201215⑪「栄山江流域における前方後円墳の造営の背景 そのⅠ」

朝鮮半島南部(栄山江流域)の前方後円墳」

前羅南道・北道(朝鮮西南部)に分布する日本列島のものと同じ前方後円墳が10数基。これらは5世紀から6世紀の築造とされ、当時の日本列島と朝鮮半島の政治的・文化的関係を示す事例である。副葬品の埴輪、横穴式石室などから日本列島のものと酷似する。しかし、列島からの倭人移入の痕跡もなく、現在は在地首長説・倭系官人説・倭人説に別れ、結論に至っていない。

 

今日はこの前方後円墳をどう考えるかについて話す。

当時日本は朝鮮半島から様々な文化を取り入れていた。須恵器、馬、馬具、土木技術、竈、生活様式。将に日本にとって技術革新の時代であった。此の地域は倭が積極的に交流をした地域であったのだろう。

(前方後円墳の位置づけを見てみる)  高校の日本史教科書による

弥生時代の後期には大きな墓が営まれるが、三世紀後半になるとより巨大な前方故円墳を始めとして古墳が西日本中心に出現する。木棺を竪穴式石室に収めた埋葬施設である。多数の銅鏡を始めとする副葬品が見られる、画一的である。これは広域の政治連合が形成されていた事を示す。最大のものは、大和の箸墓である。その後は機内に多数作られた。政治連合の中心が大和地方であることを示す。これを大和政権と称する。4世紀には東北地方、九州南部まで波及する。

 

5世紀後半以降、畿内以外での築造は見られなくなる。この事は5世紀後半を境に、当初首長連合の大和政権の構造が大きく変化し、大和の大王の権力が強大化したことによる。前方後円墳が大王のみのものとなった。

 

この様に、前方後円墳が大和政権の政治的主導を象徴するとすれば、朝鮮南部の前方後円墳は、大和政権の影響下にあったと結論せざるを得なくなる。倭の領地であった。

 

しかしこれを証明する資料はない。今後の研究を待つしかない微妙な問題である。

 

「コメント」

朝鮮との歴史的問題に関しては、常に政治的・感情的なものを排除できないのが現実。このような学問なことについても同様である。今は任那日本府などなかった、倭が朝鮮半島に領地を持っていたという事実はなかった・・・・。

 

この講師も、こういう背景で言葉を選びつつ、微妙な発言となってしまう。事実は、中国先進文明を朝鮮半島経由導入しつつ、倭王権が朝鮮半島の分裂を利して、侵略を行ったのが現実であろう。そして、その痕跡がこの前方後円墳だと思う。