詩歌を楽しむ「万葉集の歩き方」               慶応大学教授 藤原 茂樹

  

140221 橘~ときじくのかくのこのみ

11代垂仁天皇の時、()道間(じま)(もり)(記紀伝承上の人物)は勅により海を渡り常世(とこよ)の国に到り非時香菓(ときじくのかくのこのみ→橘)を得る。田道間守は新羅の王子(あめの)()(ほこ)玄孫。持ち帰ったが、命じた垂仁天皇は没していた。半分を陵に、残り半分を皇后の日葉酢媛命(ヒバスヒメノミコト)に捧げて絶命した。今も垂仁天皇陵(すがわらのふしみのひがしのみささぎ→近鉄 尼ケ辻駅)に倍塚がある。

 

(大伴 家持 橘を歌う)

「かけまくも あやに畏し 天皇の神の大御代(66n9)に ()道間(dpj)(ml) 常世に渡り 八桙(7-b)持ち (j)(ew@)(b)ときじくの かくの木の実を 畏くも 残したまへれ 国も()に 生ひ立ち栄え 春されば (ひこ)()()いつつ 霍公(ホトトギ)() 鳴く五月には 初花を 枝に手折りて 娘子(おとめ)らに つとにも()りみ 白栲(しろたえ)の 袖にも(こき)入れ かぐはしみ 置きて枯らしみ あゆる実は 玉に貫きつつ 手に巻きて 見れども飽かず 秋づけば しぐれの雨降り あしひきの 山の()(ぬれ)は 紅に にほひ散れども 橘の なれるその実は ひた照りに いや見が欲しく み雪降る 冬に至れば 霜置けども その葉も枯れず 常磐(ときわ)なす いやさかはえに しかれこそ 神の御代より よろしなへ この橘を 時じくの かくの木の実と 名付けけらしも  大伴 家持    4111

心にかけるのも恐れ多いことですが、古の天子の祖先の御代に、田道間守が常世の国から持ち帰った時を知らぬ果実を、かしこくも残しなされたという。国も狭いと見える程あちらこちらで育ち栄え、春になれば枝が伸びてホトトギスの鳴く5月には初花を枝ごと折って、秋になると時雨が降って山の梢は紅に色づいて散るけれど、枝になっているその実はあたり一面まばゆい程照り輝き一段と見もので、雪の降る冬になれば冷たい霜が降りたとしてもその葉は枯れることなく常緑を保ちますます盛んである。これだからこそ神代の昔からいみじくもこの橘をときじくのかくのこのみとなづけたのだなあ。

 

大伴家持の思案では、挿し木や根の付いたまま掘りとって植えたのではなく、実生で植え、発芽させたという印象を持っていた。

 

万葉集には69首の橘を歌った歌があるが、その対象が花は49首。その興味が実から花に移っていった。

橘は (とこ)(はな)にもが 霍公(ホトトギ)()住むと来鳴(きな)かば 聞かぬ日なけむ」        大伴 家持  3909

橘の花が年中咲いているのならホトトギスが、住むために飛んで来て鳴き、その鳴き声が聞けない日などありませんね

 

(もち)ぐたち 清き月夜(つくよ)に ()妹子(ぎもこ)に 見せむと思ひし やどの橘         大伴 家持  1508 

十五夜過ぎの澄み渡った月の綺麗な夜に貴女にお見せしようと思った我が家の橘です、これは。

  

時が経ち、花を愛でるのは橘にとっては新たな趣向であり、ただ橘の特質として常世からもたらされたという記憶は失われずにいた。それが、橘が他の植物と一線を画しているところ。

 

(田道間守の故郷)  お菓子の神様

兵庫県豊岡市 延喜式内神社 中嶋神社があり田道間守を祭神とし、全国の菓子職人・組合に崇拝されている。境内に献上された橘が多数植えられている。

  

(県犬飼橘三千代)   これより県犬飼三千代→県犬飼橘三千代   破格の待遇

708年大嘗祭で元明天皇は県犬飼三千代の長年の忠勤を褒めて盃に浮かぶ橘を賜う。そして橘の (かばね)を与えた。その折の元明天皇の言葉。

「橘は果物の頂上にして人の好む所なり。枝は霜雪を凌いて茂り、葉は寒さ暑さを経てしぼまず清い。黄金(くがね)白金に限りて麗し。ここに橘の姓を賜う」→橘は最高のものであるという意味。

