190301⑨「近代の薬と毒2-明治の科学者たちと合成医薬品」

 

ヨーロッパに留学した人たちによって明治時代の科学は大きく発展し、世界的業績を上げる科学者が続々と現れた。

また当時誕生したのが化学合成医薬品である。それまで主に用いていた漢方から西洋医学に転換していったのも、この時代の特徴。科学者たちの業績と漢方から西洋医学に移り変わっていく中で、

どのような変化が起こったのかを話す。

「薬局方」

薬局方とは、その国で一般に使用される主要な医薬品の品質・純度・強度の基準を定めた法令のことである。

・エーベルス・パピルス

紀元前1550年ごろにパピルスに書かれたエジプト医学署。治療薬とその調合法が書かれている。

最古の薬局方。

・神農本草経

 後漢(1世紀~2世紀)のころに成立した中国の本草署。365種の薬物を分類している。

・デンマ-ク

 1772年、現代薬局方の最初。

・日本 

 明治維以前は、漢方が主流であったが漢方と西洋医学のどちらを正式とするかの論争があった。

 そして、西洋医学を採用することになる。そして、1886年日本薬局方が公示された。

「医薬分業」

(西洋)

 古くから医師と薬剤師の分離が定められていた。医薬分業と薬剤師の起源である。これは死亡診断書を書く手で調剤をしてはならないということである。医師の薬の過剰投与と処方ミスの防止の目的。

(日本)

 古来から医薬同一の伝統があった。明治政府は医療制度の導入とともに、医師開業試験と薬舗開業試験が制定された。「医師は薬の販売を禁ず」とされ、薬舗は薬舗主とされ、薬剤師と定義された。

