私の日本語辞典「歌と生き、言葉を究めて六十年」   歌人 日本文芸家協会理事長 篠 弘

                                                  聞き手 アナウンサ- 秋山和平 

150808②「編集者として、ことばとの対話」

出版社での国語辞書、百科事典づくりの仕事を通じて練り上げた日本語観。

日々の仕事の苦労と広く日本語と取り組む中で見出した自身の「短歌観」について

 

「秋山」

歌の実作と共に歌論、評論活動、ジャ-ナリストとしての出版活動、大学での教育、非常に多面的な活動をしておられる。前回はご紹介しなかったけれども篠さんの本は沢山あって、その中でも短歌を纏めたものとしては「篠弘全歌集」と言うのがある。その後に出た「緑の斜面」「東京人」という風な歌集もある。其れから「現代短歌史」全三巻の評論、その他に「篠弘歌論集」全体として実作とともに歌についての評論に心血を注いでおられる。前回の一回目で幼少の頃、歌の道に関心を持ったそのきっかけとそこから恩師との関わりという所がテーマとなって、最後の所で早稲田での卒論に中世の歌人京極為兼と言う人を選んだ。指導に当たった土岐善麿の思い出を語って貰った。為兼の代表的な歌一つを紹介して貰った。竹藪の中の爽やかさと言う歌であったが、為兼の感覚的と言うか、豊かな表現を志した人だったのでしょうか。

「篠」

明快です。爽やか、爽快感と言うか、生きている人間の充実感というか、単に描写しているだけではなくて生きることの貴さというか、生命を見つめる新鮮な目とかそれらが感じられる。だから今回初めてお聞きになる方もいらっしゃると思うのでもう一首挙げよう。

「沈みはつる入日の際に現るるかすめる山のなお奥の峰」

為兼が政治家として京都と鎌倉を往復するとき、生きた自然に触れたのである。今までは屏風絵を詠んだ歌で平安期は来ていた。生きた自然に出会えたので「沈みはつる入日の際に現るる…」夕方の日が落ちる時間にかすめるやまのその奥の山が見えた、こういう着目は近代短歌そのものである。

「秋山」

そうですね、きっちり見つめていない人には詠めない。

「篠」

生身の自然を捉えるようになったという事でしょう。釈超空や土岐善麿が感動して当時のアララギ派が自然主義、自然とか、叙景歌を褒め称えて万葉風の歌がいいんだと言っていたわけだけど、それだけではなくて、京極為兼達が、玉葉集の時代にこれだけの観察力と表現力を持った歌があったのだという事を証明したのである。土岐さんは戦争中に「京極為兼」と言う本を書いたが一方「田安宗武」という学士院賞を貰う大仕事をして、京極為兼の方は未完成のままになっていた。田安宗武→徳川吉宗の二男、国学者・歌人

私が大学一年で土岐善麿先生のお宅に伺った時「君 卒論テーマは決まったかね」と。一年だから決まっている訳はないのだが、「実は自分がやり残した仕事があるので、もし良かったらやってくれないか」それで、私の卒論のテ-マが京極為兼となった。

「秋山」

そうなったら受けるしかないですね。

「篠」

今から考えると自分みたいなものをよく見込んで頂いたと思う。

「秋山」

歌集「緑の斜面」に篠さんの「目に追えば探せる本が・・・・・・パラフィン紙まとう・・・・」と言う歌があり、その本が土岐善麿の歌集なのですね。

神保町を歩くと探している本は向こうから目に飛び込んでくるのでしょうかね。

「篠」

小学館には昭和30年の3月から勤めるがその頃は大不況。小学館は12明採用したが受験者数は4~5千人であった。私は出版か新聞と思っていた。読売新聞はほぼ決まっていたが土岐善麿先生は「読売はやめろ」と。私には東京にいて仕事をさせたかったので

あろう、それで小学館になった。新聞は地方転勤がある。

「秋山」

大学の卒論も無事終わって就職となる。

「篠」

窪田空穂と言う人の信条、「歌人と言うのは実作だけでなくて研究・評論・啓蒙をやれ。そして社会人としてちゃんと生きろ。」この五か条を厳しく言われた。

此の先生は人生を見ると非常に多難な人生を送っておられる。短歌だけを作っているのは短歌馬鹿と言って、短歌と言うのは社会人として生きて、その余暇位でいいのだ。短歌を朝から晩まで考えているような小世界に生きるということは止めて、研究遣ったり評論

