220621⑫「平頼綱の粛清」

1285年、安達泰盛と平頼綱の間で起きた内部抗争は、頼綱が安達一族を滅ぼしたことで収束する。幕府の実権を握った頼綱は、「幕府が全国に責任を持つべき」とした上で、それまでの考えと違い、「御家人の利益を第一とすべき」とした専制政治を推し進める。今回、後に鎌倉幕府が滅びる原因にもなったと言われる平 頼綱の粛清について話す。

 

前回話したように、モンゴルの襲来時期に、幕府の中では北条時宗の奥さんの父・安達泰盛という有力者がいた。それから、平頼綱-時宗、貞時の執事、時宗の専制政治の補佐役、貞時の権威を後ろ盾にして絶大な権力を振るう。この二人が二つのグル-プを作って反目していた。

安達泰盛の方は幕府と言うのは、日本列島に対して、社会全体に対して責任を持つべきと考えて

いた。

平頼綱は幕府本来の在り方、即ち御家人ファ-スト、御家人の利益が第一としていた。

この二派の政策の違いで、徳政令が出たり廃止されたりしていた。それからこの混乱が、朝廷の両統迭立と言う問題を生み出したことは話した。

両統迭立の実態

両統迭立発生は前回で話した。

その結果としてどうなっていくかという事だが、先ずは承久の乱で朝廷が幕府に敗北して、後鳥羽上皇が朝廷を引っ張っていくというのが完全に否定されて、九条道家という幕府の四代将軍・源頼経の父でもある人が、摂政関白として権力を握る。しかしこの時期に後嵯峨上皇が亡くなってしまい、朝廷の一本化は困るという平 頼綱の意向が働いてこの時期に摂政関白として最後に力を持ったのが、鷹司兼平。近衛家からの最初の分家。だから亀山上皇は父の後嵯峨上皇ほどには、政治力を発揮できなかった。例えば弘安21279年から、亀山上皇の政治的発言がかなり強力になっていく。これはこの頃に鷹司兼平が退いて、亀山上皇が前に出てきたのだ。恐らく、安達泰盛が幕府で実権を握ったというのが、朝廷に影響したのではないか。

モンゴルの襲来による論功行賞 安達泰盛と平頼綱との対立

弘安41281年 これがモンゴルの襲来である。この後1284年、3年後に安達泰盛の徳政が行われる。安達泰盛はモンゴルの戦いの中で、御恩、奉行という担当、これは本来将軍がやる事なのである。それを安達がやっているという事は、将軍権力を大事にしていたのであろう。弘安7年に安達が徳政を行う。これは何かというと、この戦いに全国の武士が総動員された。この場合の武士は、御家人ではない人も入っている。つまり将軍に忠節を誓っている御家人ではない、武士も入っているという事である。例えば貴族・寺・神社の荘園に生活している武士たちである。彼らは将軍とは関係はない。この人達に対する恩賞はどうするのか。お前たちは将軍の家来ではないので、幕府にはお前達には恩賞をやる義務は無いとはねつける事も出来た。所が安達はそうはしなかった。恩賞を与えたい、そして全ての武士を幕府に取り込みたい。それが安達の考えであった。

此処には日本の政治に責任を持つという事が、幕府の使命であるという考えである。

一方、平頼綱は御家人の利益こそが第一、幕府立ち上げの時に頑張った人々、御家人は特権階級なのだ。で、その他の武士と一緒には出来ないとし、安達の政治に反発する。モンゴル来襲の緊張感の中で、日本全体での対応が求められ、安達グル-プの方が優勢になった。そうなると平頼綱は追い詰められる。そこで平頼綱がとったのは、武力行使、武力で安達泰盛を滅ぼすという形である。実は時宗はこの両者の激突の前に亡くなっている。だから時宗が生きていた時には、ともかく何とか両者の間を取り持っていたのではないかと思う。一人は自分の舅、もう一人は家来の筆頭。両方とも大切な存在なのである。何とか調整していたと思うが、私は時宗は大した人とはとても思えないが、何とかしていたのだ。

  両派の調整役の時宗の死

時宗が亡くなって、北条貞時(安達の娘と時宗の息子)が得宗家を継ぐが、これを嫌った平頼綱が実力で仕掛けたのではないか。これが1285年の霜月騒動。それで安達泰盛とそれに味方する御家人たちの敗北。これで幕府は日本全国を穏やかに治めていくという、日本全国に責任を持つという方向性は放棄されたのである。その結果が永仁5年の永仁の徳政令では、御家人が一般の人に売却した土地は無償で返却して貰えることになった。それで一般の人に幕府で何か補償するかと言うと何もない。

何しろ幕府第一。結果的にそれは幕府の庇護を受けられない武士たちが悪党として後に活躍して幕府を倒す原動力になる。

永仁の徳政令についていうと、幕府の滅亡まで生きていた、幕府は完全に御家人のことしか考えない政権になってしまった。時頼が民を愛せよと言ったことは、何処に行ってしまったのか。

だからそれが幕府の滅びる原因になると思う。

そこで面白いことを見つけた。

鉢の木の話 謡曲にある 安達泰盛と平頼綱との対立

佐野源左衛門という武士の所に、旅の僧が雪の夜に泊めてくれと来る。佐野源左衛門は家には何も無いと言って断るが、雪がひどいこともあって、泊まるだけならという。そして食べるものも無いので暖でもと言って、自分が大事にしていた松と梅と桜の盆栽を火にくべて、それで暖を取った。どうしてこんなに貧しい暮らしをしているのかと聞くと、「自分はこの辺を所領していた武士であるが、対立勢力に取られてしまった。今は貧しい暮らしをしているが、いざ鎌倉の時には、痩せ馬にまたがり、錆槍ではせ参じるつもりである」という。次の日に、その旅の僧は旅立っていった。程なくして鎌倉に集合と言う命令があった。佐野源左衛門は言葉通りに鎌倉に行く。「佐野源左衛門はいるか」という声がかかり、行ったらそこには旅の僧が待っていた。「私は北条時頼だ。御前はあの時の言葉通りに来てくれた。」そして上野の松井田、越中の梅ケ丘、加賀の桜ケ丘の三か所の所領を与えただけでなく、自分の元の所領を返してもらった。

