.こころをよむ「漢詩に見る日本人の心」                 宇野 直人(共立女子大学教授)

150419③「風狂の彼方に~一休宗純」

「一休宗純の概況」

一休は室町時代の禅僧で幼年時代のトンチ話は有名であるが、元々高貴な生まれで、父は後小松天皇で母は南朝系の藤原家。

一休生誕時は南北朝の対立が終わった頃。帝と周辺は北朝系の為、母は身の危険を感じて宮中を出て郊外で出産。一休は母不在の

まま、禅寺で成長した。朝廷の複雑な事情、南北朝の対立など一休の人間形成に大きく影響した。

京都五山で禅(臨済宗)を学び、当時の禅寺の権威主義と堕落した禅宗を強く批判。これは一休の人生の重要な一面である。当時は

室町幕府の権威も衰え、混乱の時代で74才の時(1467年)に応仁の乱が勃発。このように自分自身の生き方においても、環境に於いても波乱の人生であった。78才の時、森女(しんにょ)((もり)侍者(じしゃ))という目の不自由な女性と暮らしはじめた。大きな心のよりどころとなる。81才で京都大徳寺の住持となり、京田辺の酬恩庵から通った。86才で入寂。

一休の漢詩もこの波瀾をそのまま映し出すように、多岐に亘っている。今回は三つの方向から、一休の漢詩を見ていく。

  1. 悟りを求める心を表したもの

  2. 時の為政者や禅僧の堕落へ憤りを向けたもの

  3. 伴侶に対する深い愛情

  4. ・一休宗純  京都大徳寺の住持、詩・狂詩に巧みで書画をよくする。奇行が多かった。京田辺市にある「酬恩庵(一休寺」で、晩年を過ごした。

  5. ・北朝南朝  1336年(建武3年)後醍醐天皇が吉野に入ってより、1392年後小松天皇が京都に帰るまで57年間、南朝(大覚寺統)北朝(持明院統)とが対立抗争した。

    ・応仁の乱 1467年(応仁元年)~1477年(文明9年) 足利将軍家及び管領 畠山・斯波両家の相続問題をきっかけとして、東軍細川勝元と西軍山名崇全とが大名を巻き込んで起こした大乱。京都は戦乱の巷となり、幕府の権威は地に落ちた。

    なお、戦国時代とは、応仁の乱後織田信長が天下統一に乗り出すまでの時代を言う。

     

    「一休の心の軌跡」

    自分の出生の複雑さから脱しようとする悟りを求める心、為政者や禅僧の堕落への憤り、そして晩年に得た伴侶への想いなどを追う。

  1. 自賛」  七言絶句

    自賛          自ら賛す   自分自身の肖像画に書きつけた作品。 

    風狂狂客起狂風  風狂(ふうきょう)の狂客 狂風を起す      何物にも囚われず 理想に突き進む私は いつも激しい風を巻き起こす

    来往婬坊酒肆中  来往す 婬坊(いんぼう)酒肆(しゅし)の中        出入りするのは歓楽街や酒場

    具眼衲僧誰一拶  具眼(ぐがん)(のう)(そう) 誰か一拶(いっさつ)せん     見識のある僧侶で誰か私を叱る人はいないのか

    画南画北画西東  南を(かく)し 北を画し 西東(せいとう)を画す   南と言えば北 いや西だ東だと 勝手なことを言う私を

    (前半)

     一句は露悪的に自己紹介。風は自由でとらわれないの意。狂は漢詩では「理想に向かって突き進む・これと思ったことに熱中する」

    二句の婬坊酒肆は公案の中の語で「本当の悟り」という事を象徴的に表す。山奥で得た悟りはまだ次元で低いもので、逆に「巷の色々な人に付き合い、得た悟りこそ本当のものだ」という公案を採用している。という事は、一見破戒僧の様に行動しているが、自分は一段高い次元を目指して行動していると主張している。

    (後半)

    周囲の禅僧に向けた挑発的な言葉となる。4句も禅の言葉。人を食った結びになっている。この詩で自分の生き方を主張したが、では一休が主張した次元の高い悟りとはどんなものか次の詩で見てみる。

