201201⑨「日朝関係史と磐井の乱 そのⅠ」

磐井の乱については、日本書紀・古事記・風土記にも多く書かれている。当時の重大事件であった。

「磐井の乱」 広辞苑

6世紀後半、継体天皇の時に、筑紫国造磐井が北九州で起こした反乱。大和政権の朝鮮経営の失敗によって,負担の増した北九州の不満を代表したものとみられ、新羅と通謀したとも言われ、物部氏によって平定された。

 

従来は次のように考えられていた。

北九州は朝鮮半島の任那経営の為の前線基地として、倭王権から多大の負担を強いられていた。耐えかねた北九州の首長や民衆は国造であった磐井を擁して、反旗を翻した。任那、伽耶の支配が倭王権によって行われていた。そして、北九州が倭王権の支配下にあった。磐井は倭王権の行政官であった。→倭王権が北九州を支配していた。

 

しかし1970年、倭王権の任那支配の架空性が論証され、磐井の乱についての評価も大きく変わってきた。現在の考え方は以下のようである。

・北部九州の大首長の磐井は、独自に朝鮮半島との交渉を行いながら、片や倭王権の外交を支えていた。しかし新羅の伽耶侵攻を契機として倭王権は外交を一元化しようと、北九州に圧力をかけた。

・磐井は新羅と手を結ぶとともに、倭王権を見限って反抗したのである。主導権を握ろうとする倭王権との葛藤の中でこの乱は発生したのである。

 

この時期の北部九州の状況を見てみよう。5世紀後半

代表的な古墳 新羅との関係が強く窺われる。

・日岡古墳 福岡県浮羽郡 筑後川南側   副葬品が新羅との繋がりを示す

 前方後円墳・長持ち型石棺

・セスドノ古墳 福岡県田川市 

 前方後円墳 

 石棺、副葬品から朝鮮半島との関係がみられる。新羅。

 

「コメント」

 

事々しく言わないでも、先進文明である朝鮮半島の影響を受けるのは当然。古墳から朝鮮半島を示すものが、出てくるのは当たり前。なんで強調しなくてはならないのか。