歴史再発見「元号文化の歩み」              京都府立丹後郷土資料館学芸員…吉野健一

181127⑨「江戸時代の年号」

「禁中並びに公家諸法度」以来、寛永更には幕末までを話す。

  1615年(元和元年)徳川幕府が天皇と公家の守るべき法を定めたもの。全17条。

天皇は学問を第一にすべきこと。公家の席次・任用・衣服など更には改元についても言及している。

これが徳川時代を通じて宮中と幕府との関係を決定付けた。

ここの8条に年号に関する規定がある。

元和(げんな)への改元そして寛永へ」

豊臣が滅亡して、徳川へ。慶長から元和に改元。(1615年) 慶長20年=元和元年  後水尾天皇

元和は10年続いて寛永へ。これは甲子(きのえね)の革年改元である。→寛永通宝(1文、4文)で知られる。建前では中国の元号から選ぶことになっているが、ここから中国の年号は排除される。

正保(しょうほう)改元」

三代将軍家光が「年号は天下を支配している幕府が決めるべき」として、朝廷の反発を受ける。

しかし{正しい事が保たれる}として、正保に決定。しかし手続き的には朝廷が決めたことになっているが、詩幕府が承認しなければ改元は出来なかったのである。

「江戸時代の改元の仕方」

〇改元の提案

 (幕府) ・天変地異

  ・将軍の交代

(朝廷) ・天皇の代替わり

(かく)(ねん)改元  

    甲子(きのえね、かっし)・戌辰(つちのえたつ、ぼしん)・辛酉(かのととり、しんゆう)

〇朝廷側の改元の進め方

  ・摂関家(摂関に任じられる家柄  藤原北家に限られる。

                後の近衛・九条・二条・一条・鷹司の五摂家)から儀式の責任者を選出する。

  ・新しい年号案を出す菅家の人々 4人  菅原道真の子孫

  ・天皇に摂関家の代表と菅家4人で、年号案を天皇に諮問する。

  ・これに基づき幕府に了解を求める。

  ・決定すれば天皇より改元の詔発布。

〇改元に関する意見

 ・新井白石  期中の改元は意味がない。改元によって何か変わるものではない。 

 ・中井竹山  松平定信への意見書で、一世一元を提案

この様な意見が、明治維新後の一世一元に繋がっていく。

 ・庶民 明和→安永への改元に際して

   狂歌「年号は安く永くというけれど諸色高くて今は迷惑(明和九年) 

「幕末の改元」  朝廷主導

幕末になると幕府と朝廷の力関係が変わってくる。朝廷の発言力が増してくる。改元は朝廷主導になって行く。

・元治の改元

 当初朝廷は「令徳」という案が出すが、「徳川に命令する」という意味として、幕府は大反発。

   しかし表だって反対できず裏面交渉で撤回してもらうこととなる。

・慶応への改元  江戸時代最後の年号 以降明治となる

 朝廷が一方的に決めた。

・明治維新  「禁中並びに公家諸法度」は廃止され、完全に朝廷主導となって行く。

「コメント」

何事も力関係で決まっていくのは、古今東西当然のことである。さて今取りざたされていた平成からの改元はどの様な仕組みで、決まっていくのか。もう決まっているとの説もある。