私の日本語辞典「暦をめぐる日本語史」     細井 浩志  活水女子大学教授

                                         秋山和平   NHKアナウンサ-(聞き手) 

150919

「青山」

前回は雄略天皇(21代 5世紀後半)、推古天皇(33代 6世紀末)から律令国家が成立するまでの間に、暦が用いられそれの普及に苦労したという話を伺った。今回3回目は律令国家の暦と言うものがどんな風に使われ、どんなものだったかについて伺いたい。前回の話の最後の方で、持統天皇(41代 7世紀末)の周りの出来事にも触れたが、律令国家として7世紀~8世紀に亘る辺りから新しい暦が入ってきたと言われている。先生の本によると676年~679年の辺りと言われているが。

「細井」

これは日本書紀(720年完成 神代→持統天皇)と、次の時代の続日本紀(797年完成 文武天皇→桓武天皇)の繫ぎの所で日付が違っている。文武天皇(42代 697年~707年)の所である。日本書紀は元嘉暦を使っており、続日本紀は干支で言うと()鳳暦(ほうれき)という事になる。

「秋山」

そうすると暦の切り替えがあったという事か。

「細井」

どちらかの歴史書の編纂者が文武天皇即位の8月1日に干支を当てるときに間違えてしまったという事であろう。何故違うかという事で、暦の切り替えはいつかと言う議論があった。

「秋山」

()鳳暦(ほうれき)の特徴は?

「細井」

儀鳳暦と言うのは元嘉暦と色々な点で違っているが、最大は定朔法(ていさくほう)というのが出来ることである。

(定朔法→太陰太陽暦におけるの始めの日(1日・朔日・ついたち)を決めるための計算方法の一つ)

元嘉暦は1ヶ月の長さは変わらないという前提で計算しているが、儀鳳暦の場合は1ヶ月の長さが違っているという事を知っており、

これで計算をしている。

「秋山」

1ヶ月の長さが違うという事は地球の動きが違うという事なのか。

「細井」

地球と太陽/月との関係で1ヶ月の長さが違ってくる。しかし元嘉暦ではそういう事を無視して1ヶ月は同じとして計算している。儀鳳暦の一番の特徴は、1ヶ月の最初のツイタチの日を厳密に決めようという所にある。新月の日を決めようというのが定朔法である。

「秋山」

これ以上聴くとどんどん難しくなってくるのでこの辺にして今の話を確認する。儀鳳暦と言うのは厳密な計算法で暦を作成したという事ですね。その上でこの方法を取り入れた律令国家は何のために切り替えたのか。何が背景にあったのか。

「細井」

一つには朔日(ツイタチ)が厳密でないと色々不都合が起きるのである。朔日は新月なので月が見えない筈なのに見えたりすると政府の暦はデタラメという事になる。そういう事を防ぐ必要がまずあった。ただ儀鳳暦自体は早くから知られており、部分的には使われて

いた形跡がある。文武天皇即位前後に儀鳳暦に変わったという事には別の理由がある。儀鳳暦は中国では(りん)徳暦(とくれき)といわれた。

(麟徳暦→中国暦の一つで、中国の天文学者・李淳風が編纂した太陰太陽暦暦法である)

当時の東アジアの考え方では朝貢する国は中国と同じ暦を使わなければならないと考えていた。これは中国に服属したことを表す。

当時の日本はこれを考慮して麟徳暦の採用を遅らせたのではないかと思う。唐と白村江で戦っているので敵対関係にあり、唐には

従属していないという姿勢を見せる必要があった。でも最新の儀鳳暦(中国名麟徳暦)を使いたいという願望はあった。 

8世紀初頭に遣唐使を再開したので、ここで踏ん切りがついて儀鳳暦を採用したのである。

「秋山」

唐との関係の決着を待って暦の採用を決意したという事ですね。日本を取り巻く世界情勢が暦の採用にまで影響したという事ですね。

「細井」

中国の思想では観象授(かんしょうじゅ)()といって、天子は天体を見て正確な時を民に授ける義務がある。逆に言うと時を授けるものが天子なので

ある。建前として唐と対等な日本としてはどういう暦法を使うかという事は極めて政治的な判断を要することであった。

「秋山」

この辺の時期から歴史書(日本書紀)に暦に関する記録が増えて来ていると本に書いてあるが。

「細井」

日食の予報が載るようになった。しかし結果的にみると現代の天文学者が計算してみると予報は殆ど外れているが。しかし当時の

暦法の計算では止むを得ないことではある。日食と言うのは当時の考え方では非常に大きな天変なので国家の行事は休まなければならない。

当時は占星術も盛んなのでこの季節にはこういうことはしてはいけないとか、天変が起きたら大赦しなければならないとか、天体現象によって政治的な判断をしなければならなかった。律令国家と言うのは官僚制国家なので、厳密に動かさなければならない。その時