    婬坊(いんぼう)酒肆(しゅし)  歓楽街・酒場

    ・具眼     物の本質を見抜く力 見識がある

    ・画皆画北画西東 禅語で「指東劃西」と言えば、東を指したり西を指したりしていい加減にその場をごまかすことを言う。お茶を濁す。

  2. 長門春草」  七言絶句  13歳の作

    秋荒長信美人吟  (しゅう)(こう)長信(ちょうしん) 美人吟ず      春なのに秋の様にさびれた長信宮で 美しい人が歌を歌う

    経路無媒上苑陰  経路 媒無くして上苑陰たり    御所から続く道に 使者の訪れは無く 御所は静かなまま

    栄辱悲歓目前事  栄辱(えいじょく) 悲歓(ひかん) 目前の事       愛される幸せと 忘れられる辛さは それは紙一重のこと

    君恩浅処草方深  君恩(くんおん) 浅き処 草 (まさ)に深し    帝の愛の薄れた今 草だけが深く生い茂っている

    愛を失って退いた女性、その悲しみという事をテ-マとしている。その女性の心境を想像してその身になって詠んでいる。一休は歴史上の

    悲運の女性を繰り返し題材にした。漢の時代の王将君・唐の楊貴妃・・・。不幸な母への想いと思われる。これが後に変化して女人崇拝と

    なっていく。

    ・長門 漢時代の宮殿の事。漢の武帝(前漢7代皇帝)の皇后が、寵愛を失って隠居する。よって愛を失った女がひっそりと暮らす御殿と

    言う意味>

    ・王将君 前漢元帝の命で匈奴に嫁ぎ、夫の死後その子の妻となった悲運の女性

    ・春草   愛を失った悲しみのイメ-ジ  

     

  3. 春衣宿花」  七言絶句  一休15歳

    吟行客袖幾詩情  吟行の(かく)(しゅう) (いくば)くの詩情ぞ          歌を歌いながら歩く私の袖  詩情が湧いてくるのだ

    開落百花天地清  百花(ひゃっか) 開落(かいらく)して天地清らかなり        あらゆる花が咲いては散り 天地も清々しい

    枕上春風寝耶寤  枕上(ちんじょう)の春風 ()ねたるか ()めたるか    枕元に吹く春風は 夢か(うつつ)か 

    一場春夢不分明  一場(いちじょう)春夢(しゅんむ) 分明(ぶんめい)ならず             しばしの春の夢 はっきりしないままに   

    春の日に旅をして、花の咲き乱れる宿に泊まった時の体験を詠んでいる。枕元に春風が吹きこんで、見た夢もはっきりしないことだ と詠んでいる。楽しい夢であったのだろう。花は漢詩の場合、美しい女性の例えとしている。憧れの女性が夢に出てきたと解釈する。

     

  4. 無題」  七言絶句

    老婆心為賊過梯  老婆(ろうば)(しん) 賊の為に(かけはし)を過す       老婆は 泥棒が逃げ易いように梯子を架けた

    清浄沙門与女妻  清浄の沙門(しゃもん) 女妻(にょさい)を与う          清く正しい青年僧に 妻を世話をした

    今夜美人若約我  今夜 美人 若し我に約せば       今夜 美女が私に抱き付いてくれれば

    枯楊春老再生稊  ()(よう) 春老いて 更に(ひこばえ)を生ぜん     枯れかけた柳が 春にも萎れていたのが もう一度ひこばえを出すのに

    この詩は「婆子焼庵」と言う公案に対し、一休が詩の形で回答を出したもの。

    悟りについて一休の考え方を示す重要な作品である。この詩も公案に基づいている。この前提となる「婆子焼庵」という公案の概要は下記。

    昔あるお婆さんが一人の青年僧の世話をしていた。お婆さんは、ある日16歳の少女に「今日、食事を持って行ったら僧に抱き付いて今日こそは私を抱いて」と言いなさいと言った。少女はその通りにした。所が青年僧はそれを拒み、次の様に言った。「今の私は冬の季節に枯れた木が岩の上に立っているような澄み切った心境だ。若い娘など相手にしない。」このことを娘が報告するとお婆さんは怒って、「そんな俗物の世話をしていたのか」と言って、その青年僧を追い出したという。→このおばあさんの行動をどう見るか、更に対する青年僧の反応をどう感じるか。これが設問。

