.こころをよむ「漢詩に見る日本人の心」                 宇野 直人(共立女子大学教授)

150621⑫「安らぎを求めて~夏目漱石」

(夏目漱石)

国民的作家として余りにも有名な文豪であるが、漢詩作家としても独自の位置を占める。漱石は17才から亡くなるまで作り続けたが

作風の点かにいうと四つの時期に分けられる。

第一期(17才~34才)   10代半ばから、英国留学まで

第二期((46才の秋から)   修善寺大患の時期 大吐血

第三期(46才~48才)     穏やかな作品

第四期(48歳~50才    「明暗」執筆中に逝去

漱石には、漢詩を作る上で三人の恩人がいる。

・二松学舎創立者「三島中洲」

 幼い頃から漢詩の修養を積んでいたが、漢詩文、中国古美術を好んだ。二松学舎創立者「三島中洲」に漢詩の添削指導を受けた。

・第一高等学校の同級生「正岡子規」

その後漱石は、今後の進路について時代の変化を考慮して漢学ではなく英語研修を目指した。第一高等学校の同級生に子規がおり
漱石の漢詩について「千人に一人の才能で在る」と誉めている。以後漱石は漢詩を作る毎に、子規に講評を求めた。子規によって漢詩への
関心を大いに高めた。→「友は選ぶべし」「低きに流れず、高みを目指せ」

・第五高等学校(熊本)の同僚「長尾雨山」

その後東京帝国大学に進学し卒業後教職へ。30才過ぎから勤めた「熊本第五高等学校」の同僚に長尾雨山」がいた。

13才年上で漢学を始め絵画の大家。岡倉天心と共に東京美術学校設立に尽力し、日本文化の興隆に注力。漱石は彼に漢詩の指導添削を受けた。第五高等学校教授時代に優れた詩が多いが、これは雨山の指導に負うところが多い。

付け加えると、この時の生徒の一人が「寺田寅彦」

漱石はその後英国留学をして、帰国後第一高等学校、東京帝大で教鞭をとるが、その傍ら創作活動に注力し、名声が徐々に上がっていく。

雑誌「ホトトギス」に連載した「吾輩は猫である」は大好評。41才で朝日新聞に招聘を受け、専属作家として独立。しかし以後10年間漢詩制作からは遠ざかる。40代代前半に大吐血(修善寺の大患)。回復期に漢詩制作を再開したが、同時に小説「明暗」の執筆も開始。この頃、午前中に「明暗」に取り組んで複雑な人間の心理、感情に向かい合い、午後は漢詩を作り安らぎを得ていたという。これが遺作となる。

若年から胃病に悩まされ、糖尿病も併発していた。50歳で没。

 

漢詩を順に見ていこう。

   無題  七言絶句

閑却花紅柳緑春  閑却(かんきゃく)す ()(こう)(りゅう)(りょく)の春         花や柳の春の季節も今は上の空

江楼何暇酔芳醇  江楼(こうろう) (なん)芳醇(ほうじゅん)に酔うに(いとま)あらん  川の岸の料理屋に行っても 酒に酔う気になれない

猶憐病子多情意  (なお) 憐む 病子(へいし) 情意(じょうい)多く        情けないことに 病人となっても雑念が消えず

独倚禅牀夢美人  独り禅牀に倚って 美人を夢む     一人で座禅を組みながら 美女を思い浮かべている     

最初の喀血をした時期、友人あての手紙の中の作品。病人の心境を述べている。

(前半2句)

病み上がりの身なので、春の季節を楽しめない自分と言う所から始めている。それどころではないよと。

(後半2句)

しかし病後の身ながら、雑念・俗気が多く悩まされている自分に苦笑いしている。

・閑却      なおざりにすること 

・花紅柳緑   色鮮やかな美しい春の景色を表す  漢詩での春を表す常套語

・病子      病人の事

・多情意     多情多恨 情が多い事、感情が豊かで思う事が多いこと

(漱石の作品での色のイメ-ジ)

漱石は文学作品で色のイメ-ジを重視している。40歳の頃「文学論」という大著を出版しており、これは英国留学中から準備し、帰国後東京帝大で講義した内容をまとめたもの。概要は下記

・「文学的内容の基本成分」

 文学の感覚的要素として色彩について述べている。→仮に色の観念を詩から取り除いたら、詩の半分以上は魅力を失い味が無くなる。

俳句・短歌はもとより特に漢詩では色という面で特色を発揮しているものである。白は華やかな美しさを出し、緑は静かな楽しみをもたらし、赤は勢いを表し、其の美しさを増加させている。詩で色を感知させない作品は駄作である。

次の詩は、漱石の色彩感覚が発揮されている。

 

