220220③「戦争が生んだ日本人論~ルース・ベネディクト「菊と刀」ほか

「チェンバレと八雲の日本観」自文化中心主義と、相対主義。

前回は16世紀と19世紀の欧米人の日本観の話をした。そこに流れている共通性というのが、逆様の国であるとする日本観である。アベコベの極致という言葉を、チェンバレンという英国の学者が使っていた。色々な意味で欧米人から見ると、生活規範、文化、モラルが逆様であるとする。

チェンバレンは対照的に見た文化の違いを言っていたが、八雲は19世紀の半ばに来日し、1906年に没。在日は半世紀。この人の日本観はチェンバレンとはかなり違う。八雲は、西洋は日本から学ばねばならないと言っている。

 

私の4回の講義のテーマは、自文化、自民族中心主義をどういう風に克服していくか、つまり愛国主義とナショナリズムの違いである。愛国主義は大事だと思う。日本人は日本人として自分の文化に誇りを持つことは大事である。行き過ぎるナショナリズムは、自文化中心主義となって、国同士の争いのイデオロギ-になりかねない。

そういう意味で八雲の日本観というのは、自文化中心主義から、様々な文化をパラレルに見ていく文化相対主義である。

つまり、文化毎の優劣を論じるのではなく、様々な文化を平等に見て、そこに差を付けないのである。

 

近代化されているかどうかという指標は文明というカテゴリ-で考えるが、文化というのは近代化されていなくとも、そこの民族の人々の習慣、倫理、価値観なので、他の国と優劣をつけて論じるべくではない。そういう意味で、八雲は偉いのである。

「第二次大戦での日本研究とル-ス・ベネディクトの考え方」

ル-ス・ベネディクト「菊と刀」の文化観というのは、八雲の西洋は日本から学ぶべきという考え方を受け継いでいる面がある。ル-ス・ベネディクトの中心的な考え方は、自文化中心主義で、他民族は劣っているという考え方を脱却したものである。

1930年までの日米関係は良好であったが、1940年代から敵性国家となった。
そして米国では、敵性国家としての日本研究が始まる。ここで日本と違う所は、敵性国家の文化、

習慣、民族性について詳しく研究するのである。実にしっかりしている。翻って日本を見ると、この方面は実に弱い。自文化中心である。

参考になるのは「失敗の本質」という本。中央公論新社、戸部良一。日本が第二次世界大戦でとった戦略が、いかに脆弱で拙劣であったかを分析した本である。要するに相手を研究せず、自分に

都合の良い政策の採用である。

所がアメリカは沈着で、軍隊とそれを支える戦略組織というか、文化人の集団があって、日本研究と、日本に勝った場合に日本を統治する方法を研究していた。敗戦後の日本をどうするかの研究が始まっていたのである。その代表的な物が、ル-ス・ベネディクトの「菊と刀」なのである。

1943年~1944年、敵性国家研究が始まる。最初は太平洋問題調査会が英米の学者だけで始まった。軍人なし。

文化人類学者、社会学者、心理学者。そういう人達が、敗戦後の日本の統治を前提にして、日本人の性格構造などについて議論した。これがル-ス・ベネディクトの「菊と刀」に大きな影響を与えた。

その時に議論された結論。

・日本人の精神的な未熟さ  例えば、特攻隊のように死に急ぐ。若い、未熟。それがマッカ-サ-の有名な言葉になる

「日本人の精神年齢は12歳」

・日本人は信念に基づかない

・順応性がある

・社会に対する適応性がある。→日本人自身も変わり身の早さを自覚することになる。

 学校の教師の例のように、軍国主義を、敗戦後一転して民主主義を教えるようになる。

・日本はギャング社会である。

トップがいて、階層社会である。天皇を頭に頂くヒエラルヒ-である。アメリカ人にはギャング社会に

見えるのである。暴力を含んだ階層社会であると断じている。

 

