科学と人間「私たちはどこから来たのか?~人類700万年史」            講師 馬場 悠男(国立科学博物館名誉研究員)

150911⑪日本人集団の形成2~渡来系弥生人の拡散と混血

「渡来系弥生人と弥生文化」

2千数百年前水田耕作や金属器の文化がアジア大陸から伝来した。そして狩猟採取を主体とする縄文文化は弥生農耕と変化していく。問題はその弥生文化を担った人々が縄文人の子孫なのかアジア大陸から来た人か。

・弥生人の身体的特徴

数千年前の縄文人の顔は四角く歯が小さいので口元が締まっていた。そしていわゆる濃い顔だったことが分かっている。ところが佐賀県の吉野ケ里遺跡、山口県の土井ヶ浜遺跡などで発見される2千年前の弥生人の人骨は縄文人の特徴とは全く違っている。発掘された人骨の顔は楕円形で平べったい。歯が大きいので口がやや出っ張っている。現代日本人にも見られるのっぺりとした顔立ちであった。身長も男性の平均が163cm、縄文人の158cmよりかなり大柄であった。

・弥生人は何者か

 佐賀県の吉野ケ里遺跡で発掘された弥生人の人骨とよく似た人骨を探してみると、朝鮮半島や中国の遺跡から

 見つかる人骨がそれに該当する事が分かった。そこで九州北部などの遺跡で発見される人々は中国や朝鮮半島から

 独自の文化を携え日本列島にやってきたと推定される。そこで彼らは海を渡って来たという意味で渡来系弥生人と

 言う。それに対して弥生時代に生き残っていた縄文人の子孫は在来系弥生人と呼ばれる。なお縄文文化が弥生文化に

 なったというのは完全に入れ替わったと言うのではなく、縄文文化を引きずっており何らかの融合があったと言われて

 いる。

・渡来系弥生人の正体

渡来系弥生人の祖先も縄文人の祖先も一緒に4万年前にアフリカから東アジアにやってきた。その時は双方とも彫の

深い顔であったはずである。それがどうして平べったい顔になったのか。実は渡来系弥生人と同じ様な顔立ちをした人々は中国北東部、朝鮮半島に多いのだが、その様な特徴を最も良く示すのはシベリアのブリヤ-ドやツング-スなど

いわゆる北方アジア人である。従って渡来系弥生人の遠い故郷はシベリアと考えられる。

・何故、いつからシベリアに住みついたのか

原人や旧人は厳寒のシベリアでは生存できなかった。それは彼らが防寒の毛皮をまとう事は出来ても完全に密封された衣服を作れなかったからである。ところが4万年前にアフリカからアジアにやってきた新人(ホモ・サピエンス)は新しい石器技術を持っていて、骨や角から針を作りそれを使って、防寒用毛皮の衣服、帽子、手袋を作った。糸は動物の腱や腸で。

・体質の変化

テント、橇、カンジキなど耐寒使用のグッズも作ったが、厳寒地方で暮らすには技術だけではなく顔や体を変える必要があった。体熱の発散が少なく凍傷になりにくい特徴を身に付けていった。身長の割に手足が短く、特に手足の末端が短くなった。

将に我々の特徴である「胴長短足」である。シベリアに住みついた人々は、凍傷にならない為に徐々に鼻が低くなり平らになった。皮下脂肪が厚くなり目が小さく、一重まぶたになった。眼球は血液の循環が少なくてまた角膜には血管がなく凍傷になり易いので。又ツララが付かないようにヒゲ・眉が少なくなり体毛全体も薄くなった。凍傷になり易い唇・耳たぶも

小さく薄くなった。

これらは一生の間の変化ではなく、その様な特徴を持っている人が生き延びて子孫を増やしたからである。これが北方アジア人の誕生したストーリ-である。北方アジア人には意外な特徴がある。それは腋臭の人や湿った耳垢の人は少ない、これはアポクリン腺から分泌が少ないから。アポクリン腺は体毛の部分(脇の下、乳首、外耳、更に陰部など)にあり

毛穴から分泌される。これが蛋白質と結合して独特の体臭を作る。ヨ-ロッパ人、アフリカ人などでは全員これがあり一種のセックス・アピ-ルとなっているが、北方アジア人は薄い。外耳にあるのは、これをノミ、ダニが嫌うからである、温度と湿度があるのでそのままだとその巣になってしまう。西洋人はアポクリン腺が発達しているので耳垢も湿っているが、北方アジア人のそれは比較的乾いている。よって西洋人の耳掃除は綿棒、北方アジア人の末裔の日本人は耳かき。

・弥生人の誕生 渡来系弥生人

6千年前からシベリアの北方アジア人が北東アジア全域に広がり始めた。気候の変化と、動物の乱獲で食物が少なくなったのであろう。中国北部に来て、粟・ひえなどを作る農耕民になった。更に長江流域で始まっていた水田耕作技術、

