19115⑦「暴風雨・台風~弘安の役の真実~」

歴史を変えた台風というと、元寇である。二度にわたる元寇は元と高麗の連合軍が、九州各地で

残虐行為。属国の高麗が元のフビライに日本侵略を勧めたといわれる。

「文永の役」127211月 執権北条時宗

28千の兵と900隻の艦船で九州に来襲。しかし11に暴風雨で退却。時期的に台風ではなく、温帯低気圧と思われる。

「弘安の役」1281年 執権北条時宗

東路軍(朝鮮)4万と、江南軍10万。合計14万。8に台風で撤退。

「九州西部への台風の確率」

7月~9月は一個/月で、10月以降は大幅減少する。(最近の異常気象では10月まで続く)

よって、「神風」によって元軍が撤退したといわれるが、この時期に長期間滞在すれば台風遭遇は

不可避であった。

「スペイン無敵艦隊の敗戦」

スペイン王フェリペ二世は、妻のイングランド女王メアリ-一世が死去するとイングランドの共同王であった。しかし後継のエリザベス二世はプロテスタント故、これを排除すべく英西戦争となる。スペインは無敵艦隊と称する大艦隊を派遣した。勝負のつかないカレー沖海戦の後、帰国途中にアイルランド沖で暴風雨の為、壊滅した。

しかしスペイン海軍は再建し優位を保ち、英国が海洋覇権国家となるのは後の事である。 

暴風雨は二つ玉低気圧といわれる。

二つ玉低気圧→二つの低気圧が間隔を置いて通過するもの。大気が不安定となり強風になる。

又合体して爆弾低気圧となることもある。初冬や晩冬に発生する。

「クリミヤ戦争」 1853年~1856年  気象観測の重要性が認識された。

長期にわたるロシアとトルコの抗争の一環。フランス(ナポレオン三世)とイギリスがトルコを支援。

実質はロシア対英国・フランスの戦い。オスマン帝国の弱体化に乗じて、ロシアは南下政策を進める。これを警戒する英仏連合の対立図。

クリミヤ半島のセバストポリ要塞の攻防戦。大乱戦の後、連合軍が勝利。パリ条約で講和。

この時フランス艦隊は大暴風雨で大損害。戦局には影響しなかったが、気象観測、予報の重要性が認識された。

この戦争で負傷者用に考案されたのが、カーディガン、ラグラン袖等の衣類。

ナイチンゲ-ルの登場。

「利根川水系の氾濫」

大河川として、鬼怒川・江戸川・荒川。奈良時代にも記録が残されている。

利根川の水源は渡良瀬川・鬼怒川・吾妻川。この地域の大雨が利根川氾濫の原因である。

(大雨の原因)

・線状降水帯。

次々と発生する積乱雲が列をなして、数時間にわたって同じ場所を通過又は停滞することで作り出される。長さ300km、巾50kmとも言われる強い降水を伴う雨域。予報は極めて困難とされる。

19号に関わる千曲川、宇都宮地方の氾濫はこれである。

・台風

台風もその都度違う。気圧配置、地形、風向。

・台風+梅雨前線

「伊勢湾台風」

昭和34(1959)潮岬に上陸し、東海地方中心に大被害。室戸台風、枕崎台風と共に昭和の三大台風といわれる。各地で台風と高潮の被害が発生した。894mbも記録され上陸後でも920mb。これを期に「災害基本法」が成立し、防災計画・対策・復興を行うこととなる。

 

「コメント」

台風と言えば九州が常襲地帯とされていたが、最近は日本東部が舞台の様である。又線状降水帯なる新語も出て、気象災害の話には事欠かない。異常気象→気象変化と、気象学の進歩が色々と話題提供する。防災工事も進むが、気象予報をみて、逃げるにしかずか。都市化した武蔵小杉の

タワマン浸水、世田谷の洪水には驚く。洪水はやはり古人に聞くべし。