カルチャ-ラジオ「漱石と明治近代科学」     

                                    早稲田大学教授 小山 慶太

   140126 科学と芸術

漱石の意外な事実からスタ-トをする。漱石の珍しい短編小説を紹介する。

・「琴のそら音」  短編小説

 これは幽霊話で、一種の怪談集である。漱石が留学中、ロンドンでは心霊主義が流行っており、その影響をうけたと思われる。「余は幽霊を信じている」と。スト--は幽霊の研究をしている心理学者津田君が主役で、友人の法学士に不思議な出来事を話すことで進む。当初この法学士は「ご維新で、幽霊と雲助は廃業と信じている」というが、段々と怖い体験をするという物語。

 

「夢十夜」10の不思議なの世界を綴る。「こんな夢を見た」という書き出しが有名。漱石としては珍しい幻想文学テイストが濃い作品である。この中で第6話を紹介する。

運慶が護国寺の山門で仁王を刻んでいると云う評判だから…』
運慶が仁王像を彫っている。その姿を見ていた自分は、隣の男が「運慶は、木の中に埋まっている仁王を掘り出しているだけだ」と言っているのを聞く。自分でも仁王像を彫ってみたくなり、家にある木を彫り始めるが仁王は出てこない。
このエピソ-ドは「芸術作品の創造を天賦の才に恵まれた人が自然の中に隠れ潜んでいる美を取り出す行為として表現している。」

 

・ポアンカレ- フランスの数学者。数学全般及び天体力学/物理数学/電磁気についても卓抜な研究。

 著書「科学と方法」で書かれている(偶然)という話を漱石は未完に終わった「明暗」の冒頭に使っている。「科学者は実益があるが故に科学を研究するのではない。自然に愉悦を感じればこそこれを研究するのであり、又自然が美しければこそこれにより愉悦を感じるのである。自然が美しくなかったならば自然は労して知るだけの価値がないであろう。科学者はこの美の為に、恐らくは人類の将来の為、幸福の為よりもむしろ美の為にこそ長い苦しい研究に身を捧げるのである。」「芸術作品の創造が美の具現化であることは言を待たないが、科学の研究も芸術と同様に美を追求する営みである」とポアンカレ-は述べている。

 

・ニュ-トン 英の物理・天文・数学者。力学体系を建設し、万有引力の原理を考案。微節分、光のスペクトル分析。近代科学の建設者。物理学の成果を、それが美しいか否かで評価したので知られている。

 

以下は講師の見解。①

・優れた芸術作品には高度な専門知識とか技術などを必要としない。人間の素朴な感性に訴える魅力がある。

 一方、一般の人々が科学について抱くイメ-ジは、その難解さ、難しさであろうと思われる。従って名曲を楽しむのと同様にお手軽に物理学の理論や実験結果から美しさを感じられると言われても俄かにはピンと来ないであろう。それは

芸術作品が人間の感性に直に触れるのに対し、科学が追求する美しさはそんな概観的なものではなく数学という特殊な様式を通じて初めて表現されうるものだからである。そしてそこに表現されている対象とは自然界全般に隠れ潜んでいる真理と言うことになる。又その真理を探り出し検証実証するのが実験観測という科学特有の方法ということになる。

従って数学、実験観測という方法にある程度習熟することが必要だけど、それらの前提条件を満たせばポアンカレ-が語った如く、科学もまた芸術と同様、美を追い求める行動であることが理解されるであろう。

・自然をただ眺めていても普通の人間の目には無秩序に生起する複雑な現象が映るだけである。そこに調和と単純さを有する自然界の美を捕らえることはできない。それを可能にする道具が数学・実験・観測である。こういう科学者と芸術家の共通性について漱石は、講演会で次のように述べている。

「職業というのは一般に他人に奉仕する事によって収入を得る、言ってみれば他人本位の営みとなる。相手が喜んでくれなければお金を貰えない。しかしどうしても他人本位はうまく行かない職業がある。それは科学者と芸術家である。」

 

・寺田寅彦の話  随筆「科学者と芸術家」

この人は、漱石の科学感について語らせてその右に出る人はいないと言われている。

    芸術家と科学者がそれぞれの制作と研究とに没頭している時の特殊な心理状況にはその間に何らの区別はない。

    具体的には世間には科学者には一種の美的享楽がある事を知らぬことが多い。科学はただ難しいだけのものだと思っている。しかし科学者には科学者しか味わうことの出来ない美的生活があることは事実である。

    例えば古来の数学者の作った数式などは美において人間の製作物の中で最も壮麗なものであろう。

    重要な点は科学が美を取り出すには自然をあるがままじっと眺めているだけではダメであるということ。受身の姿勢でいては、自然の実態は見えてこない。芸術と同様美の創造のためには自然に対し積極的に働きかけ、いわば力づくでそこから真理を見出すのが、化学の営み・本質である。

 

            随筆「夏目漱石先生の追憶」

    先生にニコルスという学者の光線の圧力の研究の話をした。この話を1回聞いただけで「三四郎」の野々宮宗八の実験室の場面となっている。こういうことは日本の文学者には珍しい。

    科学に対して深い興味を持っていて特に科学の方法論的話をすることを喜んだ。

    漱石先生は「その壮大な知識の中に科学はしっかりとその位置を占めていた。」

 

以下は講師の見解。②

    漱石は科学の方法論への理解として、実験の果たす役割の意味まで理解していた。

    漱石の「普通の自然界においては見いだせない状況を人為的に設定しそこから法則を摘出するのが物理学である。」という指摘は、文学者にはない考察で見事に的を射ている。これは現代の物理学にもそっくり応用できる。

    近代科学が生まれる以前は実験や道具として数学を使うことはなく、受身の姿勢で自然をあるがままに眺め、その現象を自然に解釈するだけであった。これではいくら眺めていても隠れている自然の法則は浮かび上がってこない。

その例として     「ニュ-トンの太陽光のプリズム分析」

・アリストテレスの自然学では太陽光は混じりっけのない純粋なものと信じられていたが、

ニュ-トンはプリズムを使った実験において太陽光線をバラバラにしてアリストテレスと違って色々な色が混じっていることを証明した。こういうやり方が近代科学を進展させた。

    漱石は小説の中で、科学という営みの本質と特徴を鮮やかに描き出している。これは埋もれていた美を掘り出す「夢十夜」の運慶の例とも通じるものである。

 

漱石の俳句

正岡子規の刺激を受けて多くの俳句を作っている。2400句。殆どは熊本の第五高等学校英語教授時代。この時の学生の一人が寺田寅彦。

(落ちさまに虻を伏せたる椿哉)   漱石

寺田寅彦は、椿の落ちざまを実証するために実験をした。その結果、椿は落ちるときに反転しつつアブを伏せることが可能と結論。これでこの句の輝きが増した。

(落ち樣に水こぼしけり花椿)    芭蕉

 

寺田寅彦  随筆「思い出草」

・漱石先生からは色々なものを教えられた。俳句の技巧を教わっただけではなく、自然な美しさを自分自身の目で発見することを教わった。同じように又人間のの心の中の真なるものと偽なるものものとを見分け、そして真なるものを愛し、偽なるものを憎むことを教えられた。

 

「まとめ」

   漱石の科学に関する深い造詣は漱石文学に独特の興趣をあたえると共に寺田寅彦の言葉にもあるように科学の追い求める自然の美しさにも向けられていることが分かる。

 

   皆さんが漱石文学を読むときに、この講演が鑑賞の楽しみを増す事に繋がれば幸甚である。