詩歌を楽しむ「あるがまま」の俳人  一茶   二松学舎大学教授 矢羽 勝幸

 

    130607 目出度さもちう位~ 「おらが春」()

「おらが春」は、一茶57歳の時に周囲の状況や感想を日記体に記した随筆,俳句の集。 

テ-マは

・継子(ままこ)としての自分の境涯

・長女への愛と死

・「あなた任せ」の浄土真宗

  

以下「おらが春」の前文説明が長々続き、分かりづらい上に退屈なので割愛。

 

(春きても別状のなき草家かな)

正月が来ても特別なことがない粗末な家だなあ

 

(めでたさもちう位かなおらが春)

代表的な作品でこの解説には諸説ある。

 

    信濃方言で「チュクライ」というのがある。使い方は(あいつはチュクライな奴)→あいつはいい加減な奴   このチュクライという説

    めでたさが中位   これはが今迄一般的に理解されている説

    正月の迎え方に色々あることを言っているとの説  講師はこの説を取る。これには3通り。

この解説は「おらが春」の中に説明してある。 記録では省略。

 

「早く死にたい、極楽に行きたい」とばかり言っている浄土真宗の上人。

「鶴亀のように長生きしたい」という一般人

「阿弥陀様から与えられた寿命を生きる、あるがまま」という一茶の考え方

 

結論としてこの一茶の考え方が「ちう位」の意とするのが正解。       よってこの句を意訳すると

(与えられた寿命をあるがままに生きたいというのが俺流の正月の迎え方であるよ)

  

(蟻の道雲の峰よりつづきけん)

蟻の行列はあの入道雲から続いているのだろうか。遠景から近景へと遠近法を使った作品が多い。

  

(菜の花のとっぱずれなり富士の山)

菜の花が盛りで、私の視野には富士山が外れてしまっていることだ。

 

(松の蝉どこまで鳴いて昼になる)

松の木で鳴いている蝉は、いつまで鳴いたら昼休みになるのだろうか。暑いのに閉口している人の様子。

  

(おのが里仕舞うてどこへ田植笠) 

未亡人を悼んでいる歌で、あちこちの手伝いをして稼いでいる様子を詠んでいる。

自分の村の田植えの手伝いは終わって、今度はどこの田んぼの手伝いに行くのかな

  

(なぐさめに藁を打つなり夏の月)

することがなく気晴らしに藁製品を作るために藁を打っている、夏の月が輝いている。常に勤勉な農民を描いている。   一茶に多い農民俳句の一つ。