    お婆さんの考えとしては、長い修業が終わっても、そこに止まってはいけない、次に更に上の段階がある。それは男女の問題と言う難しい一生続くような問題がある。それに取り組まねばならない。そこから逃げてはいけないのに、青年僧は逃げてしまった。

    この詩には、それに対する一休の考えが示されている。

    前半   泥棒と言うのは、逃げにくい状況で色々工夫をして逃げるのだ。お婆さんはその機会を奪っている。余計な事をしている。僧の心を閉ざしてしまうだけだ。しかし僧も情けない、しかも今の自分に満足するだけでより上の修業をしようとしない。

    後半   私は違うぞ。私はもっと修業をしたい。女が抱き付いて来れば、老齢の私でも又元気になって修業するのだ。女人を避けて本当の悟りには辿り着けないのだ。→これが一休の主旨。

    4句 枯楊春老再生稊  これは「易」に「枯楊(ひこばえ)を生ず。老夫 その女妻を得たり。 利ならざるなし。→枯れかけた柳に (ひこばえ)が生えるように、年老いた男が若い妻を迎えることはいいことだ」を引用している。

     

    こうして、独自の悟りを求め続けた一休だが、続く内乱、皇室の不祥事、天変地異。幕府や為政者を痛烈に批判する詩がある。

  5.   長禄(ちょうろく)(こう)(しん)庚辰八月晦日大風洪水衆人皆憂  夜有遊宴歌吹之客不忍聞之作偈以慰云  七言絶句

      長禄(ちょうろく)(こう)(しん)八月晦日(かいじつ) 大風(たいふう)洪水あり 衆人(しゅうじん)(みな)(うれ)う 夜 遊宴(ゆうえん)歌吹(かすい)(かく)有り (これ)を聞くに忍びず ()を作って(もっ)て慰むと云う

         →  長禄(ちょうろく)4年(1460年)は8月末に台風洪水があり、民衆はとても心配した。夜、宴会の客があり歌を歌っているがとても聞くに

    堪えない。禅の韻文を作って、心を静めた。

    大風洪水万民憂  大風 洪水 万民憂う                   暴風に 洪水に民衆は苦しんでいる

    歌舞管弦誰夜遊  歌舞(かぶ) 管弦 誰か夜 遊ぶ                こんな時に歌舞音曲 いったい誰が 今宵遊んでいるのか

    法有興衰劫増減  法に興衰(こうすい)有り (こう)に増減あり               仏法に盛衰があり 天変地異もそれに応じて増減する

    任他明月下西楼  (さもあらば)(あれ) 明月(めいげつ) 西楼(せいろう)を下る                明月が西の高楼に沈むなど どうでもいいことだ  

    長禄(ちょうろく)4年(1460年)、8月末の台風と洪水をきっかけとして、無策の幕府や為政者を批判している。

     

  6. 敬上天子堦下二首」  七言絶句  敬んで天子の堦下に登る二首  日野富子を批判した詩

    財宝米銭朝敵基  財宝 (べい)(ぜん)は朝敵の(もとい)                    財宝や米 金銭が朝敵のよりどころ

    風流児女莫相思  風流の児女(じじょ) 相思うこと(なか)れ                 ふしだらな女に思いを向けてはならない

    扶桑国裏安危苦  扶桑(ふそう)(こく)() 安危(あんき)()                      日本は今 滅びるかどうかのの正念場

    傍有忠臣心乱糸  (かたわ)らに忠臣有りて 心 (らん)()たり              傍に忠臣(自分の事)がいて、心を砕いています

    応仁の乱は最終段階。日野富子が金銭を使って色々と政治工作をやっている頃。日野富子はとかく政治に介入し、米相場の操作、高利貸、

    収賄など蓄財に奔走していた。その様な日野富子を批判し、天皇へは忠臣の私が付いていますとのメッセ-ジ。

    ・日野富子 室町幕府 八代将軍 足利義政夫人。実子 義尚を将軍継嗣に立てようとして、応仁の乱の端緒を作った。悪女のイメ-ジ。

     

