詩歌を楽しむ「啄木再発見」 三枝 昂之(歌人) 

                                              歌書「前川佐美雄」「啄木-ふるさとの空みかも」

13年1月25日()  かの声をも一度聞かば   啄木をめぐる人々

東京に出て小説で勝負して見事に挫折し、今度は歌漬けの日々までを時を追ってきたが、今回は啄木をめぐる人々を話す。プライドが高く、やりたい放題の高慢な男だが支える人々が沢山いたというのが啄木の特徴。

   

・農家の五男に生まれ11歳で出家。住み込んだ寺の住職の養子になり、その妹を妻にする。後住職となる。

ここで啄木が生まれ、その後渋民村に転任。啄木の故郷となる。

・妹の父の思い出

 父は佐々木信綱主宰の「心の花」を愛読し暇あれば歌を作っていた。弟子もいて、いわば民間歌人。これが啄木に影響を与えたかは不明。

・渋民村の寺で上納金未納で解任されてからは不遇。啄木の歌集では父を悲しんでいる歌がある。

「悲しきはわが父今日も新聞読み飽きて蟻と遊べり」 悲しき玩具

・晩年は妹夫婦と高知で過ごす。

・大正中頃から、啄木の名声が上がり始めるが、家族皆死んでいて、父だけがこれを見ていた。

    (セツ子)

・啄木と同い年。父は役人で恵まれた少女時代。岩手県惟一のミッションスク-ル「盛岡女学校」へ。啄木とは14歳ころ出会う。短歌を教えてもらったとも。啄木の文学的才能を終始信頼していた。啄木への手紙に「我が希みの全ては君なり」 結婚後は辛酸続き・義母との不仲、貧乏、病気・・・。しかし全力で支えた。

・啄木が死の床で「日記を燃やせ」というが、やらなかった。「私の愛着がそうさせなかった」と述懐。

    金田一京助

・4歳上。盛岡中-第二高等学校-帝大  国語学/言語学で業績をあげる。最も長い友人。

・大学卒業後海城中学教師となった途端、啄木が転がり込む。この後啄木を長く支えた。

・啄木に与謝野鉄幹主宰の「明星」を教え短歌の発端、経済的に支援し、啄木没後著作を世の中にPRし、世に広めた。

・最も長い友人。

    宮崎イクウ

・函館時代以降、啄木を支える。味噌製造所経営、裕福。啄木の度重なる無心の手紙に応えた。

・啄木の才能を信じ、憧れていた。啄木の妻の妹と結婚。

・啄木があるとき借金一覧表を作ったところ、2千万円。そのうち一割が宮崎。その後も増え続けるので実際いくらかは不明。

何故金田一/宮崎が支えたか。

・才能を信じていた

・啄木の人間性に魅力を感じていたから。

 

啄木もこの二人には感謝し、歌集「一握の砂」の巻頭言に「この歌集を二人に捧ぐ」と。

 

    西村ヨウキチ

・出版社の社員→店主の養子→後経営者となる。

・教育雑誌が主であったが、後短歌雑誌を発刊。啄木、若山牧水、土岐善麿、北原白秋、斉藤茂吉・・・の歌集。

・啄木遺稿集「悲しき玩具」も出版。

・この人がいなければ啄木の歌が世に出ることはなかった。

 

「かの声をも一度聞かばすっきりと胸や晴れむと今朝も思える」   友を思う歌