深まっていることを示している。漱石は明治利教養人らしく漢文の素養も豊かで、多くの漢詩も作っている。漱石の俳句や漢詩について、寺田寅彦は「火山の活動エネルギ-がわずかに小噴火口の噴煙や微弱な地震となって現れるように、俳句や

漢詩を通して、創作のエネルギ-を少しずつ発散していた」という。

改めてそういう視点で漱石の俳句や漢詩を詠むと、漱石の小説を鑑賞する大きな手掛かりとなり人柄が偲ばれる。

 

「コメント」

漱石は理系の能力を有しながら、文学者となる。又教師を厭いながら旧制第五高等学校・

東京帝大の教授を務める。

又異質な世界の人々との交友が誠に広い。正岡子規及びそれに連なる人々、寺田寅彦・池田菊苗などの科学者(味の素の発明者で帝大教授)、はたまた平塚雷鳥・・・。ここに単なる文学者に

留まらない教養と人間観察眼の元があるのだ。

これが最大の魅力である。そして江戸っ子らしい含羞。これが無い奴は鼻持ちならないのだ。