私の日本語辞典「歌と生き、言葉を究めて六十年」    歌人 日本文芸家協会理事長 篠 弘

                                                 聞き手 NHKアナウンサ- 秋山和平

150801①「歌との出会い」

母から与えられた啄木歌集、早稲田大学での窪田章一郎先生、土岐善麿先生との出会いと思い出

 

「秋山」

篠 弘さんは歌人としての長い道のりがあるが、言葉を巡る幅広い活動と貢献と言う点で活躍しておられる。歌が勿論中心であるが、自分の創作活動と同時に歌論と言うか歌に関する評論、そちらの方の活動でも現代の指導的立場を果たしておられる。一方仕事の面でも大学を出てから小学館はじめ出版事業の方に係わっておられジャ-ナリストとして又編集者として沢山の、特に百科事典などの辞典類の編纂、こちらでも成果を上げておられる。又その後は大学で教育の方に係わり、非常に大きな重要な役割をいくつも果たしておられる。日本文芸家協会の理事長と言う役も務められ、そういう意味では個人としての創作活動と同時に組織人としての役目も現在続いている。昭和5年からNHKラジオで短歌の選評を続けておられ35年になる。そういう事も含めて今回から5回にわたって言葉を巡る篠さんの体験を聞かせてもらう。私たちの若い時は短歌と言うと、青年の人生の苦しみとか愛とか、そういう事を歌っている例が多いと思っていた。年寄りが歌っているという印象はなかった。これは間違っているのでしょうか。

「篠」

 「短歌研究」という総合誌があるが数年前に作歌を始めた年齢を調査した。その結果

   ・男女とも20代が多い。

   ・女性の場合は年齢と共に徐々に下がっていく。自然体である。

   ・男は20代30代の開始は少ない。突然50代後半、60代で増加する。定年が影響している。今までの半生を振り返って歌う

        みたいなものがあったり、余暇とゆとりを生かして初めて創作活動をやるというのが特徴である。この10年、団塊の世代の

        特徴である。

「秋山」

篠さんのライフワ-クの短歌評論と言うか、歌論と言うかそちらの方にやがて「定年短歌」という分野が出来るかも知れませんね。

「篠」

私も新聞の選評をやっているがやはり50代、60代の勢いがいい。

「秋山」

今回は最初なので篠さんが、この道に入った所辺りがテーマになるかと思うが伺ってみようと思う。やはり短歌との出会いは言うのは

色々なものにお書きになっているが、戦時中の疎開で母上から啄木歌集などそういうものを送ってもらったという事でしょうか。

「篠」

それが始まりです。母が文学に関心があって特に短歌に興味があったのでしょう。自分は出来なかったので息子にやらせようという

気持ちがあったのだろう。疎開先は宮城県鳴子温泉。啄木歌集、堀辰雄の小説を送ってきた。これらの本の言葉を盗んでは作文に

使っては教師を驚かせていた。

「秋山」

 後にまとめられた「百科全書派」とう歌集に「離れ住し少年我に若き母風立ちぬなど送りて来る」と言う作品がある。当時の事を

思い出しての作品ですね。

「篠」

 疎開の歌はいくつか読みました。「吸う毎に鼻がピタリと凍りつく寒い空気を吸いたくなりぬ」

「秋山」

府立五中で谷 鼎さんに古典和歌の影響を受けたとお聞きしていますが。

「篠」

谷さんは京都大学国文、文理科大 国文出身である。府立五中(現小石川高校)には優秀な先生が多かった。谷先生は斉藤茂吉と

昭和の初めに「花もみじ論争」をやる。藤原定家「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮」 この歌の解釈を巡って