日本最初の薬舗は、銀座に開業した資生堂である。しかし医師の調剤を認めていたため形骸化した

ままであった。

「日本人科学者たちの活躍」

・北里柴三郎 

 結核菌の発見で病原微生物学の祖となったコッホの下で、破傷風菌の純粋培養に成功し、

 ジフテリアの血清療法を開発した。

 ・志賀 潔

  コッホの弟子のエ-ルリヒの下でトリカンロ-ソ及び赤痢菌の発見。

 ・秦 佐八郎 

  北里柴三郎の兄弟弟子。梅毒の特効薬サルバルサンの発見。

 ・長井 長義

  エフェドリン(喘息の特効薬)を漢方薬の麻黄から発見し、化学構造を明らかにした。

 ・鈴木梅太郎

  ビタミンB1の発見。当時はアベリサン、オリザニンと呼ばれていた。 

   この構造式を出したのは、満鉄病院の内科医牧野 堅。生命活動に重要なATP

 (アデノシン三リン酸)の正確な構造式も明らかにした。

 ・池田 菊苗

  五番目の味としての旨味グルタミン酸ナトリウムの昆布から発見。 甘味・塩味・酸味・苦味の次。

    夏目漱石のロンドン留学時代以来の友人。

 ・高峰譲吉 

  タカジアスタ-ゼの商品名で知られる消化酵素ジアスタ-ゼの創成。アドレナリンの発見。

  今、世の中で、100年以上利用されている薬は三つしかない。タカジアスタ-ゼ・アドレナリン・

  アスピリン。このうち、二つが高峰譲吉の功績である。また、スズメバチなどに刺されて起きる

  アナフィラキ-・ショックの時に使用されるエピペンに応用されている。

「化学合成医薬品」

志賀潔たちが見出したトリパンロ-ト、これも化学合成の色素である。このころから化学合成の医薬品が誕生する。

現在に至っては、普通に存在するが、それまではいわゆる草根木皮、天然にあるものを用いていた。1899年にアスピリンとヘロインが同時に発売された。

〇 アスピリン 現在も世界中で大量に使用されている。サリチル酸の一部を変えて、アセチル化した

  もの。アセチルサリチル酸

〇ヘロイン  モルヒネをアセチル化したもの、鎮咳剤として

〇サルファ剤 スルホンアミド剤及びスルホン酸基を持った化学療法剤の総称

 ・サリシン 最初に発見されたサルファ剤 鎮痛、抗炎症

  セイヨウシロヤナギの樹皮に含まれ、人間の体内に入ると、サリチルアルコ-ル→サリチル酸。

  サリシンはセイヨウシロヤナギの樹皮に含まれる配糖体であり、グルコ-スがついているが、

  これを切り離すとサリチルアルコ-ル、酸化させるとサリチル酸となる。現在サリチル酸は、

  コルベシュミット法で処理すると、サリチル酸のNa塩ができて、それを変化させるとサリチル酸に

  なる。

 〇インスリン 生理作用としては、主として血糖を抑制する作用を有する。

   膵臓のランゲルハンス島から分泌されるホルモン。肝臓・骨格筋・脂肪組織などに作用して、

   ブドウ糖・アミノ酸・カリウムの取り込みを促し、グリコ-減の合成・分解抑制に働き、また死亡や

   たんぱく質の代謝にも作用し、結果として血糖をさせる。糖尿病の治療に用いる。

発見は1920年代ハンティング(カナダ)と助手ベストが中心となって発見。

当初は動物から得られたインスリンが投与されていたが、現在は大腸菌に人のインスリンを

作らせてそれが使われている。

 〇二量体

   二つの分子やサブユニットが物理的・化学的な力でまとまった分子または超分子という。さらに

       三量体、五量体サルバルサンは二量体と習ったが、現在では三量体・五量体ともいわれ、現在

       まだ議論がなされているのが現状。

 〇アスピリンとヘロイン  薬品の評価の変遷の例

   1899年同時に発売され、それぞれがどのように使われていったか。両方とも期待された薬品が

      あったが評価が変わってしまった。現在出ている医薬品はどうであろうか。十分検証されている

      が、問題手はないのか。将来どうなるのか。まだまだ健勝の努力が必要である。

「西洋医学と漢方医学の関係について」

西洋医学は明治政府によって取り入れられ、この習得が医師資格取得に必須となった。所が、医薬分業という制度は採り入れられなかったのは、薬学関係者としては残念なことであった。現在も医師が薬全般の専門家と勘違いされてところがあって、これは難しいところである。そうなった原因の一つは、漢方医の習慣とか、そのやり方が現在も続いていることではないかと思う。

(漢方医療の特徴)

・漢方医療では証を診るというが、西洋医学の診断を意味する。そして匙加減と言って、患者毎に薬の量を加減することをいう。現実には漢方医の見習いが薬を調合していたが、これと現在の薬剤師の仕事とは全く違うということが、まだ理解されていない。薬剤師の一人として、誠に歯がゆいところがある。

・明治時代の薬学に関する本として「薬の心得帖」、太田こうめいという人の著。蘭方医で初代陸軍

軍医総監の松本良順の弟子。米国の薬学校に留学し、見聞したことを示したものである。第一章に薬舗の心得というのがある。

 〇薬舗は医師より命じられた薬方に注意し、丁寧に調合する。

 →気にかかる言葉であるし、おかしいと思う。

この当時の薬方関係者は、このような考え方に反発も出来ず、薬学の分野での主導権を取れなかってし、あまり関心もなかったかもしれない。残念な内容である。

(医薬分業について)

当時医薬分業でなくてはと主張した人もいたが、それに反対の意見もあった。その急先鋒が福沢諭吉であった。

1882年師事新報で次の如くに主張する。

「医薬分業になると、二重の支払いとなって、貧乏人は医療を受けられなくなる。医師が薬を手放すと、報酬を受けられなくなり、薬礼を受け取ってきた医師の生活も成り立たなくなる」

先進国では全て医薬分業であるのが決まりである。大いに考えさせられることである。

 

「コメント」

近代医学薬学の勃興期に明治維新を迎え、何とか大きく乗り遅れずに済んだ日本であったが、以前の漢方医療制度の影響と、当時の考え方によって、薬学の地位が変則的になったことは理解できた。伯父の医院で薬を調合し、私も乳鉢で薬をすりつぶし、薬包を包んで手伝わされたことを思い出す。今回もと人の名前が特にわからず、難儀した。

スズメバチに二度刺され、医師からエピペン常備を言い渡されている。医師にこの成分はアドレナリンとは聞いてはいたが、高峰譲吉のお陰なのだ。