.こころをよむ「漢詩に見る日本人の心」                 宇野 直人(共立女子大学教授)

150517⑦「やがて悲しき~狂詩の世界」

江戸時代後期から明治時代中頃まで流行した狂詩について話す。これは漢詩が日本独自の発展を遂げて現れた一種の滑稽文学である。「町人文化」  現実的・享楽的

狂詩が発展した背景は、当時の都市部にすむ商工業者いわゆる町人の活躍を挙げねばならない。彼らは商業の発展と共に莫大な

富を蓄積し、自由で豪勢な生活を謳歌した。そういう彼らの価値観、人生態度それはいわば物の本質や理想を深く追求していくとか、世直しに心を砕くとかそういう事よりももっと現実的で享楽的。これが江戸大阪の町人文化である。代表として、浮世草子・歌舞伎・

浮世絵。町人文化の精神は儒教にも影響して、心学が発展していくが、これは一種の日常的な道徳思想を分かり易く説くもので、人の心と言うものはその環境で動くという事を前提としている。武士ならば武士の、農民なら農民の、町人ならば町人の道があると説く。

例えば町人の場合、営利活動と道徳を一致させることが肝心という風に持って行く。そして、正直・倹約・堪忍、この三つの徳を重んじるように教える。

 

日本人の間では長らく身近な生活の中で色々な心がけ、エチケットが伝えられており、それらは最近江戸仕草という言葉で注目を浴びているが、其の江戸仕草の確立・普及の上で心学が果たした役割も大変なものであった。このような町人文化を背景に現れたのが

狂詩という事になる。狂詩が流行するにあたっての、立役者と言うべき人は江戸の太田南畝であった。太田蜀山人として知られて

いる。狂詩作家としては、寝惚先生と名乗っていた。「太田南畝・太田蜀山人・寝惚先生」

江戸深川の生まれ、少年時代から漢学・和歌を学び17才で幕府に仕える。19歳の頃刊行した「寝惚先生文集」が平賀源内に認められ、時の人となる。39歳の時寛政の改革が始まり、節約、文武奨励となり休筆。湯島聖堂を首席で卒業し能吏として活動した。後、

改革が緩やかになると執筆再開する。

 

「貧鈍行」  寝惚先生 七言古詩  俗諺・成語を並べ、貧乏暮しの辛さを笑い飛ばしている。

為貧為鈍奈世何  (ひん)()り (どん)()り 世を奈何(いかん)        貧乏だと頭も心もにぶる それでこの憂き世をどうやって渡るのか

食也不食吾口過  食うや 食わざるや 吾が口()ぎ   日々食べるにも事欠く 私の暮らし

君不聞地地獄沙汰金次第  君聞かずや 地獄の沙汰も金次第  あなたもご存知でしょう 地獄の沙汰も金次第という事を

于挊追付貧乏多  (かせ)ぐに追いつく 貧乏多し        とはいっても 働いても働いても 貧乏から抜けられないのだ

・二句の「口過ぎ」、三句の「金次第」、四句の「挊に追いつく」は全くの和語。この表記が漢詩に入り、面白可笑しさ、滑稽を出している。

 本来の漢詩は漢語のみで作られるもの。

・貧しい暮らしを自嘲的に笑い飛ばし、可笑しみが混じりあっている。

・寝惚け先生の狂詩は、このようにことわざを利用して可笑しみを誘っている。

「深川詞」 大田 南畝 七言律詩

当時、繁栄を極めていた門前町の深川を舞台に詠んだもの。深川は隅田川下流東岸の一帯。その界隈は富岡八幡宮を中心に遊興の地として賑わっていた。色々な行事があり、この詩では山開きが題材となっている。富岡八幡宮の境内に永代寺という寺があり、その庭園が景色の良いことで知られていた。春に庭園を公開、これを山開きと言う。山開きは江戸の重要な年中行事の一つ。