正確なカレンダ-かないと運用上、支障をきたすのである。ともかく、国民に暦を普及しなければならなかった。

「秋山」

1回目の講義で伺った知識の延長として伺っておきたいのは、「地球が太陽の周りを回る時に傾いているので春夏秋冬がある」という事は知っている。又長い期間を想定した場合、地軸自体の指す方向は変化する。これを歳差(さいさ)運動と呼ぶ。歳差運動自体は珍しいものではなく、コマの首振り運動のように日常観察できるものである地軸の歳差運動の周期は約25,800年である。

こういうことが色々と関係して暦の天変地異として現れてくるのでしょうね。

「細井」

そうした点は暦法(暦の計算方法)が段々精密になった中国の暦法を習得してカレンダ-を作っていくことになる。その為に律令国家

時代は遣唐使が新しい暦法を学んで持ってきたのである。

「秋山」

儀鳳暦採用の8世紀初頭から、遣唐使が再開されたのですね。

「細井」

儀鳳暦は唐からの直輸入ではなく新羅経由の輸入であった。当初新羅は唐と組んで倭国・百済連合軍と白村江の戦い(663年)

戦勝した。その後百済、高句麗が滅んで今度は唐と新羅が仲たがいをする。すると新羅は倭国に接近して文化面での交流も活発に

した。

「秋山」

暦と言うのは重要なので新羅は外交の道具に使ったわけですね。8世紀にはいくつかの新しい暦が入っている。大衍暦(だいえんれき)である。これにはどういう事情があったのか。その暦の採用に関して国内にはどのような事態が起きていたのか。

「細井」

大衍暦を導入したのは唐で使われていたから。最新でかつ画期的な暦法と言われているもので、遣唐使吉備真備が持ち帰って来た。

(吉備真備→695~775年、2度の遣唐使)  大衍暦は難しすぎて中々採用にならなかった。

「秋山」

763年に大衍暦は採用され、これには藤原仲麻呂が尽力したと言われている。

(藤原仲麻呂→706~764年、武智麻呂の子、道鏡を除こうとして挙兵し敗死、恵美押勝と改名、孝謙女帝の従兄弟)

「細井」

吉備真備と言う人は孝謙女帝(46代 重祚して称徳天皇 聖武天皇の子)の教育係でもある知識人であった。本心はすぐにでも採用

したかったのであるが、理解が難しかったので勉強・検討の時間を置かざるを得なかった。又藤原仲麻呂は唐の文化大好き人間で、唐風の政治改革も行った。吉備真備が持ち帰った大衍暦か優れているという事で、陰陽寮(おんようりょう)の学生に勉強させ採用にこぎつけた。

(陰陽寮→天文・気象・暦・時刻・卜占を司った役所)

大衍暦は中国・の僧・一行玄宗の勅令を受けて編纂した暦法である。非常に整備された暦法であり、その形式が後世の模範となった。太陽運行の不均等性を考慮して太陽運行表が編制されていた。

「秋山」

8世紀孝謙天皇・淳仁天皇(47代 舎人親王の子、藤原仲麻呂に擁立される、後廃位され淡路島配流)・称徳天皇(孝謙天皇の重祚)の歴史の中で、吉備真備や藤原仲麻呂の支援の下に大衍暦が採用されたのですね。

「細井」

政治的思惑、理解が難しかったという事で採用が遅れたが優れていた。次の宣命暦(せんみょうれき)に変わっても暦注(れきちゅう)は大衍暦をそのまま使った。

(宣命暦→中国暦の一つで、かつて中国日本などで使われていた太陰太陽暦暦法である。日本においては中世を通じて823年間継続して使用され、史上最も長く採用された暦となった。)

 

「コメント」

文化的にも経済的にも更には軍事的にも劣勢の日本は古代から精一杯頑張ってきたのだ。昔も今も一緒だ。こういう先人の苦労のなかで今の日本がある。やせ我慢の連続、これが無くなったら将来の日本はない。中国の州になってしまう。頑張れニッポン。唐で使われている儀鳳暦を最初理解できなかった現実、これも重たいなあ。

今回の講師とアナウンサ-の組み合わせは頂けない。自信無げで余りアカデミックでない講師と、理解していないことを口走る

進行役。この形式の悪いバタ-ン。