    「晩年の一休」

    乱世にあって、禅僧の堕落に憤り、幕政を批判し続ける一休であったが、晩年の一休の心の拠り所となったのが森女(しんじょ)((もり)侍者(じしゃ))である。

    これにより、安らぎの生活を送るようになった。77才から、88才(死去)まで生活を共にした。彼女は盲目の芸能者であった。

  7. 森公乗輿」  七言絶句   森公 輿(こし)に乗る

    鸞輿盲女屡春遊  (らん)輿()盲女(もうじょ)(しばしば)春遊(しゅんゆう)す            綺麗な輿(こし)で盲目の女は よく春の遊びに出かける

    鬱鬱胸襟好慰愁  鬱鬱(うつうつ)たる胸襟(きょうきん) (うれ)いを(なぐさ)むるに(よろ)し     鬱々(うつうつ)とした心の君は その悲しみを(いや)したらいい

    遮莫衆生之軽賤  遮莫(さもあればされ) 衆生(しゅじょう)軽賤(けいせん)するを          世の中の人が私たちの事をとやかく言おうとどうでもよい

    愛看森也美風流  (あい)(かん)す 森也(しんや) 美にして風流          私はあなたの事を愛する 森よ 君は綺麗で風雅だ

    晩年の伴侶「森女」に対する手放しの賛辞の詩である。

     

  8. 謝森公深恩之願書」 七言絶句  森公の深恩に謝するの願書

    木凋葉落更回春  木凋み 葉落ちて更に春を回らす      木の葉が凋み落ち 又春が巡ってきた

    長緑生花旧約新  緑を長じ 花を生じて旧約新たなり      緑を育み 花を咲かせ 昔からの定めが実現する

    森也深恩若忘却  森也が深恩 若し忘却せば          森女の深い恩を もし忘れたら

    無量億劫畜生身  無量(むりょう)億劫(おくごう) 畜生の身              未来永劫 私は畜生道の身だ   

    森女に心からの感謝を込めた詩。「何度生まれ変わっても森女と一緒に居たい」との願いがこもっている。

    前半では、「また 春になる」と森女との出会いで若返ったことを言っている。こうして一休の晩年は前半生と違って穏やかで楽しいものに

    なった。

    「人柄」  引用したもの

    自由奔放で、奇行が多かったといわれる。以下のような逸話が伝わっている。

    ・印可の証明書や由来ある文書を火中に投じた

    男色はもとより、仏教の菩薩戒で禁じられていた飲酒肉食女犯を行い、森侍者という盲目の女や岐翁紹禎という実子の弟子がいた。

    ・木製の刀身の朱鞘の大太刀を差すなど、風変わりな格好をして街を歩きまわった。これは「鞘に納めていれば豪壮に見えるが、

    抜いてみれば木刀でしかない」ということで、外面を飾ることにしか興味のない当時の世相を批判したものであったとされる

    ・親交のあった本願寺門主蓮如の留守中に居室に上がり込み、蓮如の持念仏の阿弥陀如来像を枕に昼寝をした。その時に帰宅した

    蓮如は「俺の商売道具に何をする」と言って、二人で大笑いしたという

    ・正月に杖の頭にドクロをしつらえ、「ご用心、ご用心」と叫びながら練り歩いた。

     

    「一休の言葉」

    ・門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし

    ・釈迦といふ いたづらものが世にいでて おほくの人をまよはすかな

    ・花は桜木、人は武士、柱は桧、魚は鯛、小袖 はもみじ、花はみよしの

    ・女をば 法の御蔵と 云うぞ実に 釈迦も達磨も ひょいひょいと生む

    ・世の中は起きて稼いで寝て食って後は死ぬを待つばかりなり

    ・南無釈迦じゃ 娑婆じゃ地獄じゃ 苦じゃ楽じゃ どうじゃこうじゃと いうが愚かじゃ

    ・親死に 子死に 孫死に

     

    「コメント」

    ・まことに勝手気まま、傍若無人、言いたい放題の人。これも天皇のご落胤のなせるわざ。誰も正面から文句を言えなかったのである。学識は高く、頭もいいので論争でも勝てない。周囲も困ったであろう。

    ・しかしこんな人でも、気の合う女に巡り合うと他愛のない事。純情な少年になってしまった。幸せな人生である。

    ・一休の言葉とは知らなかったよ。