160922 「橘三千代」 上  梓澤 要 新人物往来社  2001年刊行

 ・読了 2016920

 ・著者 明大文学部史学科(考古学専攻) 主に女性を中心に据えた時代小説、古代女性が主人公

      の作品が多い。       「阿修羅」「定家」「橘 三千代」「結城 秀康」「空也」

 ・読書の切っ掛け

   先日まで作者の事は知らなかったが、新聞書評で「怪仏師 運慶」を歴史に詳しくとても面白かったので、その作品を続けて読んでみることにした。

・あらすじ()

   奈良時代後期から平安時代まで藤原氏全盛の基礎を作った藤原不比等の妻として、身分の

   低い犬養氏出身の (あがた)犬養美千代が智謀の限りを尽くし活躍した人生の記録。

身分の低い犬養氏の出身ながら、壬申の乱の功臣の伯父の引きで飛鳥朝廷に仕える。渡来人の子孫として、近つ飛鳥(河内)で育ち、遠つ飛鳥(飛鳥)の宮廷に。最初の夫は、敏達天皇のひ孫の()()王。(いわゆる王族)

次はこれを踏み台にして、壬申の乱で近江朝廷側として敗者の側にいた藤原不比等の妻となり、協力してのし上がっていく。持統天皇の皇子・草壁皇子の遺児・(かる)皇子(文武天皇)の乳母と

なり、出世していく。その間、不比等と共に有力な競争相手、大津皇子・高市(たけち)皇子などの天武系皇子達との激しい皇位争いで軽皇子の地位を高めていく。子供は美努王との間に3人、葛城王(後の橘諸兄)、佐為王、無漏女王(後に藤原房前の妻)

・犬養部

   日本書紀によれば、安閑天皇2(538)、屯倉の設置を受けて国々に設置された。犬を用いて    

   屯倉の守衛をしていたとされる。身分の低い氏族。壬申の乱で、天武側について軍功を挙げ、   

   飛鳥~奈良時代にかけて有力な氏族となっていく。渡来人系の家系で、河内が本貫。

 

160924 「橘三千代」 下  梓澤 要 新人物往来社  2001年刊行

 ・読了 2016920

・あらすじ()

 登場人物 首皇子と安宿媛(あすかべひめ)元明天皇、元正天皇、藤原不比等、聖武天皇と長屋王、光明皇后   

       他藤原四兄弟 道昭、行基(道昭の弟子)

      

 持統天皇悲願の草壁皇子即位は彼の自殺で潰え、期待は孫の(t)皇子となる。遷都した藤原宮で

  697年、文武天皇として即位。持統天皇は、太上(だじょう)天皇となる。しかし期待の文武天皇は15歳で即位

  したが10年間の短い在位、25歳で死去。

母の阿部皇女、(持統天皇の妹、文武天皇の母 天智天皇の娘)が元明天皇として即位。史上

4人目の女帝となる。

文武の遺児、(おびとの)皇子(みこ)(聖武天皇)の即位までの繋ぎである。不比等の先妻の子・宮子が入内して

産んだ子供である。

不吉な事が続いた藤原京から平城京への遷都が計画され、藤原不比等が朝廷の主役となって

いく。三千代は不比等の娘・安宿媛(あすかべひめ)(光明子→聖武天皇皇后)多比(たひ)()(後の異父兄・橘諸兄の妻・    橘奈良麻呂の母)生む。

新都平城宮で、周囲の期待をうけて首皇子は成長するが、三代続きの病弱。しかも首皇子はまだ

幼い、不比等と三千代は力を付けてくる高市皇子の長男長屋王を警戒する。本来、長屋王には

皇位継承権はないのだが、母の元明天皇の姉の御名部皇女の頼みで、皇孫(皇位継承者)となる。

二人は元明天皇の娘、氷高姫皇女(独身)を、首皇子の即位までの繋ぎとして即位させ、元正天皇

として長屋王排除に注力する。また、不比等との娘の安宿媛と、三千代の出身の県犬養広刀自

(三千代の従妹の子)を首皇太子の妃に入れることにする。62才になった不比等が死去。

今後は三千代と不比等の子、藤原4兄弟がことを進めることになる。安宿媛は二人の子、基皇太子と阿部内親王(後の孝謙天皇)、県犬養広刀自は三人の子、安積親王・井上内親王・不破内親王を生む。

24歳になった首皇子がやっと即位、聖武天皇。しかし病弱に生まれた基皇子は生後1年のたたずに死去。この中で長屋王と三千代・藤原一門との関係は様々な出来事で最悪となる。