上野と言うのは、安達泰盛の影響力の強い所である。佐野源左衛門は此の安達に全てを奪われたのではないか。

1293年に北条貞時に飯沼左衛門掾が打たれたと書いてある。飯沼は誰かと言うと、飯沼資宗・平頼綱の次男なのである。これは誰も気づいていないのだけど、飯沼左衛門掾は、飯沼資宗の事と捉えられているが、飯沼・佐野源左衛門も討たれたと考えれば飯沼と佐野と別人という事で、鉢の木の佐野源左衛門がここにいる。つまり平頼綱の側近の一人として、佐野源左衛門がいた。これこそ実は鉢の木のモデルと思った。更に言うと、佐野源左衛門がいた佐野の近くに有るのが山名という土地である。室町時代に守護大名として、大きな勢力を持っていたのが山名である。山名一族は禅宗との繋がり、それから能との繋がりが深いのである。もしかすると、鉢の木と言う話は自分の地元の話を収録し、それを能役者の観阿弥・世阿弥やその子孫に伝えたのではないか。その事によって成立した話ではないかと思う。それは間違いではないと思っているが、その鉢の木にも安達泰盛、平頼綱との対立が窺えるのである。それでもう一つ言うと、この鉢の木の話の他にそういうのがもう一つある。

石井進先生の考え

それは私の先生の石井進先生が考えた論であるが、例の「蒙古襲来絵詞」、それは竹崎季長という人が書かせたものである。何で書かせたかと言うと、竹崎季長は「私はこれだけ戦いました」と言い、これを聞いて「よくやった」と恩賞をくれたのが安達泰盛だった。安達泰盛は最初はだめだだめだと言っていたが、最後には心を動かされて恩賞を与えてくれて、馬までくれた。恩人の安達泰盛の死後、菩提を弔うために竹崎季長が作らせたのが、「蒙古襲来絵詞」ではないかと言うのが、先生の論である。それに倣って鉢の木の話もそうだと思う。

五味文彦先生の考え

結局平頼綱も最終的には北条貞時の指示で滅亡させられる。此の両者の争いの結果として、鎌倉幕府は御家人の利益を守るという政権になってしまった。折角の北条泰時、時頼が積み上げて、又政治家としての政権に成長していたはずであったが、それが蒙古襲来と言う国難にあったことが、大きな原因になったことはあるが、先ずは御家人の事しか考えない形になってしまった。でもそれは幕府成立の時に本来的にそういったものであったのだから、必然ではあった。

そこでもう一つの鉢の木の話で、そういうことなんだろうなとすごく納得したのが、さっき言ったように佐野源左衛門が、他の御家人が一杯の所で呼び出された訳である。呼び出されたら、そこにいたのが旅の僧、即ち時頼であった。そして本来自分の持っていた所領をすっかり返還してもらった。これは研究的な言葉でいうと、自分が元々持っている土地、それは間違いなく御前の物だと言って貰うという事は、本領安堵である。それから新しい土地を貰える、これは新恩の供与、これが御恩と奉公に当たる、一番大切な物なのである。

それをやるのは誰かと言うと、将軍だったはずである。この時頼の側には、宗尊親王・6代将軍・最初の宮将軍がいないといけないのである。宗尊親王がいて、形だけでも土地を与える、土地を安堵するをやらないとおかしいのである。この鉢の木にはその将軍の姿はどこにもない。時頼が一段高い所に座っていて、「御前に土地を与える、御前の土地を安堵する」という事をやっている。この意味で北条氏が主人である。将軍は形だけ。北条氏が幕府のトップであるということが、鉢の木の描写からも分かるという事である。

この話自体、室町時代に作られたものなので、当時の北条氏の在り方を、後世の世から見て描写している訳であるが、だけど北条貞時から高時という人は北条得宗家の人とどこが違うかと、ここの部分なのであると、私のもう一人の恩師五味文彦先生は考えておられる。

と言うのは何かというと、北条氏と将軍の関係で、幕府の将軍と言うのが、源頼朝、頼家、実朝、北条政子、ここまでの将軍は、この軍事と政治の両方のトップであった。軍事の根幹にあるのは主従制。だから将軍が土地を与えるという事をしていた、だから政治のトップも将軍。次の四代~七代まで、軍事はまだ将軍の手中にある。政治は北条氏に任せたとしても。時頼、時宗までかな。(まあ、時宗はその間にいるのかな。)

時宗、貞時の過渡期の時代には軍事、政治のトップが北条氏になってしまう。五味文彦先生は、此の考え方がリズナブルと思っている。

結局御家人が第一だという事になる。こうなると不満を持つ武士が沢山出てくる。その不満を押さえつける為にどうするか。幕府は北条氏の下に結束して、北条の力を強力なものにする。北条の専制政治となる。そして北条の力がますます強くなっていく。次回はこの幕府が崩壊する話をする。

 

「コメント」

いよいよ次は最終回、幕府の崩壊。本郷先生の独壇場で、独独の話っふりなので分かりにくかったろう。これでは趣味の範囲を越えていて、マニアのレベル。しかし学者としての、本音を聞けるのは稀有なことではある。鉢の木がそういう展開となるのか。