「日本人の行動パタ-ン」 ル-ス・ベネディクト  NHK出版 「菊と刀」を書く前の著作である。
これを補充拡大したのが
「菊と刀」となる。この会議は日本人が抱える問題はあぶり出したが、それは否定的な論ばかり。しかしそれによって逆に、アメリカ人の持つ問題の大きさに気付いたと言っている。アメリカ人一般は、自由・個人主義がベース、所が日本人は個人よりはむしろ世間に目を向ける。ここからル-ス・ベネディクトの、「罪と恥の文化」という名言が出てくる。一般のアメリカ人には、

日本人の世間・社会に恥じないように生きるというのは、人間内部から出た価値観ではなく、外部から強いられたものと映る。無責任に映る。アメリカの自由、日本は服従、責任、奉公である。

色々な議論の中で、逆にアメリカ人が日本を否定的に見るがそうではない、文化それぞれには、倫理観があって、性格が違っているものだという事になる。マーガレット・シートというルース・ベネディクトの弟子がまとめた。最後にルース・ベネディクトが、「平和を得るために、お互いが愛し合う必要はない」と、締めくくった。

 

ルース・ベネディクトはこの会議の後で、日米の文化的落差に注目して、こういう研究に向かう。

つまり日本人の倫理観、モラル構造、民族を支えている価値観、美意識、生活様式の解明に向かう必要があると思った。アメリカ人にとって理解しがたい国としての、日本の解明をしていくには、モラル構造を開明していくこととだとして、「罪の文化と恥の文化」の説明をしていくのである。

注意しなければならないのは、多くの日本の読者はなんとなく、ル-ス・ベネディクは、アメリカは罪の文化で日本は恥の文化といっているので、恥の文化の方が劣っているように思っている。罪は外面、恥は外面なので。彼女は、いい悪いを言っているのではない。

ここで一番問題になったのは天皇制の問題であった。

 

当初GHQには、天皇制はなくす、昭和天皇を処刑する、連合国が日本を分割して統治する案があった。天皇制の理解というのが、最大の難問であったろう。

「菊と刀」誕生の背景というのは、こういう議論があり、ゴ-ラの日本分析、マ-ガレット・シ-ドの協力などである。

「文化の壁」、これがアメリカでベストセラ-。これに目をつけた戦時情報局が、彼女に日本文化の分析を依頼する。

結局、彼女は「菊と刀」を戦時情報局の一員として書くのであるが、此処に色々な批判が出てくる。

ル-ス・ベネディクトが日本の文化を破壊した。そうではない。学者として日本文化を分析し、アメリカ軍部の悪者日本のイメ-ジを和らげたと見るべきである。結果的にはCHQの政策に利用された

部分もあったが。

菊は天皇制を、刀はサムライ表すと言われるが、私は菊は日本の美、刀は日本人の精神性の象徴としていると思う。

三島由紀夫

「文化防衛論」これは、「菊と刀」意識している箇所がある。菊というのは明らかに天皇、そしてもう一つは日本の意識である。彼は王朝文学に美を求めている。刀は、文武両道の道の意味として、日本人は文武両道の額を持つべきであるとした。彼は武という部分に軍事力を強く意識していた。50年前に、改憲論提起していたのである。

 

「菊と刀」の冒頭の部分を読む。

美を愛好し、俳優や芸術家を尊敬し、菊作りに秘術を尽くす国民に関する本を書く。同じ国民が刀を崇拝し、武士に再興の栄誉を与える。こうした矛盾した様に思われる二面性を描いていく。

 

これは戦時情報局の為に書いたがル-ス・ベネディクトは、アメリカの一般市民を意識していることを示す。アメリカ人にとって、日本を意識する最初の本であった。1946年に発行ベストセラ-になるが、1947年ル-ス・ベネディクトは没。61歳。後に日本に行かないで書いたと非難される。文化人類学は、現地調査が原則であるから。ア-ムチェア人類学と揶揄される。資料を集め机で書いたから。この

学問の始まりが、統治の為の学問であり、背景に帝国主義植民地経営があった。

 