遣ったり、講座をやったり、色々な社会活動を果たしながらやれという恐ろしい事を強いられた。

「秋山」

そのことは篠さんの人生においては全くその通りの事をおやりになるわけですね。小学館での仕事の最初はなんですか。

「篠」

それは小学館最終面接の時に尾賀さん(当時取締役、後社長)が「君は入ったら、何をやってくれるのか」と聞かれたので「雑誌よりは書籍を作りたい。出来れば小中学生の国語辞典を作りたい」と言った。そしたら「すぐ作ってください。何年くらいで出来ますか。」と言われた。土岐善麿は当時国語審議会の会長で、学生時代には土岐先生の秘書的な仕事をやったり、早稲田教授の中村先生の仕事も手伝った。この先生は広辞苑原稿を作っておられた。こういう事で辞典作りに関心があった。3年間で「新選国語辞典」を作り、これが

ヒットして売れた。現在9版である。

「秋山」

これが売れたのは何を大事にした編集方針だったのか。

「篠」

まずは標準表記(簡単に言うとある語またはその部分を漢字で書くか,仮名で書くか,どの漢字を使うかなどの基準)を使ったこと。

つまり今、最もノーマルな書き方は何かという事を大事にした。例えばしたがってとし→従って と漢字を使わない・・・・・・。

次は解説の言葉の順序。広辞苑は元々の意味が最初に出てきて、今使われているのは最後。これを逆にした。

「秋山」

この様なやり方が一番使いやすいという感覚を持っておられたのですね。

「篠」

それまでは大人の辞典を優しくした小中学生の辞典という発想であった。本当に小中学生が使い易い辞典を考えた。

「秋山」

その時代の感覚を大事にするという事は、京極為兼に似ていませんか。

「篠」

伝統的な二条派と京極派とはそこが確かに違っていた。

当時小学館に鈴木さんという部長がおられて、神保町を歩いて昔この本はいかに売れたか、売れなかったか、売れなかったのは何故か、いつも調べておられた。昔売れた本をもう一度だせば今の時代に合うのかどうか。「日本家庭百科辞彙」が昭和の初期に売れた、よって家庭百科事典を新しく作れば売れるのではと発想された。そこで「篠 やれ」という事になった。

「秋山」

それをやったのは27歳くらいとお若いですね。

「篠」

当時上の大正生まれは戦争で極端に少なく、我々は若くして色々とやらされた。辞典を出しているのは殆ど一社で図書館相手だし、又国際的視野で世界を相手にするというのが編集方針。そこでフランス文学者の河盛好蔵さんに意見聴取した。ラルス社(?)のやり方を勉強するといいとアドバイスされた。つまり世界を見渡すのもいいが自国の文化(歴史・文学・芸能・風俗…)を中心にそのアングルで世界をとらえるという形がいいのでは。このサジェスチョンが大きかった。部長さんは家庭百科というのを標榜していたが、段々に家庭と言うのはどうも家庭実用的な物が中心となり、商品としても範囲が狭まるきらいがある。恒常的に使う事を考えると、既存の辞典は

世界を向いているのでむしろNationalistic(民族的、国民的)なものに可能性があるのではと考えた。

「コメント」

私は篠弘と言う名は歌人であると思っていたが、前回も感じたがむしろ出版の編集者、企画者としての方が活躍しているのを知った。

何でもできる人だけど、窪田空穂の言として引用しているがそれは自分の考えでもあったのだ。

此れから又楽しみになってきた。

 

「参考」

・二条家

 藤原俊成・定家の子孫で為氏を祖とする和歌の家筋。京極・冷泉と対立。保守的傾向を持ち、代々勅撰集の選者を出す。

 南北朝時代に絶家。細川幽斎ら二条派の活動は古今伝授の学統として近世まで及ぶ。

・京極家

 藤原定家の孫為教を祖とする和歌の家筋。為教の兄為氏を祖とする保守的な二条家が南朝大覚寺統の信任を得たのに対し為兼は北朝持明院統の信任を得、語法・表現の自由を唱えて和歌の革新を叫んだ。鎌倉末期に絶家。

・冷泉家

御子左家の藤原定家の流れを汲む和歌の家筋。藤原為家の子、為相(ためすけ)を祖とする。保守的に二条家・革新的な京極家に

たいして比較的自由な歌風を主唱。のち上冷泉、下冷泉の両流に分かれ、現在まで続く。阿仏尼は祖の冷泉為相の母、多く関東で

活躍。

・御子左家

 藤原俊成がもと醍醐天皇皇子左大臣源兼明の邸宅を受領したのでこう呼ぶ。俊成とその子定家の確立した和歌の市販の家筋。

 定家の孫為氏・為教・為相がそれぞれ二条・京極・冷泉の3家に分かれた