ここで藤原兄弟が画策した「長屋王の謀反」が発覚し、一族は抹殺される、妻の元正天皇の妹・

吉備内親王も含めて。一連の事は聖武天皇も黙認したとされる。

 ここで聖武天皇は、(しょう)(ずい)を切っ掛けに天平と改元し、妻の光明子を皇后に上げる。

  「皇族でないものを皇后に上げたのは、神話の時代仁徳天皇の磐の媛の例がある」との苦しい説明

  の下に。

   身内に問題発生、長男の葛城王と異父妹の多比能との関係、子供が出来た。橘奈良麻呂である。

   70歳になろうとする三千代の悩みは尽きない。三千代が死去の数年後、期待された藤原4兄弟は

    疫病で相次いで死亡。

政権は藤原家より、葛城王(橘諸兄)と移る。そして聖武のたった一人の皇子の安積皇子は病死

し、遂に光明子の娘の阿部内親王(孝謙天皇)の世になっていく。藤原家の復権は次の世代まで

待たねばならなかった。

 

・エピソ-ド

(柿本人麻呂)  天武・持統時代の宮廷歌人  飛鳥・奈良時代にかけて活躍

 〇「衣手を 葦毛(あしげ)の馬の いばら声 心あれかも 常ゆ()に鳴く」     いばら声→けたたましい(いなな)

  居丈高な葦毛の馬がけたたましく(いなな)いている。飼い主の気持ちを有難く思う気持ちがあるのか。

  この歌は、前夫美努王の葬儀で、皆の面前で三千代の不実をあげつらった歌で、深く傷つけた。

  (この解釈は初めて聞いた、作者はよくもここまで曲解?したもの) 

  以下4首は、軽皇子が亡父草壁の皇子を偲んで阿騎野に狩りに行った時、柿本人麻呂が歌った。  

    (万葉集) 巻1

  軽皇子に父草壁皇子の事を思い出させ、天皇になる自覚を与える狩りの旅である。

 

 〇阿騎の野に宿る旅人うち靡なびき寐いも寝ぬらめやもいにしへ思ふに

   阿騎野で仮寝する旅人は、心静かに寝ることが出来るだろうか、いや昔の事を思い出して寝る

   ことは出来ない。

 〇ま草刈る荒野にはあれど黄葉の過ぎにし君が形見とぞ来こし

   ま草刈る荒野ではあるが、モミジの葉が散るように無くなってしまったあなた(草壁皇子)の形見と

   して見に来ました。

 〇東の野にかぎろひの立つ見えてかえりみすれば月かたぶきぬ

 〇日並(ひなめし)皇子(みこと)(みこと)の馬()めてみ狩り立たしし時は()向かう

  日並皇子(亡父)草壁皇子が馬を連ねて狩りに出かけられた時が今日も来た。

(元明天皇と御名部皇女との歌の問答) 

元明天皇(阿部皇女)と御名部皇女とは、持統も含めて姉妹。御名部皇女は、故高市皇子の妻で

長屋王の母。

以下の二首は、妹の不安をしっかり者の姉が励ましていると理解されている。しかし、作者はそう

ではなくて、長屋王の母の御名部皇女は「あなたに万一あったらば、私の息子の長屋王がいます」と

言っていると解釈する。その為にあなたの娘の吉備内親王を、長屋王の妻にしたのですよと、解釈

している。また、三千代はそれを憂慮したと。

健男(ますらお)(とも)の音すなり 物部(もののふ)の 大臣(おおまえつきみ) 楯立つるらしも  元明天皇

  この歌は即位にあたって元明天皇の不安を表したものといわれている。天皇の皇后ではなく

  皇太子の妃でしかなく、他に有力皇位継承有力者がいた状況であったから。

〇吾大君 ものな思ほし 皇神の継ぎてたまえる われなれなくに  御名部皇女

  わが天皇、そんなにご心配しないでください。ご先祖が遣わされた姉の私が付いていますから。

 

「コメント」

上下巻一気に読む。人物の歴史は正しいが、その行動・心理描写は小説そのもの。人間関係は、系図と首っ引きで理解しないと大混乱になってしまう。しかし、話の展開の興味で、飽きることは

ない。この時代の歴史好きには応えられない本である。しかし、それぞれの場面は流石に本当かなと、首をひねるのは度々。

それにしても、持統天皇・三千代・藤原不比等とその息子たちの目的の為に人をだまし、陥れる

悪辣さには絶句。実際に当時の貴族達の権力争いはそれに近かったのであろう。

次は、三千代の孫の橘奈良麻呂を描いた「阿修羅」を読むことにする。

私ごときがいう事ではないが梓澤 要の文章力は、如何なものか。題材の面白さで読ませるのみ。

             橘夫人念持物

 

藤原不比等の妻で光明皇后(聖武天皇の皇后)の母となった藤原三千代の念持仏を収め、婦人の個人的な信仰に用いられていた。

 

仏像は中央が阿弥陀如来、左側が観音菩薩、右側が勢至菩薩、いずれも金銅像である。阿弥陀如来は大きな蓮華座の上に坐しているが、大部分の阿弥陀像と異なって、この阿弥陀像は釈迦像と同じ印相をしている。すなわち右手が施無畏印、左手が与願印である。両脇の菩薩もそれぞれ蓮華座の上に立ち、観音は化仏、勢至は水瓶を宝冠に埋め込んである。それぞれ、慈悲と救済の象徴である。

(法隆寺蔵)