こころをよむ「これが歌舞伎だ! 極みのエンタ-テインメント」       金田 栄一(歌舞伎研究家・元歌舞伎座支配人)

160124③「劇場と舞台機構」

「芝居」とは

芝居という言葉を考えてみる。演劇評論家・小説家の戸板康二は「今の人は歌舞伎を見に行くと云うのだね。昔は芝居に行くと言ったものだ」と。この人は、歌舞伎をいわゆる()から解放し大衆への道を開いた人でもある。

そもそも芝居という言葉は猿楽・曲舞・田楽などで、桟敷席と舞台の間の芝生に設けられた大衆の見物席の事を云う。ここから庶民は見物したのである。更に江戸時代になって歌舞伎が盛んになり、その意味が劇場や役者の演技や演劇そのものを指すようになった。

 

「芝居小屋」

そもそも歌舞伎というものは京都の四条河原での出雲阿国から発した大道芸から始まっているので、やがて小屋掛けして行われるようになった。小屋というのは仮設の劇場の事であるが、母屋からかけ離れた別の空間の意味で、芝居小屋と言うと日常からかけはなれた特別な歓楽の場として認識されていたのである。

(中村座)

江戸で最初に芝居小屋を起こしたのが中村勘三郎である。中村勘三郎という名は今でも有名であるが、由緒ある芝居小屋「中村座」の座元即ち興業元という事である。その座元として代々その名が受け継がれてきた。初代中村勘三郎は、京都の出身で道化の役柄である猿若の役者であった。当初は猿若勘三郎を名乗り、寛永元年(1624)に江戸の中橋南地(京橋)に初の常設芝居小屋「猿若座」を創設。ここに「江戸歌舞伎発祥の地」の碑がある。後に名を中村勘三郎と改めて、芝居小屋の名も中村座とし、代々その名が受け継がれてきた。13代まで続いたが、中村座の消滅と共にその名跡も途絶えた。昭和25年にその名跡を復活させる形で17代中村勘三郎が襲名している。その長男が先頃亡くなった18代中村勘三郎である。

(江戸三座)

この中村座を含めて江戸には芝居小屋が三軒あった。一旦風紀上の理由で禁止されていた歌舞伎が、許可されたのが江戸三座である。中村座・市村座・森田座で、それぞれに櫓を上げることを許された。かって江戸には山村座というのがあったが有名な「江島生島」事件で、幕府より取り潰された。大奥女中「江島」が将軍家墓参の折、山村座で芝居見物に興じ役者「月島」と情を通じたという事で大きな事件となったのである。

夫々の座元は中村座が中村勘三郎、市村座が市村宇左衛門、森田座が森田勘彌。いずれもその名は役者の名として残っている。つまり座元が世襲を決まりとして名跡を引き継いてきたことを表している。役者も世襲ではないかと思われるが、しかし役者は親から子へ、子から孫へと引き継ぐことになったのは明治以降の事で、世襲と言うよりは厳しい身分制度の中にあったので、職業選択の自由が無かったせいでもある。それに対し座元は、幕府から興行権を与えられているので、それを他人に渡すという事はなく江戸時代を通じて受け継いできたのである。 

江戸三座の場所は、中村座と市村座があった日本橋、森田座は木挽町と言った東銀座。今も歌舞伎座がある。

江戸時代には、「日に千両落ちる」といわれた。朝に日本橋魚河岸・昼に芝居町・夜に吉原。しかしこの繁栄も天保の改革で、芝居小屋は全て浅草に強制移転となる。浅草寺の裏手で、中村勘三郎に因んで猿若町と命名された。

明治6年に東京府の命令で10の小屋が許可され、江戸三座の時代は終わりを告げた。

 