この詩は律詩なので、二句毎に見ていく。

土橋櫓下仲町通   土橋(どばし) 櫓下(やぐらした) 仲町の通り     土橋 櫓下 仲町の通りを抜ければ

大鳥居高永代東   大鳥居は高し 永代の東     一の鳥居が高くそびえる 永代寺の東

侠客浴衣親和染   侠客(きょうかく)浴衣(ゆかた)親和(しんわ)(ぞめ)       おてんば娘たちの浴衣は親和染

女房櫛巻本多風   女房の櫛巻(くしまき)本多風(ほんだふう)       女房たちの櫛巻きは本多風

予知一日山開処   (あらかじ)め知る 一日 山開くの処   かねてから心にとめていた 今日は山開きの日

正是二軒金落中   (まさ)(これ)二軒 金落つるの中   二軒茶屋こそは大金をはたくべき 憧れの場所

三十三間堂未建   三十三間堂 未だ建たず    三十三間堂がここに建つ前から

儼然弓矢八幡宮   (げん)(ぜん)たり 弓矢 八幡宮     弓矢神は厳かに 八幡宮に鎮座している

・1~2句  場所の導入 深川を訪れ、通りを歩いて、富岡八幡宮の大鳥居に到る風景を描写。遊興施設の名前を三つ

        土橋・櫓下・仲町  いずれも遊興施設

・3~4句  永代寺門前の賑わいの描写。おきゃんな娘、女房たちの着飾った姿。

・5~6句  八幡の社地にあった二軒の茶屋 人々の人気を集めた

・7~8句  山開きの日に行われる、三十三間堂の通し矢の事に触れている。

        京都の三十三間堂の名前と行事を模したもので、通し矢が行われた。

・深川    家康の頃は湿地帯であったが、干拓で猟師町→商業地→遊興街となっていく。その中心が富岡八幡宮。

「述懐」  銅脈先生 七言絶句 

銅脈先生は、畠中観斎といい京都在住。18歳の時の作で作者の実体験ではなく、仮構の作品。道を踏み外してしまう人生を自嘲的に詠んでいる。作中にことわざを多用している所は、寝惚先生の「貧鈍行」と共通している。

銅脈とは、にせ金、銅脈者とはならず者の意。寝惚の滑稽、銅脈の風刺と言われた。

弘法筆謬猿落樹  弘法も筆の(あやま)り 猿も樹から落つ  弘法も筆のあやまり 猿も木から落ちる

吾投娼婦多棄銭  吾も娼婦に投じて 多く銭を()つ   この私もつい遊女に入れあげて 金をつぎ込んだ

回頭家財無残物  (こうべ)(めぐ)らせば 家財 残物無く    身の回りを見渡せば 家財道具もすっかりない

今更難籌死子年  今更(かぞ)え難し 死子(しし)の年        こうなっては悔やんでも仕方のないことだ

「河東夜行」 銅脈先生 七言絶句

銅脈先生の作で、夜半の祇園の有様を詠んだもの。遊女の迎え、夜警、遊女と客の別れ、按摩、屋台など、夜更けの繁華街の

雰囲気が偲ばれる。そして最後に、自分は金がないと自嘲する。

三絃声静後過迎  三絃 声静かなり ()(すぎ)ぎの迎え      三味線の調べも止んで 仕事を終えた遊女に迎えが来る

回使挑灯夜半明  回使(まわし)(ちょう)(ちん) 夜半(やはん)明らかなり         送り迎えの廻し方の提灯は 真夜中にとても明るい

番太遂獒怒擲棒  (ばん)() (いぬ)を遂って 怒って棒を(なげう)ち      警備の番太郎は野良犬を追い 怒って棒を投げつけ

女郎送客留含情  女郎 客を送って 留めて情を含む     遊女は客を送りに出て 別れに引き留めて名残を惜しむ

按摩痃癖吹笳去  按摩(あんま) 痃癖(げんぺき) (ふえ)を吹いて去り          按摩は笛を吹いて通り過ぎ

饂飩蕎麪焚火行  饂飩(うどん) 蕎麪(きょうめん) 火を()いて行く          うどんやそばの屋台が 火を焚きながら行く

月浄風寒腹已減  月は清く 風は寒うして 腹  (すで)に減る   月は清く 風は寒く 腹が減ってきた

京師紅葉懐中軽  京師(けいし)の紅葉 (かい)(ちゅう)軽し             京都の紅葉を見ながら金がないのが悲しい 

・河東  鴨川の東、祇園の花街をいう

・後過迎  真夜中の迎え

・回使   回し方 遊郭や茶屋で客や遊女の送迎をする男衆

・番太   番太郎 町内に雇われて警備をする男

・痃癖   マッサ-ジ 肩こりも言う

・笳     あし笛

・蕎麪    そば

・京師    京都

「翁屋煮染」 方外道人  七言絶句  江戸名物を詠んだもの 二首  方外道人は、木下梅庵と言い医師。

暖簾高掛翁之面   暖簾(のれん) 高く掛くる 翁の面     高々とかかる暖簾に染め抜いた 翁の面

幾箇盤台煮染温   幾箇(いくこ)の盤台 ()(しめ)(あたたか)かなり  沢山の盤台に 温かい煮しめが載っている

上野花開三月始   上野 花開く 三月の始め    上野の桜が咲き始める 三月の始め

弁当重詰注文喧   弁当 重詰 注文(かまびす)し      お弁当に 重箱に 注文が続く

「長命寺桜餅」 方外道人  七言絶句

幟高長命寺辺家   (のぼり)は高し 長命 ()(へん)の家        幟を高く掲げる長命寺の隣の家

下戸争買三月頃   下戸(げこ) 争い買う 三月の頃         甘党が争って買う 春三月

此節業平吾妻遊   此の節 業平 吾妻(あづま)に遊ばば       この季節に在原業平が 江戸を訪ねたら

不吟都鳥吟桜餅   都鳥を吟ぜずして 桜餅を吟ぜん    都鳥ではなく 桜餅を詠むだろう  

・業平の歌「名にし負はば いざ言問わむ 都鳥 わが思う人は ありやなしやと」

 

「まとめ」

・狂詩は、漢詩が日本の文学風土に土着とした事をよる成果である。

・作者の鋭い着眼点と、表現力で当時の風俗を適格にとらえているので、違和感はない。これは中国の詩人が名所旧跡を詠んだ漢詩と大きな違いである。実際にそこを訪れてみると違和感を覚えることが多いのと正反対である。

・明治以降、「脱亜入欧」の風潮で漢詩も狂詩も下火になっていく。