こころをよむ 「いま生きる武士道」                                   講師 笠谷 和比古(帝塚山大学教授)

151115⑦ 持続的平和の時代の武士道~信義と仇討ち

徳川時代になって200年にわたる持続的平和となって、侍にとって大きな課題を突き付けられることになる。サムライは本来戦場に

おける働きで自己を表現する訳であるが、200年にわたって戦争がない、その間武士はいかに生きるべきかという事は大きな課題であった。その中にあって新たな局面、つまり戦場ではないけれど平時の行政的な分野への進出については前に述べたとおりであるが、この武士道がその中にどのように具体化していくのかという所を見ていきたい。

その武士道の変質の中においてもそこで強調されるものの一つに、約束の遵守或いは信義を重んじるという風がある。そもそも

武士道においては忠・義・勇を武士道の三徳といい、以下である。

 ・主君に対する忠誠

 ・正義の貫徹      信義が強調され約束を守る。信用を守る。信頼関係を特に重視する。

 ・勇猛

「武士に二言無し」→言ったことに責任を取るし、約束を必ず守ること。

嘘をつかないという事でもあるが、武士道書を見ると色々な所でこれが強調されている。

前回紹介した「可笑記」の中に

・武士は勇猛果敢だけでは駄目である。人間としての徳義、内面の徳性を涵養しなければならないという事を強調している。

・その武士道の定義「嘘をつかず、軽薄な言動をせず、佞人(ねいじん)ならず・・・・」と徳目が並んでいる。ここの眼目は

 「嘘をつかず」と「表裏を言わず」。信頼・信義・信用の価値の高さが際立つ。

・この並びで見ると「主君に対する忠義」というのは位置づけが低い。

・「葉隠」の中にも「武士に二言なし」の価値観が見て取れる訳で「侍の一言金鉄よりも固く候。自身決定の上は仏心も

及ばるまじ」→「侍の一言は金鉄よりも固い。自分で決めた以上は神仏も及ばない」という表現で書かれている。

・このことは前出の「諸家(しょけ)の評定」にも出ているし、これに関連して武士の世界には「金打(きんちょう)」という風習がある。刀を用いる約束の形である。武士の魂である刀に掛けて誓うという事である。この約束を守りきれなければ、侍を捨てるか切腹と

いう形で責任を取る。→それ位約束を守ることを武士たちは最も大切にした。

「何故これほどまでに約束を守る、信用・信義を重んずる事を強調したのか」

・これは戦場における槍働きの代償物であった。武士は自分の強さを表現する戦場が無いので、武士が武士たる所以を

どのように表現するか。他の徳目は分かりにくいし解釈も様々となる。約束を守るという事はとても分かりやすいし、心の強さを表すメルクマ-ルとして絶対的なものになっていった。最高の道徳になった。

・当時他の階級では約束などは自分の都合でいつでもひっくり返すのは通常で異とされなかった。この事が武士が他と

違うのだという気概を示していた。「町人風情、百姓風情とは違う」

・しかし後年この事が他の階級にも影響してこの風潮が広まっていくことになる。この点において社会のリ-ダ-である

武士の役割が発揮されていた。

「仇討」

ここで視点を変えるが200年にわたる平和であると言いながら、武士が闘争という事から無縁であったわけではない。

侮蔑的な言辞があった場合は許し難いとして抜刀、果し合いという形も数多くあった。この結果が仇討に繋がっていく。

蘇我兄弟の様に仇討と言うのは中世以来あった。しかし江戸時代になるとそれまでとは違って、仇討の作法、ル-ル、というものがあった。名誉をかけた喧嘩・決闘の果ての殺し合いであれば仇討手続きに入り審査が行われる。殺害に不正があれば犯罪として官憲が逮捕し処断する。この場合は仇討にはならない。

●敵討の概要

武士階級の台頭以来広く見られるようになるが、江戸幕府によって法制化されるに至ってその形式が完成された。

範囲は父母や兄等尊属の親族が殺害された場合に限られ、卑属(妻子や弟・妹を含む)に対するものは基本的に認められない。主君の免状を受け、他国へわたる場合には奉行所への届出が必要で、町奉行所の敵討帳に記載され、謄本を受け取る。

敵討は決闘であるため、敵とされる側にもこれを迎え撃つ正当防衛が認められており、殺害した場合は「返り討ち」と呼ばれる。江戸時代の敵討は、喧嘩両成敗を補完する方法として法制化されていたことと、主眼は復讐ではなく武士の意地・面目であるとされていた点に特徴がある。この為幕府・藩は枠組みを作って敵討ちのアレンジをしているのである。

曾我兄弟の仇討ち1193、『曽我物語』)、鍵屋の辻の決闘1634)、赤穂事件1702、『忠臣蔵』)は「三大仇討ち」。

明治政府は第37号布告で「復讐ヲ嚴禁ス(敵討禁止令)」を発布し、敵討は禁止された。

「信義と武略」

中国の諺に「宋襄の仁」というのがある。→楚との戦いで部下が「敵の準備が出来ないうちに攻めたい」というのを「君子は人の困っている時に苦しめてはいけない」として却って楚に滅ぼされた故事→無益の情け・時宜を得ていない憐み。

物事には全て裏があることを踏まえて信義信用を重んじなければならない。敵が欺けば策略を練るのを武略と言い、

これが大事とした。

●俚諺に曰く「武士の嘘を武略と言い、武家の嘘を方便という」

仏教には方便という言葉があり「衆生を悟らせるためには物事を曖昧にして嘘をつくのも止むを得ない」とする。

この為に建前として嘘をつかないのに嘘をついたら、「武略」「方便」と言った。

●宇治川の合戦での佐々木高綱と梶原景季の先陣争い。「梶原殿、馬の腹帯が緩んでいるぞ」と言って、先陣をとった

佐々木高綱の嘘は武略と言う。

火宅(かたく)  これに例えた方便

 仏語。煩悩(ぼんのう)や苦しみに満ちたこの世を、火炎に包まれた家にたとえた語。法華経の()喩品(ゆほん)に説く。現世。娑婆(しゃば)。人々が,実際はこの世が苦しみの世界であるのに,それを悟らないで享楽にふけっていることを,焼けつつある家屋 (火宅) の中で,子供が喜び戯れているのにたとえた言葉。『法華経』の七()の一つ。

この時、子供に「出てこい」と言っても出てこないので玩具・御菓子をやるから出てこいと言う。これを方便と言って子供を救うためには許せるとした。→この事と同じレベルにおいて武士の世界でも機略を使って良いとした。

 

「まとめ」

戦国時代というのは分かり易い時代であったが、江戸時代になると様々な制約の中で武士の精神を失わずに、生きていくことが求められた。この流れが一般の国民にどんな影響を与えていくのか。

 

「コメント」

大多数の武士は頭が固く、融通性に欠けて嘘など吐かなかったであろう。しかし要領のいい先の見える奴は機略と言い、方便と言い嘘を吐いたと推察する。どこの、いつの時代も同じ。しかし日本人の道徳の柱は武士道からか。