「定式幕」

歌舞伎で必ず使われる三色の引幕があるが、これを定式幕という。定式というのは、芝居の中でいつも使うものという

意味で、大道具にも定式物というのがある。立派な御殿、武家屋敷そういった芝居では床の高い大道具が飾られるが、

その正面にはいつも三段という階段が付けられる。或いは舞台の下手(左側)の部分には、ここに人物が登場した時に

使う木戸など色々な芝居にいつも同じものが使われる。そういったものを定式物という。 

この定式幕に使われる三色は、黒・柿色・萌黄。黒・茶色・緑と言ってもいいが、関係者は黒・柿色・萌黄という。色の並び順は二通り、歌舞伎座は黒・柿色・萌黄、国立劇場は黒・萌黄・柿色。定説では歌舞伎座の並びは森田座式、国立劇場は市村座式。現在は殆どの劇場が歌舞伎座式を踏襲して黒・柿色・萌黄の並びになっている。ただし中村座だけは、黒・柿色・白。白の入った幕は久しく使われていなかったが、18代中村勘三郎の時に復活使用され、襲名披露の時に歌舞伎座でもこの幕が使われた。この幕は、初代中村勘三郎が将軍家から拝領したものと伝えられている。

(引幕と緞帳(どんちょう))

歌舞伎の幕が開くときに、柝の音と共にこの定式幕が左右に開かれる。一方で上下に開閉する緞帳というのがある。

これは世界的に広く使われているが、歌舞伎のように横に引かれる幕は日本独特で歌舞伎ならではといわれる。しかし江戸時代には三座以外では粗末な緞帳が使われていたので、「緞帳芝居」と言うと小芝居という粗末な芝居を指す言葉であった。今のように豪華な緞帳は、明治以来の西洋文化の影響である。

 

「舞台機構」

(花道)

歌舞伎機構の代表的なものは花道である。つまり舞台から客席を貫くように伸びている通り道である。ここから人物が登場したり、引っ込んだりする。まさに客席の中から登場したり、客席に向かって引っ込んだりでいかにも客席との親近感が生まれる。

ここで客が役者に祝儀()を渡したのでこの名がついたとの説もある。

舞台はあくまでも額縁であるが、歌舞伎は斯の花道があることによって客席、観客を巻き込んで素晴らしい立体空間を作り上げている。花道は歌舞伎が作りだした特筆すべき舞台機構といえる。花道の成立については、能の橋掛かりが近代化したともいわれるが、能の橋掛かりはこの世とあの世の繋ぐ懸け橋として存在している。歌舞伎はあくまで生身の人間が登場して観客を巻き込んだ大衆芸能である。よって役者と観客が一体となって作りあげた観客の為の花道と考えた方がいい。

花道で役者がかならず立ち止まる所がある。ここを七三という。ここに役者が立ち止まるととりわけ脚光を浴びる。助六の登場場面、勧進帳の弁慶の飛び六法等々、人物がクロ-ズアップされる。

(回り舞台)

今は西洋の舞台にもあるが、歌舞伎が世界に先駆けて設置したと言われる。歌舞伎の場合は舞台転換をスム-ズにするだけでなく、実際に観客の前で演出してしまうという歌舞伎ならではの大胆なやり方である。この回り舞台を考案したのが狂言作者の並木正三といわれる。

(すっぽん)

花道の舞台よりの七三と呼ばれる場所にある小型のセリのことである。原則として妖術使い・妖怪・幽霊・などが登場したり退場したりする。つまり人間離れした空想の生き物である。

(せり)

舞台の床の一部をくりぬき、その部分を上下に動かすことができる舞台機構をいう。「楼門五三の桐」は歌舞伎の演目で石川五右衛門が、南禅寺の楼門の上で「絶景かな絶景かな・・・」と名セリフを言う有名な話であるが、この時に楼門がせり上がってくる。同じ様な舞台装置が「青砥稿花紅彩画」(あおとぞうし はなの にしきえ)は、通称は「白浪五人男」の極楽寺の楼門の場でも使われている。

花道、回り舞台、せり、こういった様々な歌舞伎ならではの舞台機構、その中に見えるのはあくまで歌舞伎の持つサ-ビス精神である。観客を決して飽きさせない、そして役者を更に引き立てて、あくまでも娯楽に徹する芸能であるという認識がこういった工夫を生んだのである。

 

「コメント」

西洋芝居にはどこか主義というか、押しつけがましい所があるが、日本の物歌舞伎にはそれがない所がいい所。宝塚もやっていることは西洋の模倣だが、その形式やり方は歌舞伎そのもので日本的。そして江島生島の時代から女性は芝居好き、公認の娯楽なのである。