・天皇のこの認識は古代の日本人の誰もが感じたことであった。

・28年後の県犬飼橘三千代の息子たちが臣籍降下するとき、時の聖武天皇の許しを得て橘諸兄(葛城王)、橘宿弥(佐為王)と名乗ることになる。この時の聖武天皇の歌。

橘は実さえ花さえその葉さえ枝に霜降れど弥常葉の樹」         聖武天皇 1009

橘は、実や花やその葉もすばらしいが、枝に霜が降っても、ますます栄える常葉の木だ。

 

「古代の橘が今のどの植物をさしているのか」

牧野富太郎 「植物の知識」によれば

・本州野生の橘については果実が小さく、汁が少なく種が大きく食用にはならない。紫宸殿の右近の橘もこの類。田道間守の伝えたとされる橘はこれではなく、今日いう紀州みかん、一名コミカンであろう 

・他の人も同様意見。万葉の橘は我が国原生の橘を含めた柑橘類であり、種を特定するのは困難。 

・牧野が野生とはいうのは我が国に古くから橘が自生していたためである。

 
「橘が文化勲章のデザインとなる」

昭和天皇のご意向もあり、文化勲章のデザインとなったことは、皇室により文化の永遠を象徴する樹木と認め続けられていることを示す。古代の心が今も息づいている。

 

「皇族・貴族以外の歌」  立花以外も含む。

(もと)()を立て、下枝(しずえ)取り、ならむや君と、問ひし子らはも 」   柿本人麻呂)歌集より    2489

橘の木の下に私達は並んで立った。下の枝を手にとりながらこの木の実が実る頃二人は結ばれるだろうかと尋ねたあの娘よ。

 

(しか)れこそ 年の八歳(やとせ)を切り髪の (よち)同子()を過ぎ橘の (ほつ)()を過ぎてこの川の 下にも長く()(こころ)待て」                                                                                                                                       3307

だからこそ長い年月をおかっぱ髪の吾同子の頃も過ぎ、橘の実が赤らむ末枝の頃も過ぎる間、わたしはこの川の川底のようにひそかに長く、あなたの気持ちを待っていました。

 

(むか)()に立てる桃の木ならめやと人ぞささやく()が心ゆめ」     作者不詳                             1356

向こうに見える山の桃の木には実がならないと人がささやいている。(そんなことに惑わされずに)あなたの心を迷わせてはいけないよ。大丈夫だよ。

 

(むか)()の 若桂の木 下枝(しずえ)取り 花待つい間)に 嘆きつるかも 」   作者不詳                     1359           

向うの山の若い桂の木のような娘さん、その下枝を手に取って花の咲くのを待つ間に、私はため息をついたことよ。

 

「橘は全国に移植されていった」

・聖徳太子の生まれたとされる橘寺、橘の八街(やちまた)、平安京の貴族の屋敷、庭園、築地と大和の国を中心に植えられ好まれ、飛鳥の里・花散る里などと万葉集にも詠まれていて馴染みのある木となっていった。

・地方にも移植され琵琶湖湖畔、遠く東の国にも広がっていた。

 

「橘の下吹く風のかぐはしき筑波の山を恋ひずあらめかも」常陸の国の防人  4371           

橘の木陰を吹き抜ける風は橘の香がかぐわしい、この風の吹く筑波の山を恋せずにいられようか。

・常陸風土記によると鹿島神宮は卜部氏の人が住む所。(占いを職業とする 

 多く橘を植えてその実うまし  と書かれている。

 

「橘の管理はどうであったか」

「橘を 守部の里の 門田(かどた)早稲(わせ) 刈る時過ぎぬ ()じとすらしも」                                     2251                         

橘を守る者が住む里では、門のそばの田に植えてある早熟のイネを、刈る季節が過ぎた。だがあの人はまだ来ない。

橘の守部の里とは、橘を管理するグル-ぷか?

  

「橘をどのように広げていったか」

古代社会では、天皇の妃の役割は産業振興、特に農業に関して普及啓発を行うこと。例えば雄略天皇の妃の養蚕の奨励。今も皇后の役目である。

  1. 田道間守は、持ち帰った半分を皇后 日葉酢媛命(ヒバスヒメノミコト)に献上。これが各地に配布されたと推察。

  2. 田道間守の祖先は屯倉(みやけ)であり、ここで栽培・移植されたのでは。

    屯倉  天皇の直轄領で天皇家の食料生産・保管などを行っていた。