私の日本語辞典「暦をめぐる日本語史」     細井 浩志  活水女子大学教授

                                         秋山和平   NHKアナウンサ-(聞き手) 

150926④奈良時代平安時代の暦

「秋山」

前回の終わりに、8世紀の半ば日本の国が律令国家として騒がしい事件の中で藤原仲麻呂の話が出た。そして孝謙女帝とのやり取りの中で結果的には藤原仲麻呂が姿を消すことになるが、この辺の事を前回の続きとして伺いたい。

結果として仲麻呂が破れて大津で敗死、その後には道鏡が出て来て変化が激しい時代ですね。

正倉院文書にも記録がある様に暦と言うものが作成され行政や政治、社会生活の基本を作っていくという事ですね。

(藤原仲麻呂)  改名して恵美押勝

武智麻呂の子。当初従妹の孝謙女帝の信任を得る。しかし女帝の寵臣 道鏡を除こうとして挙兵し敗れ、敗死。

「細井」

政府が一生懸命に暦を普及させようとしているので段々と浸透していく。元々は暦とか漏刻(ろうこく)と言うものがない時代が長く続いたので、そこに時間の物差しが入って来た時にはやはり面倒だなと思った人も大勢いたと思う。

「秋山」

奈良時代の役人は朝早くから仕事をしたと聞いているが、かなり時間に厳しい規則があったのでしょうね。

「細井」

それは暦と漏刻が入ったからだと思う。漏刻の精密なのは各地にあった訳ではなくて都や大宰府など限られた所しか

なかった。それ以外は簡便なものが使われていた。

「秋山」

昼とか夜とか出勤時間とかは日の陰りとか、自然現象の変化で決めていたのか。

「細井」

基本はそうであったろう。人間には体内時計と言うものもあるのでそれで調整していたと思う。

「秋山」

前回のお話で()鳳暦(ほうれき)と言うのが後に大衍暦(だいえんれき)となるが、その様な厳密なものが出て来て、後に宣命暦(せんみょうれき)と言うのが採用されるのですね。いつごろですか。

「細井」

9世紀、(ぼっ)(かい)の使節が持ってきた。これは唐で使われているというので採用された。最初の暦は百済、次は新羅、今度は

渤海。その後に()紀暦(きれき)と言うのが唐から入ってくるが、これが何故か暫く採用されなかった。これには政治的思惑があった。当時の桓武天皇が採用を嫌ったからと言われている。桓武天皇は母が渡来人系の人で即位に当たり色々と事情があって、自意識が強く色々と考えたのだろう。それですぐには五紀暦を採用しなかった。

「秋山」

五紀暦の特徴は何でしょうか。

「細井」

当時使われていた大衍暦とそんなに変わらない。技術的に理解できなかったわけではない。採用しようと思えば出来た。

桓武天皇は自分が支持される環境条件を色々と整えた。採用を見送ったのもその一つであろう。

「秋山」

後に宣命暦が使われるようになると、前の大衍暦に欠けていた部分を補って日食計算が行われるようになったと著書に出ているがどういう事ですか。

「細井」

日食と言うのは月の視差と言うのがあって、月と言うのは運動が複雑なうえに地球上のどこで見るかによって見え方が

違う。どう見えるかという事に関しては細かい計算が必要になる。宣命暦はその点で大衍暦より進んでいたと言われる。

「秋山」

当時、暦の担当は専門職として研究・観測をしていたのか。

「細井」

後に(れき)(どう)と言われる人々がいて暦の計算をしてカレンダ-作ったり日食の計算をしていた。陰陽寮(おんようりょう)の中に暦博士と言うのがいて、この暦博士が後に暦道と言われるグル-プになる。その後暦の仕事は世襲化していく。世襲と言っても親子と言うだけではなく、一族、弟子も含めての事である。それが10世紀の賀茂氏である。賀茂氏は戦国時代まで続き、安土桃山時代に断絶する。

(賀茂氏 暦道)

平安時代中期には陰陽博士賀茂忠行を輩出し、その弟子である安倍晴明が興した安倍氏と並んで陰陽道宗家

なり、子孫は暦道を伝えた。平安時代中期に賀茂保憲から天文道を継承した安倍晴明以後、天文道は安倍氏(後の

土御門家)の家学となる。

「秋山」

賀茂氏の暦法によって日本の太陰太陽暦は続けられるのだが、不都合はなかったのか。

「細井」

不都合がなかったわけではない。儀式の時に日食が起きるとまずいので日食予報などするが、当たり外れがしばしば

起きた。外れると各方面からクレ-ムが出るし、数学をやっている算道と言う人たちがいるがここからも計算がおかしいと言われる。時代が下ると社会が発達して色々なところで暦が使われるようになる。都で全国の為に暦を作ることがとても出来なくなり、中世になると地方夫々で勝手に暦を作るようになる。よって地方によってカレンタ-が違うので地域間では不都合が起きた。

「秋山」

そういう時代変化を経ながら貴族が具注暦(ぐちゅうれき)と言う事で、色々なことを暦に書き込んで使う。

(具中暦)

奈良平安時代に流行した暦本。漢文で星位、干支、吉凶占いなどを(つぶさ)に注したもの。→具注暦

日ごとに空白を設けて日記とした。貴族はその時、季節に合った儀式、政治をしなければならなかった。そうしたことから漢詩の会とか、和歌の会とかをするのだが、これは単純に楽しみとか趣味ではない。大切な仕事なのである。

結果として今では貴重な文化遺産として残っている。

「秋山」

当時の貴族には日記をつける習慣があったのですか。

「細井」

平安貴族は日記をこまめにつける。結局儀式をしたりするときのマニュアルと言うのは、具注暦に書き込む日記がベ-スになっていく。儀式行事と言うのは祖先からの積み重ねで習慣化し、定例化していく。

「秋山」

御堂関白記と言うのを見たことがあるが、とても細かく書き込んであったのを覚えている。

「細井」

日記が貴族の生活と大きく結びついていたのである。今の日記とは違う。

(御堂関白記)

平安時代摂政太政大臣藤原道長が著した日記意味不明な文章や、誤字・文法的誤りが多く、解釈が難しい。

「秋山」

歴史と記録と暦と言う関係で話はしていただいたが、これらの研究を通じて、これから興味のあるところは何か。

「細井」

人間にとって時間と言うのは何なのかという事を知りたい。人間は何を気にして時間を区切っているのか。区切った時間の区切りの中に過去の事実を並べていくのが歴史。そうやって作ってきた歴史と言うのは何なのかという事に関心がある。人間と言うのは生きているときに何かに拘っていく手がかりとして暦とか時間と言うのが大事なのであろう。

「コメント」

この対談はアナウンサ-の質問に少しずつ話が引っ張り出されてくるだけ。だから体系的に筋の通った話にならない。

最初は秋山のおしゃべり、何も分からないくせに、どアホと思ったが原因はそうではない。細井先生の姿勢だ、中身はあるのだろうが何か自信なげて頼りない。もっと自分の主張、説を堂々と話してほしかった。暦が人々の生活にどう

影響したか、時をどう管理したかを知りたかったのに。しかし中国は昔から偉い国、中国が無かったらまだ腹時計で

動いていたのか。