191119⑧「草壁系王統と「不改常典」~8世紀の古代王権(2)

前回は、長屋王の変は通説と違っているとの話。今回はその説明と光明子の立后との関り、8世紀後半の皇位継承について話す。

「長屋王の変」  長屋王 天武天皇の孫、高市皇子の子。左大臣に進むが、藤原氏の陰謀で一家自害とされてきた。

(聖武の後継)

従来藤原一族の陰謀で自害させられたとされてきたが、実は聖武天皇が皇位継承に絡んで実行したと考える。

聖武天皇には皇子誕生したが、早逝。この為有力な皇位継承権をもつ、長屋王の子供たちが邪魔になった。その為、自ら長屋王抹消を図ったと考える。

(長屋王の子供たちの系譜)

続日本紀によれば、長屋王の妻・吉備内親王の子(三人)が皇孫となった。長屋王の子としてでは

なく、吉備内親王の子として。吉備内親王は、草壁皇子の次女・元正天皇、文武天皇の妹。その子はまさに草壁系である。このため疑心暗鬼となった聖武天皇が死に追いやったのである。

「光明子の立后」  阿倍内親王を後継者にするため

光明子は聖武天皇の皇后で、藤原不比等と県犬養三千代の子。皇族以外で立后した。

聖武天皇には光明子との間には、阿倍内親王。妃の県犬養広刀自の間には、安積(あさか)親王がいた。通常では継承者としては、男の安積親王となる。この為に聖武天皇としても藤原一族としても光明子を皇后として、皇后の子として阿倍内親王を後継者として優位に立てようと図った。又安積親王の立太子を阻む為でもあった。最終的には光明皇后が38歳で皇太子誕生の見込みが無くなった

時点で、阿倍内親王の立太子が行われた。

歴史的にも女子の皇太子は初めて。聖武天皇と藤原氏のかなりの無理筋。

「孝謙女帝の即位と草壁系の断絶」

聖武天皇は孝謙女帝に譲位した。女帝は出産しないのでここで草壁系は断絶。譲位の詔で、不改常典の文言が使われていて、「天智天皇よりの定められたル-ル」と強弁している。

聖武太上天皇死去の遺言で、皇太子は新田部親王(天武の孫)の子の道祖王となる。

しかし孝謙女帝により廃位される。

「孝謙女帝の継承者」 大炊王後の淳仁天皇

群臣会議で当時の権力者・藤原仲麻呂の推薦で大炊王(天武の子・舎人親王の子)に決定。

後の淳仁天皇である。藤原仲麻呂(恵美押勝)と深く結びつき、孝謙上皇と対立。恵美押勝の乱後、

廃位され淡路に配流された。

この後、道鏡の宇佐八幡神託事件がある。重祚した聖徳女帝は、皇位継承は私の考えでやると主張したが、後継者を決めることなく死去した。

 

「コメント」

確かに天武天皇・持統天皇以降皇位継承の大きな争いはなくなったが、それは地下に潜り極めて陰湿になっていく。

その極みが聖武・孝謙の時代であろう。しかしこれで奈良時代から平安時代となるとまた別の展開となっていくのだろう。