金属器の文化を獲得して2800年前以降に日本列島に渡来してきた。それが弥生時代の幕開けである。

そこで彼らを渡来系弥生人と呼ぶ。彼らは九州北部と本州西部にまずやってきた。村落を形成し水田で稲作を行い、その高い生産性で人口を増加させた。その遺跡の代表が吉野ケ里遺跡・土井ヶ浜遺跡である。

・渡来系弥生人の拡散    唐子鍵遺跡(奈良県)

近畿や東海の弥生時代の遺跡を発掘すると、組織的水田耕作や薄手の土器のような生活文化、或いは銅剣・銅矛で象徴されるお祭りの文化が見られ、北部九州から東へ広がっていったことが分かってきた。特に近畿地方では奈良の唐子・鍵遺跡という巨大な環濠集落が発見され、弥生の前期には九州の弥生文化がそこまで伝わっていた事は明らかである。

但し問題はその文化の担い手が渡来系弥生人なのか縄文人の子孫である在来系弥生人なのかが分からなかったことである。何故なら細長く平らな顔では歯が大きく身長が高い渡来系弥生人の骨は九州や中国地方に限られ、それ以外では発見されていなかったからである。

・唐子鍵遺跡(奈良県)の人骨→渡来系である事が分かった

1985年唐子・鍵遺跡から初めて人骨が発見された。当初足の骨からは縄文人の特徴と報告されたが、頭骨を講師が

鑑定した所、歯が大きく典型的な渡来系弥生人である事が判明した。その結果弥生時代前期に渡来系弥生人が関西にまで進出して水田耕作を行うような巨大な環濠集落を形成していた事が分かった。

・現代日本人の形成  

その後各地で弥生時代の遺跡が発掘され研究が進むと渡来系弥生人は、優れた生産技術で以て自らの人口を増加させていったことが分かった。北部九州から周辺に拡大し相当程度人口が増えてからゆっくりと縄文人の子孫と混血して

いったのである。結果として私達日本人は全体としては、文化的・遺伝的にも渡来系弥生人の影響を強く受けていると

言える。古墳時代には日本列島の中央部では渡来系の人々と縄文系の人々との混血が、渡来系の人々の割合が多い状態で進んだ。

なお古墳時代後期から平安時代にかけてはオホ-ツク文化人と言われる人々が樺太から北海道北東で即ちオホ-ツク沿岸にやってきて縄文人の子孫と混血した。現在の日本列島では北部九州から関西を中心とするほぼ全国で渡来系弥生人の影響が強い本土日本人が住んでいる。北海道には縄文人の影響が多い人達(アイヌ)が3万人、南西諸島には

縄文人と渡来系弥生人の影響が半々の琉球人がいる。この三つの集団とも大本は縄文人だが渡来系の人々の影響を

どれだけ受けたかによって体の特徴が出ている。築いてきた文化、伝統もそれぞれ違っている。従って日本人は

単一民族ではなく三つの民族によって形成されているのである。本土日本人、琉球人、オホ-ツク人。

・日本人における渡来系弥生人の影響の度合い 70%

形態学的研究やDNAの分析によって、日本人の大部分を占める本土日本人は渡来系弥生人の要素が70%、縄文人の

それが30%と言われている。その様な割合で両方の集団から遺伝子を受け継いでいると言ってもいい。

・渡来系弥生人の人口の推移

縄文人の人口は縄文時代中期には30万人程度。住居跡とその数から推定されている。そしてその人口は世界各地の

狩猟採集民に較べて10倍位密度が高い。これは食料が豊富にあったこと、簡単な農業、漁業も含んだ複合経済であったことによる。そこでもし縄文人が10万人いたとしたら、渡来系弥生人はその2倍以上でないと遺伝的優位性は出てこない。しかし一挙のこれだけの人が渡来してくることは現実的でない。そこで考えられるのは「渡来した人々は水田耕作のような高い水準の技術を持っていたので食糧事情もよく、栄養状態も良かった。その結果人口の増加率は高く、時の経過と共に縄文人を上回っていく」という事。この時期、稲の生産性の高さは驚異的。

・日本人の身長の変化 男性

縄文人 158cm、渡来系弥生人 163cm。ところがそれ以降は低くなって江戸時代 156cm。それは狭い日本列島で

限られた食物しかないのに人口が増えたためと解釈されている。そして明治時代となって栄養状態がよくなって徐々に

身長が高くなっていく。特に戦後一挙に10cmも高くなって、若い世代は170cmを超えた。しかし最近、伸びは止まって

いる。それは本来の遺伝的体質の中で栄養状態によって変わる事の出来る限界に達したと解釈されている。これ以上は伸びないのだ。

「コメント」

あの人は渡来系、この人は縄文系・・・。そう思ってみてみると面白い。体格、容貌、腋臭迄生きていくために変化し進化してきたのだ。今後この日本列島にいることでの変化は?脳容積が小さくなる?目が見えなくなる?耳が聞こえなくなる?