科学と人間「漱石、近代科学と出会う」      小山 慶太 (早稲田大学教授)

 

161125⑧「大科学者ファラデーの名台詞と漱石の博士号辞退事件」

漱石と19世紀の大科学者ファラデ-について話す。先週にロンドンにおける学者池田菊苗との交流について話した。

漱石を彼が訪れた日の日記に「池田氏とRoyal Instituteに行く。夜12時過ぎまで話す」とある。い池田はドイツ留学の後、Royal Institute(王立研究所)内のファラデ-実験室に短期留学する為にロンドンの来たのである。二人は気が合ったし、漱石は科学に興味があったので話し込んだので

あろう。ここは当時先端科学の殿堂で、例えば自然界に存在する元素は92であるがその内8個は、ここの所長のディビ-が発見した。ファラデ-は、変わった経歴を以てここに入所し、輝かしい成果を上げたのである。

今年理化学研究所のチ-ムが113番目の元素ニホニュウム発見したが、これは自然界にある物ではなく核反応を利用して高エネルギ-下で人工的に作った物。

「ファラデ-

19世紀英国の化学者・物理学者。電磁気学・電気化学分野での貢献で知られている。化学者としては、ベンゼンを発見し酸化数の体系を提案した。アノード・カソ-ド・電極・イオンなどという用語はファラデ-のもの。

元々製本職人であったが、生来科学が大好きで王立研究所の講座を聞きに行き、高じて直談判し

住み込みで無給の助手として採用される。高等教育を受けていないので数学は殆ど出来なかったが、当時の電磁気学・化学は数学が必須ではなかった。しかし超人的な努力と熱心さで数々の業績を挙げた。

・人柄・生き方

 清貧に甘んじ名誉に恬淡としていた。Knightへの推薦を受けたが辞退、又王立研究時の所長・

 化学者の組織である王立協会の会長も辞退。当時身分制度が厳しい英国では、下流階級出身

 なので紳士として扱われず様々に差別を受けたとされる。

女王から邸宅を下賜されるが、これはやむなく受ける。実験に没頭するには、所内の社宅がベストであったのだ。

 一連の辞退の時の言葉が残っている。「私は最後まで唯のMichael Faradayでいたい。」ここには研究者としていきたいという思いと共に、反骨精神も見てとれる。

「漱石とファラデ-」

明治40年漱石は帝大講師を辞職して、朝日新聞入社。その時日本人して初めての英文学教授が

予定されていたにも関わらず。帝大を辞めて新聞に入るなどという事は当時としては有り得ないこである。この時、友人に宛てた手紙には次のようにある。「功業は100年の後に価値が決まる。

100年の後に100の博士は土と化し、1000の教授は泥となる。余は我が文をもって、100年の後に伝えんと欲するのである。」→教授になんかならないと言っている。

・文学博士号辞退事件

 学問や芸術に御上が与える権威を有難がる風潮を嫌悪した。文部省より博士号授与の通知が

  あったが辞退する。

 そして文部省学務局長あての手紙「小生を博士に推薦された由、通知あれど小生今日まで唯の

  夏目某として世を渡ってきた。これから先もただの夏目某として暮らしたい。従って博士の学位を

  受けたくない。」

 すこし直接的・感情的で子供っぽいが、漱石の面目躍如である。

 明治大学の講師をやっていたので行事に招待状が来る。その宛名が文学博士夏目某となっている

  ことに噛みつく。

「文学博士を辞退した私を、文学博士として御招待下さるのは私に多大の苦痛を与えることになる。これが重なると私を愚弄されているような嫌な気持ちになる。私を侮辱なさるおつもりはないと思い

ますが、私にとっては同じ事。今後はお止め下さい。」何とも激しい言葉ではある。

 

この様にファラデ-と漱石との相似点は様々ある。漱石の作品の中に「ファラデ-の人生と手紙」と

いうのがある。ファラデ-の清貧と高潔な生き方に共感していたと思われる。

 

「コメント」

漱石と科学との繋がりを付ける為のかなり無理をした話になってはいるが、ファラデ-・漱石の人となり・人柄・権威に対する考え方が良く分かる話で有った。しかし成功し著名人になったからこそ

出来ることで、凡人にはこんな格好のいい言動は出来ないし、やる場面もない。

やってみたいものではある。