大論争をして、谷先生が勝った。

「秋山」

  その頃から相当深く歌の道に入ったのですね。

「篠」

 谷先生の最初の授業は何と「五十音図」を書けと言うもの。皆、書いたけれど50人のクラスの中でちゃんと書けたのは5~6人。

 五中はレベルの高い学校だったけれど、五十音図は頭に入ってなかった。最初に谷先生にガツンとやられたのです。わたしは何とか

  出来ましたけど。

「秋山」

   その後早稲田に行かれますね。その時の事でエピソ-ドとしてお伺いしたいのですが、建築科にいきたかったのを断念して、

   早稲田の国文に行ったのですね。

「篠」

  第二志望の短歌をやろうというのは中学時代から作品を作っていたしそして又新聞等に投稿してもいたから。谷先生には放課後

短歌会を開いてもらったり、短歌の批評会をやったりしていた。第二志望としては国文が固まっていた。第一志望は建築をやりたいと

思っていたが家の事情で理系の受験勉強がままならず断念することにした。その時に当たり谷先生の影響が大きかった。

谷先生は大正時代に土岐善麿の「生活と芸術」という雑誌に参加していたし、窪田空穂の「国民文学」の創刊にも参加。この2人、

土岐善麿・窪田空穂のいる早稲田の方が、散文系の強い東大よりいいと判断した。

「秋山」

  早稲田受験の時に、窪田章一郎に面接を受けたのですね。

「篠」

  それは偶然でした。窪田章一郎先生は窪田空穂の長男で、その時助教授。谷さんとはきわめて親しい付き合いをしていた人です

から、面接も「谷先生はどんなことを教えていますか」などと言って、私の事など聞いてもくれなかった。

「秋山」

  篠さんの場合は谷先生との出会いの時から、運命づけられていたのですね。後に谷さんの著作をまとめられましたね。

「篠」

  「定本谷鼎全歌集」をまとめ、私は解説を書いた。

「秋山」

  先生と言うか、恩師と言うかその繋がりが篠さんの場合は深くて、勿論窪田空穂さん、窪田章一郎さん親子も当然ですが、

土岐善麿さんにも卒論で京極為兼などをやったこと。これも当時としては新しい事ではなかったのか。

京極為兼と言う人はその時代では新風をふかせた人ではないのかと思うが。

「篠」

  最初に京極為兼を発見した人は誰かと言うことは今の所特定できない。釈超空(折口信夫)、土岐善麿の二人三脚ではないかと

考える。二人は仲が良かった。土岐善麿が「作者別万葉集」と言うのを出すが、その巻末に釈超空が「短歌の本質の成立の時代」と

いう大論文を書いている。その中に京極為兼並びにその門下・・・・永福門院そういう人たちの作品が実に完成したものであるという

事を長々と書いている。土岐善麿の編集した「作者別万葉集」は万葉以後ですから当然小野小町とかそういう人たち作品も

収録されているわけであるが、中には京極派の歌人が3~4人入ったりしている。だから釈超空、土岐善麿の二人三脚の仕事だろう

というのが定説になっている。

「秋山」

  和歌の家伝と言うかその正統と言うと二条派といわれていて非常にそれが一番の正統派的存在と言うのに比べれば、京極為兼と

いう人の存在と言うのは特別なのでしょうか。

「篠」

  仰る通りです。13世紀に藤原定家が「新古今集」を出してから100年後に「玉葉和歌集」というのが京極為兼の編纂で出来上がる

     が、そこで初めて京極家の勅撰和歌集が出てそれから2~3回を置いて「風雅和歌集」と言うのも京極家のものであるが、この

     2冊が短歌史を飾っている。一首だけ例を出しておきます。万葉集の影響を受けているが、万葉集だけではなくてその南北朝時代

     の中で為兼は北朝持明院統方の政治家なのである。政治家であり、北朝を強くするためにも新しい文化人や新しい武士層、僧侶

     とか、下層貴族の美意識に合う様な歌を作った。そうすることで勢力拡大と歌の改革を行った。

一首だけ例を挙げておく。

「枝に漏る朝日の影の少なきに涼しさ深き竹の奥かな」

日差しが漏れる竹藪に、この竹藪の中にある清涼感、爽やかさを感じている。

 

「コメント」

どこの社会も、人との繋がりの中で物事は動いて行く。この人も歌詠みと言うより、歌の世界のマネ-ジメントをやっている

人と理解した方がいいのかもしれない。昔風の歌人ではなく、まさに現代歌人なのであろう。

率直に言うと、彼の歌と言うよりその歌論及び、彼を通して現代短歌の世界を垣間見てみたい。