詩歌を楽しむ「あるがまま」の俳人 一茶    二松学舎大学教授 矢羽 勝幸

 

    130628  一茶没後と門人たち~ 一茶の評価 

「一茶没後の評価と主な出来事」

1827年文政10年   65歳死去 翌年妻が女子出産 唯一の子(四人死去)

1829年       門人たちにより「一茶発句集」が刊行された。513句と15首の和歌。   好評で明治まで再刊されていく。

 

故郷柏原に一茶の句碑が立つ。(松影に寝て食う六〇余州かな)

  松陰→松平=徳川  六〇余州→日本  徳川幕府の治世を称えた句 

1831年      山岸梅塵(門人) 「一茶句集続編」  

1844年      山岸梅塵(門人) 師一茶 父梅堂追善集の「あられ空」を刊行 

1848年      今井墨芳(門人)  「俳諧一茶の発句集」を刊行  よく売れた。

1853年      白井一之(門人)  「おらが春」を刊行

1861年      この年「書画価格録」 俳人歌人画家の番付が出た。一茶は俳人7人の中に入っている。

 

           芭蕉 千代女 蕪村 良太 宗久 しろう? 一茶

 

江戸時代 「一茶発句集」「おらが春」がよく売れた。

明治時代 正岡子規がまず一茶を評価したと言われるが、いわゆる旧派の人々も評価した。

明治26年    小平雪人が一茶の故郷柏原に「一茶同好会」を設立 

          三森幹雄「俳諧名誉談」で 芭蕉・蕪村・一茶を三傑と言った。 

明治29年    佐藤紅緑(子規の門人で後大衆作家) 一茶に傾倒した。

           「俳人一茶」刊行される 伝記作品集でよく売れた。

 

           子規は一茶を次の三点で評価。

    俳句の原点である滑稽さ ②風刺 ③慈愛

明治43年    柏原「一茶同好会」で「俳諧師一茶」が刊行される。この後も、一茶の評価は上がる一方であった。

 

「門人たちの作品」 

上原文路 (じっとして袖に這わする蛍かな)    一茶(じっとして 馬にかがるる 蛙かな)

 

住鏡    (犬ころを秤に乗せる日永かな)     一茶(猫の子や秤にかかりつつざれる)

 

浦松    (青い田の中ぽっちり小家かな)     一茶は擬態語が得意であった。

 

西原文虎 (のの様のお年はいくつ梅の花)   

 

湯本記杖 (鶯のふんまたぎ行く小家かな)   俗語を使うのも一茶の得意芸

 

山岸梅塵 (村中や水ったまりの春の月)    水ったまり→俗語表現

 

 

一茶の評価をまとめると

   俳句の原点である放笑性(声を上げて笑うこと) を復活した。 EX たんぽぽの天窓(あたま)はりつつ猫の恋

一茶にはユ-モアのある軽妙な作品が多い。 

    農民の心情を詠んだ人である。農民詩人   いくばくの人の油よ稲の花

    現実の問題を追求した人である。        田の雁や里の人数はけふもへる  信州の貧しさ、出稼ぎを詠んでいる

    無為な自然さを尊重した。             めでたさも中位なりおらが春

    表面の雅俗より心の真実を追求した。     世の中よでかい露から先おつる

    マンネリの芭蕉風を否定し民衆に密着した  麦秋や 子を負いながら いわし売り

 

・一茶は俳句表現の枠を拡大したばかりでなく庶民文化の底辺の拡大に貢献。