こころをよむ 「いま生きる武士道」                           講師 笠谷 和比古(帝塚山大学教授)

151129⑨ 武士の社会と経済倫理~資本主義のさきがけ

前回、武士道が一般庶民の世界に広く浸透していったという、単に武士階級だけではなく一般庶民も武士道を受容する

ようになったという事を話した。そのことによって武士道の中のいくつかの重要な精神が庶民の世界にも共有されることになる。

「武士の信義・信用」→「武士に二言なし」「約束を違えない」

武士道精神、中でも特に重要なのは、例の信義・信用である。これは平和な時代における武士道の眼目として特に強調された。武士の武士たる所以は、信義信用を守るということにありとしてここに命を懸けるのである。逆に言うと一般社会では厳格には言われていなかったが「武士は違うのだ」という意識である。それから一つの心理的反作用が起きてくる。

という事は裏を返して言うと、一般の人は守っていないのではないかという事を暗に言っている。という事は一般の人々にとっては「武士にあらずんば不実者で人に非ず」と言われていることと同じである。

「一般庶民の反応」

以上の情況の中で一般庶民の中、とりわけ商人の側から「馬鹿にするな、俺たちも約束を守るのだ」という意識が出てくる

ようになる。例えば近江商人には「三方良し」という精神がある。「売り手良し、買い手良し、世間良し」という理念である。

これが近江商人の商売哲学であった。社会の公共的利益を目指すというものである。

武士が信義・信用を強調すればするほど、商人たちも武士に見下されてなるものかと信義信用を重んじるようになる。

例えば借用証文には不払文言というのがあって「必ず返済します。出来なかったら万座の中でお笑い下されたるべく候。」という文言が入る。笑われるという事は当時の人々にとっては最大の恥辱で、死を意味する。これで約束を違えることを戒めている。これは商取引において信義・信用がどれほど重んじられていたかを表している。

「江戸時代の信用経済」

江戸時代の経済的繁栄を考えた場合、信用経済という局面を欠かすことは出来ない。信用経済と言うのは、今日の銀行業務とか為替であるとかに係わるものである。もしこの信用経済が江戸時代に形成されていなかったら、明治以降の

資本主義的経済発展、近代化というのは為し得なかったであろう。アジア各国の様に欧米列強の植民地になっていても不思議はない。19世紀中に欧米列強以外にこのような近代的近代資本主義的発展を遂げた国は日本以外にはない。

江戸時代の日本の内的発展に目を向けざるを得ない。このような発展が何故可能であったのかという理由の一つに、

この信用経済とそれによる価値創造という問題を欠かすことは出来ない。

●単なる実物経済であれば、はなはだ貧相な状態でしかなかった。この信用経済とそれに基づく価値創造を通じることに

よって、経済価値を10倍、100倍に発展させるのである。江戸時代において、手形・商業手形の類、為替、手形割引と

いう概念が登場してくる。

(信用経済)

貨幣経済が発展して、信用が経済生活の特徴をなす経済。小切手、為替手形、株式、社債…などが広く用いられる。

(実物経済)

現物のものを対象として取引を行う経済。

(手形)

  一定の時期に一定の場所で一定の金額を支払う事を約束する有価証券。送金、支払、取立、信用の手段。

 (手形割引)

  手形に記載した支払期日以前に、金融機関が期日までの利子相当分を引いた残金を支払い、その手形を買い取る

 こと。手形貸付と共に金融機関の基本的な信用供与システム。

●手形割引

  商売代金を手形で貰うと、実際に代金が入ってくるまでに日数がかかるが、その間その金は動かない。それを金融

  機関に持って行くと直ちに利子分の費用負担で手元に資金が入る。これによって次の経済活動に入ることが出来る。

  このやり方は江戸時代に完成していた。

「堂島米会所」

  享保15年(1730大坂堂島に開設された米の取引所。現在の大阪市北区堂島にあった。当時大坂は全国の

年貢米が集まるところで、米会所では米の所有権を示す米切手が売買されていた。ここでは、正米取引と帳合米取引

行われていたが、前者は現物取引、後者は先物取引である。敷銀という証拠金を積むだけで、差金決済による

先物取引が可能であり、現代の基本的な先物市場の仕組みを備えた、世界初の整備された先物取引市場であった。

・ここでは現物の取引ではなく米切手取引が主流であった。

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  加賀藩は大阪蔵屋敷にある米百石を百両で売り出し、米商はそれを買い、米切手を受け取る。この切手が売買され

米商はその差額が利益。加賀藩は実物百石の中で当座必要なのは十石程度なので、実物が足りないのを承知で

10倍の千石分を販売し千両を得る。通常10倍の量を売ったと言われる。時として財政窮乏の藩は過剰に販売して

問題となる場合もあったが。

  ・何故大阪への回米が行われたか→他地で売れば百石は百石であるが、大坂では千石になる。

 以上のような経済的価値の創造、これが大阪で日本の物資を集散させる大きな力となっていた。

●先物取引

  切手取引が更に複雑になって大阪において先物取引というものが出てくる。100石は通常千石の米切手になるが

  これを更に引当金にして、将来一定の時期に受け渡すべき条件で売買契約をする。これを使うと更に10倍の規模で

  の取引が可能になる。これは当時帳合取引と言われていた。百両が1万両になるのである。ここに信用取引の威力を

  見ることが出来る。

●デリバティブ 金融派生商品

  大阪が開発した一連の信用経済の手法が現在世界で行われているデリバティブの原型と言われる。これは外国でも

  評価されて、シカゴ証券取引所の説明に「自分達よりも120年も前に日本の大阪でこのシステムの基本が行われて

  いた」と書かれている。世界的な評価を受けている。同時にこれが江戸時代の経済発展を支える大きな力でもあった。

●信用取引の基礎

  以上のような複雑な取引には不正が行われ易い所があり、現在は厳重な法規制がある。当時はそういう規制は

  なかったので、「構成員は不正をしない」という前提で成り立っていた。それを支えたのは倫理道徳であった。信用経済

  と言うのは人間的信用というものがベ-スなのである。

「頼母子講」

信用経済と人間的信用との関係を示す分かり易い例がある。頼母子講である

(頼母子講)

互助的な金融組合。構成員が一定の掛け金を出し、一定の期日に抽選または入札によって所定の金額を順次構成員に融通するシステム。江戸自体には盛んに行われており、庶民金融の手立てとして今でも色々なところで行われている。

●このポイントは順次融通するという点。例えば10人が10万江の掛け金の場合。 

 ・第一回目に当選人は100万円を獲得する。

 ・第二回目は残った9人に中から当選人を選ぶ。以降当たっていない人の中から選ぶことが続く。これを繰り返すことで

全員が100万円を手にすることが出来る。これが頼母子講の考え方である。

●一番大事なポイント

 一度当たった人は以降絶対に当たらないのに、最終回まで掛け金を払い続けなければならない事。この事は参加する人々が誠実に掛け金を払い続けることを示している。この頼母子講を支えているのは信義信用を重んじる相互信頼で

ある。これが江戸時代以降今日まで日本各地で行われていたのである。

 

この頼母子講は近代に入ると看板を変えて相互銀行となる。一般的には蔑称として「無尽」ともいった。

都市銀行、普通銀行は信用の裏付けのある人(担保力)しか相手にしないけれど、頼母子講は個人の信義信頼をベ-スに成り立つのである。草の根金融システムなのである。