   (さい)()(こう) 五言古詩  

第五高等学校で英語を教えていた頃の作品。或る春の日に広い菜の花畑に出た時のワクワクした気分を詠んでいる。

菜花黄朝暾  (さい)() 朝暾(ちょうとん)()に              菜の花は朝日の中に黄色く浮かび

菜花黄夕陽  (さい)() 夕陽(せきよう)()なり             菜の花は 夕陽を浴びて黄色に輝く

菜花黄裏人  (さい)() 黄裏(こうり)の人                菜の花畑の 黄色に立つ私

晨昏喜欲狂  晨昏 喜んで狂せんと欲す         朝晩 嬉しくて 夢中になっている私

曂懐随雲雀  (こう)(かい) 雲雀(うんじゃく)(したが)い              膨らむ私の想いはヒバリと共に 舞い上がり

沖融入彼蒼  (ちゅう)(ゆう) ()(そう)に入る             みなぎる喜びは 天上界に入っていく

縹渺近天都  縹渺(ひょうびょう)として(てん)()に近く            遥かに高い所まで行き 天の都に近づく

迢逓凌塵郷  迢逓(ちょうてい)として(じん)(きょう)(しの)ぐ            遥か高い所で 俗世間から遠ざかっている

斯心不可道  ()の心 ()()からず             この心地よさは言いようがない

厥楽自潢洋  ()の楽しみ (おのがな)(こう)(よう)たり         この楽しみは深く広い

恨未化為鳥  (うら)むらくは (いま)()して鳥と()り        残念なのは 小鳥になって

啼尽菜花黄  (さい)()(こう)()(つく)さざるを           菜の花の黄色の中で  鳴き暮らすことが出来ないこと

古詩なので4句毎に区切って内容を見ていく。

1段(1句~4句)

菜の花の鮮やか黄色の美しさを褒め称えている。

・漢文で人と言うと、自分を指す事が多い。この場合、漱石自身。

・狂 日本語では病的な感覚になるが、漢詩では熱中する・夢中になるの意

・朝暾 朝日

・晨昏  晨・・・あさ。あした。太陽がふるいたってのぼるあさ。生気に満ちた早朝の意に用いる。

      昏・・・日暮れ

2段(5句~8句)

 菜の花に夢中になっている私の心はヒバリと共に舞い上がって天上世界に上っていく。空想の世界に羽ばたいている。

   ・曂懐  広々とした思い

   ・沖融  みなぎっているさま

   ・(そう)    青空

   ・縹渺   高く遠いさま

   ・塵郷   塵にまみれた俗世間

 3段(9句~12句)

 菜の花畑に遊ぶ喜びを強調して、自分はヒバリに変身して菜の花の素晴らしさを満喫したい。それが出来ないのが残念だ。

   ・潢洋   深く広いさま

 

漱石は殊の外、菜の花が大好きであった。後、熊本時代の事を書いた「草枕」の冒頭近くに、この詩を敷衍して次の様に描いている。

「草枕」の一節。

(春は眠くなる。猫は鼠を捕ることを忘れ、人は借金のある事を忘れる。時には自分の魂の居場所さえ忘れて正体なくなる。ただ菜の花を遠く望んだときに目が醒める。雲雀の声を聞いたときに魂のありかが判然する。雲雀の鳴くのは口で鳴くのではない。魂全体が鳴くのだ。

魂の活動が声にあらわれたもののうちで、あれ程元気のあるものはない。ああ愉快だ。こう思って、こう愉快になるのが詩である。

  ・・・・・・

詩人に憂いはつきものかも知れないが、あの雲雀を聞く心持になれば微塵の苦もない。菜の花をみても、ただうれしくて胸が踊る許りだ。

蒲公英もその通り、桜も・・・桜はいつか見えなくなった。こう山の中に来て自然の景物に接すれば、見るものも聞くものも面白い。面白い𠀋で別段の苦しみも起こらぬ。起こるとすれば足が草臥れて、旨いものが食べられぬ位の事だろう。

 しかし苦しみのないのは何故だろう。只此の景色を一幅の画として観、一巻の詩として詠むからである。画であり詩である以上はぢ面を貰って、開拓する気にもならねば、鉄道をかけて一儲けする了見も起こらぬ。只此の景色・・・腹の足しにもならぬ。月給の補いにもならぬ此の景色が、景色としてのみ、余が心を楽しませつつあるから苦労も心配も伴わぬのだろう。自然の力は是において尊い。吾人の性情を瞬刻に陶冶して醇乎として醇なる詩堺に入らしむるのは自然である。)

この様に自然美の魅力について述べた後、東西の詩の比較に入っていく。とかく住みにくいこの世を引き払いたくなった時に求めるのが詩の世界である。そして絵画であり、音楽であり、彫刻であると説いている。

   無題  五言絶句

次は修善寺の大患(吐血)直後の詩である。留まって療養しているときの詩。

秋風鳴万木  秋風(しゅうふう) 万木を鳴らし          秋の風は沢山の木々をざわめかせ

山雨撼高楼  (さん)() 高楼(こうろう)(ゆる)がす         山の雨は この高楼をゆさぶる

病骨稜如剣  (びょう)(こつ) (りょう)として 剣の如し      病んでいる私の骨は 剣が突き出ようとしているようだ

一灯青欲愁  (いっ)(とう) 青くして (うれ)えんと欲す    部屋の一本の灯は青く燃えて  私を憐れんでいる

(前半2句)