「敵性研究」のレボ-ト  翻訳 社会思想社

ここでル-ス・ベネディクトは、日本にアメリカンデモクラシ-を押し付けるべきでないと言っている。

石垣綾子は一緒に仕事をしてそう証言している。しかし、正式レボ-トでは削除されている。1948年に翻訳が出る。ベストセラ-。

日本の知識人はこれをどう読んだか。批判が多かった。鶴見和子、津田左右吉、和辻哲郎、その批判に共通性がある。

「日本人は時代時代で変わっていくが、このの本では江戸時代も中世も近世も、全く同じ様に書かれている。日本人は変わらない民族として書かれている。」
賛同者もいた。敗戦で生まれ変わる、再生する機会を与える教科書であると。軍国主義、天皇中心主義、家族主義・・・

そういう物を反省的に見直す為の戦後社会の教科書的に大事だという意見であった。

 

「武士の娘」1925年、杉本鉞子(えつこ)に書かれた本であるが、それが「菊と刀」12章にでてくる。

これは長岡藩士の娘で、結婚して渡米した日本女性の英語本。ベストセラ-となる。司馬遼太郎が「福翁自伝」と双璧と評価した。

そして後年、ル-ス・ベネディクトはコロンビア大学の文化人類学教授となる。杉本鉞子(えつこ)もここで、日本語教師。

恐らく、ル-ス・ベネディクトは「武士の娘」を読んでいたであろう。そこから、階層社会、父性社会などのイメ-ジが出てきたのであろう。欧米人の日本観を見ていくと、どこまでも武士、サムライのイメージが消えない様である。

 

普通の占領では、勝利者は敗者の文化、権力構造を否定し、場合によっては民族を根絶やしにすることもあった。

しかし、日本に入ったGHQは、二つの方針を示した。

「敗戦後の日本の民主化と天皇制」

・日本の民主化

 ル-ス・ベネディクトは、アメリカ流の民主主義を日本に押し付ける事には抵抗があったようである。根底には、彼女の文化相対主義の考え方→文化はそれぞれの国の特殊性がある。アメリカンデモクラシ-を日本の強いる事に、疑問を持っていた。

・天皇制を残すこと

アメリカの世論とGHQは当初、天皇制廃止の意向が強かった。色々な人たちの進言があって、結局は維持することになる。それには、ル-ス・ベネディクト、それから八雲の愛読者であり、最高司令官マッカ-サ-の副官のボナセラ-ズの意見も大きく影響した。ボナセラ-ズは大変な日本理解者でもあった。彼は「天皇制に関する覚書」というレボ-トを残している。これが各方面に影響した。天皇制は残した方がよい。日本を再生し復興させる精神的支柱として、残すべきと。

総体的判断の一つの要因となったのが、マッカ-サ-と天皇の会見があった。場所はGHQではなく、アメリカ大使館。1945927日。この会見は天皇からの提案であった。この時の天皇のお言葉。

「この度の戦争の責任は私にある。国民には無い。」この言葉にマッカ-サ-は感動する。帰りは、天皇を玄関まで見送った。

「まとめ」

最後に「菊と刀」が持つ問題点、功罪と言ってもいいがここに触れる。提起した問題は大きい。ここでル-ス・ベルディクトが提起したのは、異文化理解はどうあるべきか。相手の立場に立って理解する、Understandである。彼女は日本人の側に立って、日本の文化を理解しようとしている。今日的、21世紀的テーマであるが、自文化主義、自民族主義という物の、どのように克服したらいいのか。文化を平等に見ていくことが強く求められる。ル-ス・ベネディクトはこの混沌とした国際社会の中で、どういう問題を我々に提起しているのか。

「菊と刀」から75年経過しているが、ルース・ベネディクトが玉音放送を聞いて、涙したと伝えられている。

彼女は色々とHDCPを持っていた。一つは難聴。前身は詩人。文学者。当初はアメリカインディアンの研究をしていた。マイノリティへの関心が高かった。

ル-ス・ベネディクトから戦後史をひも解いて、現在を考えるべきであろう。

 

「コメント」

今日も長かった。現在の日本があるのには色々な人の理解と努力。そして大変な幸運もあったのだ。昭和天皇には頭が下がる。小学生の私は天皇の車に、万歳をした記憶がある。帝王学は大事だと再認識。読むべき本が又増えた。