220510⑥「承久の乱」

源実朝が暗殺された2年後(1221)、後鳥羽上皇の朝廷軍が鎌倉幕府の北条義時に対して、討伐の兵をあげる。

武家社会からの復権を望んだものであったが、敗北。これが承久の乱であった。これによって、鎌倉幕府は朝廷、貴族の持つ荘園を接収し、全日本を代表する政府となったのである。

後鳥羽上皇の皇子の将軍推戴プラン

源実朝が暗殺された。という事になると鎌倉幕府の将軍がいなくなったことである。実朝に後継ぎが生まれる可能性が無いと見て、北条政子は実朝が生きている内に、京都に行き、源氏の名に拘らず次の将軍を探してきている。

それは後鳥羽上皇の皇子。この辺は朝廷の事などどうでもいいという鎌倉の態度とは矛盾するが、将軍にはそういう貴種が欲しいのである。北条氏が将軍にならなかったのは、そうした事もあったのだ。

 

当時の社会の支配層は三段階あった。天皇を頂点とする貴族、地方貴族、地方武士。この地方武士が鎌倉幕府を作った。その彼らが主人として、仰ぐのは上の階層の人、頼朝は軍事貴族なので将軍として扱うのである。北条氏は現地武士なので、将軍となるのには周囲の抵抗がある。北条氏もこの辺はよく理解していた。

ともかく貴族を実朝の後の将軍として、迎える話は出来ていた。

しかし信頼していた実朝が暗殺されるに到り、後鳥羽上皇は待ったをかけた。そんな危険な所に皇子をやれないと。

皇族の次に貴い血筋として藤原氏の近衛と九条がある。九条家の三男が鎌倉将軍四代目となり、頼経と称する。実質的には政子が尼将軍として存在していた。政子を支えていたのは義時であり、大江広元等の官僚であった。こうした形で鎌倉幕府が動いている様子を、後鳥羽上皇が苦々しく見ているという状況である。その後、将軍頼経は反執権勢力に利用されるようになり、五代執権時頼が京都に追放する。

 

後鳥羽上皇→承久の乱

歴代の天皇では抜群の資質を持った人であったが、コンプレックスがあったという話がある。三種の神器がない状態で皇位についたことである。三種の神器は平家の手にあったのである。そして檀浦の戦いで剣は永久に失われてしまった。

しかし、現在、剣は熱田神宮に、復活しているという事であるが、これには面白い話があるので後に述べる。

異例ではあるが、後鳥羽上皇は武芸にも励み、親衛隊として北面の武士を作る。そして有力武士を集めた。鎌倉で梶原景時が失脚した時には、この北面の武士になろうと京都を目指したと言われる。このメンバ-には平清盛、佐藤義清がいた。更には西面の武士団もつくる。朝廷軍である。

これを使って鎌倉幕府を滅ぼすと1221年、実朝が暗殺されて2年後、院宣を下した。院宣に何と書いてあるかというと、「義時を討て」とある。これを根拠として、後鳥羽上皇は幕府を否定していない、義時が問題なのだと主張する若い人がいる。こう言うのは、ちゃんと先生方が教育しないといけない。色々な説があっていいが、こんなのは一瞬で論破されてしまう。当時には幕府という言葉はない。だから鎌倉幕府を倒せという院宣が出るわけがない。だから幕府を倒せという

院宣もないのである。

この戦いで問題は両軍の兵力である。大幅な兵力の差。

吾妻鏡には、朝廷軍1700、幕府軍15千。瀬田、宇治の戦いで勝利し入京する。

朝廷軍の敗因は何か。朝廷は国毎の守護を把握していれば、その国は朝廷側と認識していたが、当時の守護の力はなく現地武士は別であった。それに反して、幕府側は武士団である御家人毎に把握していた。実質的な統制である。

室町、南北朝時代と守護は力を付けて来て、国を代表して、守護大名、戦国大名と言われるようになる。

鎌倉時代の守護は長男、戦国時代の守護は親分なのである。

後鳥羽上皇は守護を取り込めば、その国の兵力を動員できると思い込んでいたのである。

鎌倉幕府は、一人一人の御家人を説得して、動員したのである。

こうして後鳥羽上皇は敗れ、朝廷軍を廃止するから、朝廷を罰するのはやめてくれと懇願した。この時を持って朝廷は

武力放棄したのである。これより軍事は幕府の専管事項となる。

 

鎌倉幕府の全国支配

もう一つ、朝廷の敗戦によって朝廷に関わる荘園が、2千ヶ所幕府の物となった。平家滅亡で500ヶ所。ここで全国的になった。鎌倉武士団は大挙して西国に向けて、勢力を伸ばした。東国だけの鎌倉幕府が、全国政権になったのであった。これで日本を代表する政府になったのである。承久の乱の最大の意味である。

 

「コメント」

朝廷が軍事を失って、権威だけになった画期的な出来事である。武士が政治、軍事を掌握したのである。なまじ優れた資質の天皇が出たのが、仇となった。出来るやつは危ない目に合う。