烈しい雨風。心境の例えになっている。不安感を表す。

唐の詩人 許渾の「感陽城の東楼」(・・・・・山雨来らんと欲して 風 楼に満つ)を踏まえている。

(後半2句)

病の床に伏している自分自身の事を言っている。

   春日偶成十首 五言絶句

其の七

流鶯呼夢去  (りゅう)(おう) 夢を呼んで去り         あちこち飛び回る鶯は 夢うつつの私を目覚めさせて去り

微雨湿花来  微雨(びう) 花を湿(うるお)し来る          小雨は 花をしっとりとうるおしている

昨夜春愁色  昨夜 春愁の色             夕べからの春の悲しみの気配は

依稀上緑苔  ()()として(りょく)(だい)に上る         そこはかとなく 緑の苔に宿っているのだろう

春の朝、目覚めた時の有様を詠んでいる。全体として有名な孟浩然の「春暁」の換骨奪胎の作品。

(前半2句)

寝覚めの物憂い心地の中で、昨夜来の小雨を思い出している

(後半2句)

花びらが苔の上に散っているだろうと感傷的になっている

・流鶯 飛び移っている鶯

・春愁 春の日の物思い

・色   様子

・依稀  そこはかとなく ゆずかに

「参考の詩」  孟浩然の「春暁」

(しゅん)(ぎょう) 孟浩然 五言絶句  

春眠不覚暁  春眠 暁を覚えず           春の眠りは心地よく 夜が明けたのにも気づかない

処処聞啼鳥  処処 啼鳥を聞く            あちらこちらで鳥のさえずりが聞こえる

夜来風雨声  夜来 風雨の声             夕べから 雨風の音がしている

花落知多少  花落ちること 知んぬ 多少ぞ    花は 一体どれほど散ったのだろうか

この漢詩には裏の意味がある。孟浩然は科挙に落第し終生、官職に付けなかった。望んでいたエリ-トになれなかった暗い人生。

此の苦しい思いが彼の詩には盛り込まれているのだ。エリ-トは朝出勤するのに私は寝ている・・・。

   無題  七言律詩

大愚難到志難成  大愚(たいぐ) 到り難く志成り難し           偉大なる愚の境地には到達せず 志も実現しない

五十春秋瞬息程  五十の春秋 (しゅん)(そく)(てい)            わが人生もあっという間であった

観道無言只入静  道を()んとして(げん)無く 只 静に入り     進むべき人生の道を見極めようとして 言葉に頼らず 静かさを求めた

拈詩有句独求清  詩を(ひね)らんとして 句有り 独り(せい)を求む  詩を工夫して句を作り ひたすら静けさを求めた

迢迢天外去雲影  迢迢(ちょうちょう)たり 天外(てんがい) (きょ)(うん)の影           はるかかなた 大空を去っていく雲の影

籟籟風中落葉声  籟籟たり 風中 落葉の声           ざわめきながら 風に舞う 落ち葉の音

忽見閑窓虚白上  忽ち見る 閑窓 虚白の上           ふと 人けのない窓辺に刺し込む光を見れば

東山月出半江明  東山 月出でて 半江明らかなり       東の山から月が出て川の半分が明るくなっていた

若い頃から漱石が心の拠り所としたのは、荘子の思想や陶淵明の詩であった。この詩はなくなる20日前の作。荘子からの引用が目立つ。前半が心境を詠み、後半は風景描写。

第一句 第二句  自分の人生の総括

第三句 第四句  生涯追い求めた二つのもの 「道」は老荘の思想、「詩」は陶淵明の詩

第五句 第六句  窓辺からの風景

第七句 第八句  思いにふけるうちに日が落ちて行った

大正五年、漱石は朝日新聞に連載小説「明暗」を執筆開始。新婚夫婦の自我のぶつかり合いを細かく分析しながら書いている。人間関係、喜怒哀楽という俗な世界を追及している。逝去20日前まで執筆。

午前中に小説執筆、午後は詩作。漱石の中に併存していた二つの側面(俗世と安心立命の詩の世界)を追い求め続けたともいえる。

 

「コメント」

子供の時に詠んだ夏目漱石で一番分かり易く、面白かったのは「坊ちゃん」「吾輩は猫である」、「三四郎」「こころ」に到り難解さを増し、「虞美人草」「草枕」「明暗」となると難しすぎて理解不能。こういうのが新聞の連載小説というのだから、明治の人の知的レベルは高い。

それにしても、漢詩に向ける漱石の想いは凄い。教養の大半は、漢詩から得ているようだ。これが英語教師?

また下世話に通じている江戸っ子だったのだ、幼児期養子に出されかなりの苦労をしたのも影響しているのかな