カルチャ-ラジオ日曜版「最後の隣人・ネアンデルタ-ル人を求めて」     講師 赤澤 威(高知工科大学名誉教授)

151101① 西洋史学からネアンデルタ-ル人研究へ

私はアラブ世界をフィ-ルドとしてきた人類学者である。具体的目標にした研究テ-マはネアンデルタ-ル人であった。

彼らが住処にしていた場所を発掘し、出来れば骨を見つけ正体に迫るという研究に取り組んできた。この世界に足を踏み入れて40年以上。その間にレバノン、シリアの三つのネアンデルタ-ル人が住んでいた洞窟の発掘に関わってきた。

ネアンデルタ-ル人と言うのは、20万年前にヨ-ロッパに登場し次第に勢力を拡大しヨ-ロッパ一帯から中東・中央アジア更にはシベリアにかけて住み着く。そして4万年前に我々現生人類の祖先と交代して消えて行った旧石器時代人である。考古学の世界に魅かれた訳は「マチュピチュ遺跡」と言う写真集を見たのがきっかけ。

「東京大学西アジア調査団」

 西アジア調査団は人類進化の具体的証拠を化石と文化遺物より検討するために、西アジア地域での発掘調査を目的として結成された。三ヶ日人、浜北人など日本国内での更新世時代人の調査を続けてきたグループが、さらに時代を

遡った人類を調査するため、西アジア地域の中期旧石器時代人の遺跡に焦点を絞ったものである。この地域は温暖な

気候により人類集団の生活に適した場をこの約百万年にわたり提供してきた。また石灰岩地帯の発達と、乾燥した気候

とにより、人骨化石の保存と発見に適した地域である。

ネアンデルタ-ル人人骨化石の発見

1961年第一回調査で華々しくデビュ―した。イスラエルのガリレ-湖近くのアムッド洞窟で、素晴らしいネアンデルタ-ル人人骨を発見した。この人骨は数あるネアンデルタ-ル人人骨の中でも類例のないものである。化石を専門とする

研究者にとって、旧石器時代の遺跡を発掘するとなれば、目指すはその遺跡に眠っている化石との出会いである。しかしこれは僥倖である。結局化石人類学者の殆どは夢をかなえることなく引退することになるのが通例である。発掘したとしても多くの場合は断片的な資料である。

所がアムッド洞窟ネアンデルタ-ル人人骨化石はほぼ全身骨格で見つかった。その保存状態が良い事からその発見は世界的に脚光を浴びた。ネアンデルタ-ル人化石は他の旧石器時代人骨に較べると沢山発見されている。しかしネアンデルタ-ル人を語る時は、この調査団の発見した人骨化石は必ず登場する。化石が素晴らしく、かつ化石に関する詳細な研究報告書が刊行されたことが高く評価されたからである。

●三次調査団への参加

この様に由緒ある三次調査団に参加したのがネアンデルタ-ル人との初めての関わりである。1967年出光石油の

「日章丸」に便乗し中東に向かったが、第三次中東戦争に巻き込まれてしまう事になった。調査団の目的はレバノン、

シリア、ヨルダンを中心として旧石器時代の洞窟遺跡を見つけること、ネアンデルタ-ル人の住み着いていた洞窟を発見し発掘をすること。しかしこの時は、発掘は許可されていなかったので、人骨は発見できなかった。ネアンデルタ-ル人が住みついていたと思われる遺跡を100以上見つけることは出来た。

三次調査団で見つけたドゥアラ洞窟(シリア パルミラ盆地)であるが、ここでネアンデルタ-ル人が作ったと思われる石器を発見した。ネアンデルタ-ル人独特の製法で作られた石器である。石器・動物の化石・人類の化石。この三拍子と揃う資料が学者の夢である。これがここで手に入るかもしれないと、日記に書いたことを思い出す。

●欧米の中東調査団

これまでは欧米調査団の独壇場であった。1930年代大きな発見があった。彼らはレバノン、シリア、ヨルダンに調査の

拠点になる研究所を作って競い合って調査研究を行っていた。これで中東研究の枠組みが作られた。その様なところに挑戦したのがそれまで全く実績のなかった日本の調査団であった。まずイスラエルから手を付け、今度はアラブに転戦

してきた訳である。欧州の調査団が日本をどのように見ていたか、まずはお手並み拝見であったろう。

●日本隊の成果 仮説の検証「パルミラ湖」

欧米の研究者を驚かすと同時に彼らのフィ-ルド調査の発想を大きく転換させる契機となったと思われる日本隊の成果の一つを話す。ドゥアラ洞窟である。ネアンデルタ-ルが住みついていた考古学的証拠が次々と見つかった。最大の収穫は美しい石器である。石器に混じって様々な動物の化石が見つかった。野生のラクダ、ヤギ、ヒツジ、馬、その他様々な

草食獣の化石。それに混じってライオン、ハイエナ、犬、猫などの肉食獣の化石も見つかった。所がそのような動物

すべてがこの地域に生息しない動物なのである。ここは乾燥地帯なので生息が困難なのである。見つかった動物は洞窟の住人、ネアンデルタ-ル人が持ち帰ったものである。ネアンデルタ-ル人が当時住んでいた自然は今日とは違って

いたと考えざるを得ない。ここで仮説が生まれた。「ここには砂漠に消えた湖 パルミラ湖があった」

1974年のパルミラ調査団に東大地理学の山口教授が参加し、地形の解析、土壌分析等によって過去の地形や自然

環境を復元解析する調査を行った。坂口教授は、地質ボーリングによってこの仮説を証明した。最も拡大した時、湖岸は洞窟の前方10km、その大きさは琵琶湖に匹敵する。この湖の存在で多くの謎が解けた。動物も植物も洞窟の周辺に

生息していたのだ。

この仮説証明にはもう一つ大きなポイントがある。それは現在とネアンデルタ-ル人が住んでいた時には、雨が夏に降っていたという事。この違いが重要なポイントである。夏に降った雨は蒸発せずに残るのである。

 

第一次調査隊で発見したアムドのネアンデルタ-ル人化石は知る人ぞ知る存在であるが、それ程注目されなかった。

事実、日本隊は諸外国の調査団から色々とアドバイスを貰った。しかしこの坂口教授の仮説証明は衝撃的であった。

彼らが調査している場所は河川流域に限られ、パルミラ盆地に見られるような内陸地方の発掘例はなかった。この砂漠に消えた内陸湖という研究モデルは一挙にスポットライトを浴び、調査のフィ-ルドを見直すきっかけになったのである。

 

「コメント」

まさに日本人奮闘記。調査団は出光石油、アラビア石油などの支援を受けて酷熱の地で奮闘したのだ。日本人特有の粘り強さで、成果を明けだのは運もあろうが大変な事。

学問的なことは次回以降だろうが、やはり上野の科学博物館のネアンデルタ-ル人は見なければ。