詩歌を楽しむ「万葉集の歩き方」               慶応大学教授 藤原 茂樹

 

140321 恋歌の緒相~恋と自然物と

見知らぬ男女が知り染めるのは歌垣が好機であるが、ときめくのは日常にもあった。

玉桙(たまほこ)し道に行き 逢ひて外目(よそめ)にも見ればよき子を何時(いつ)とか待たむ                    2946  

道で行きずりにあって、傍目にも美しい人にいつまで待ったら会えるだろうか。

()をと() 人そ(さり)くなる いで我が君 人の中言(なかごと) 聞きこすなゆめ  大伴坂上郎女          660

あなたと私を人が引き離そうとしているみたい。どうか、あなた、他人の中傷など絶対に聞かないでください。

噂は二人を引き裂く方向に広がり、2人の恋は会い難く苦しい。それでも相手の自分への思いは信じたいものであるが、恋はもろく儚いものでもある。 

(ひと)(ごと)(よこ)しを聞きて玉桙の道にも逢はじと言へりし()(ぎも)                          2871

他人のするヨコシマな話を信じてもう道でも会わないという私の恋人よ

噂は事の真実より重く働くのが常で、恋人の心変わりが起きてしまうのが人の世である。世の中には砕け散った恋のかけらが無数に落ちている。万葉集は、そうした恋が壊れていく状況も歌っている。

恋が成就すると男女はどういう秘密を共有するのであろうか。

白妙の我が紐の緒の絶えぬ間に恋結びせむ逢はむ日までに         2855

結んだ紐が切れないうちに恋結びをしておこう。今度会う日まで。

恋人と肌を合わせた後で、次に会う為に紐を結ぶことを「恋結び」という。

ふたりして結びし紐をひとりして()れは解きみじ(ただ)に逢ふまでは                 2920

二人して結んだ紐を私は一人で解いたりはしない。あの人に逢うまでは。

お互いの魂を紐に結びこめて不変の愛情を誓い、一人で勝手に解くのは他の相手と関係することを意味していた

大き海の底を深めて結びてし妹が心は疑 ひもなし                     3028

大きな海の底のように、心の奥底を深く結びあったあの娘の心は疑う余地はない。

 

現代は恋結びをしなくなった。「鎮魂祭」は宮中で新嘗祭の前日に天皇が鎮魂を行う儀式である「鎮魂祭」(御霊鎮めの祭)では、珠の緒結びをするという。体と魂を命の糸で結ぶ神事である。

万葉人の男女が紐を結ぶのは相手の体に自分の最も大事なものを結びつける行為である。お守りを持って旅をする習俗の起源とされる。恋とは相手を信じ、守るものなのである。

 

黒髪白髪(しらくる)までと結びてし心一つを今解かめやも                             2602

黒髪が白くなるまで変わるまいと誓いをかけたこの心一つをどうして今になって解き放ったりするものですか。女の浮気心を咎めてきた男に対する女性の歌。

(うつく)しと思えりけらしな忘れと結びし紐の解くらく思へば                            2558

あの方が私を愛しいと思っているらしい。忘れないで下さいと結んでくれたこの紐が解けたのを思うと。

相手が自分のことを恋しく思っていると、下の紐が解けるという信仰が派生していた。女歌。

真玉(またま)つく遠近(おちこち)かねて結びつる言ふ下紐の解く日あらめや                          2973

緒に貫いた珠のように遠い将来も今も合わせて誓って結んだわが下紐を貴方以外の人に解く日がくるものですか。 

高麗(こま)(にしき) 紐の結びも 解き放けず (いわ)ひて待てど (しるし)なきかも                       2975

身を謹んで紐の結び目を解かずに(いわ)って待っているのにあなたが私の元に来る験はない 
どうなっているのかしら。女が男を恨んでいる様子。

紐を解かずにいることを(いわ)いといい、恋人に会うための呪術と言われていた。斎いは恋人たちの紐結びの本来の意味を示していると考えられる。相手の魂を自分の身に結いつけて置くのである。

旅にても喪 なく早来(はやこ)と我妹子が結びし紐はなれにけるかも                      3717

旅先でも災いなく安全に早く帰って来てと愛しい人が結んでくれた紐はもうよれよれになってしまった。             遣新羅使の旅の途中の歌。

 

(日本人と万葉集)

・ドナルド・キ-ン  駐日米軍の情報将校で日本語通訳  2008年~2012年 NHK「日めくり万葉集」での言葉

日本軍捕虜の所持品、兵士の遺品の中に多数の文庫本が入っていることに気づく。

その中に圧倒的に「万葉集」が多いことに。

阿川弘之 小説家 「雲の墓標」「山本五十六」

昭和13年刊行の「万葉集」の文庫本を学徒出陣に持っていった。

・戦地に行く兵士にとって、万葉集が日本人の思いを代表する本となっていた。

・学徒出陣の人が一冊だけ本を持って行く時に一番多かったのは万葉集で、しかも中臣(なかとみ)(やか)(もり)()()茅上娘子(ちがみのむすめ)の悲恋の 歌が若者たちの心を捉えた。

 私信は禁じられていたので、恋人たちは「僕の思いは何番の歌ですと」、それに答えて「私の気持ちは何番の歌です」と返信した。次の歌などは多く使われたという。

逢はむ日をその日と知らず常闇(とこやみ)にいづれの日まて吾恋ひ居らむ                                     3742

逢える日がいつかとも分からないで、暗闇の中でいつの日までも私は貴女のことを恋していることだろう。

 

このように万葉の歌は近代日本人の心と深く結びつき、深く影響を与えた。

恋の歌には、「片恋」「片思い」「妻恋」「忘れ貝」「恋忘れ貝」「忘れ草」「恋草」など心に懸かる美しい歌言葉が使われている。

すべもなき片恋をすとこの頃に吾が死ぬべきは夢に見えきや              3111

片思いをして、死にかかっている私を貴方は夢にさえ見ないのでしょうか。女の恨みごと。

忘れ草我が下紐に付けたれど(しこ)(しこ)(くさ)(こと)にしありけり    大伴家持         727     

 憂いを忘れるという甘草を 私の下紐に付けたけれど役にたたない草だよ言葉だけだ。

家持が 、将来の妻になる坂上大嬢に贈った歌。

ヤブカンゾウ(ユリ科 多年草)を身につけると恋の憂いを忘れられると信じられていた。       

若の浦に袖さへ 濡れて忘れ貝拾へど妹は忘らえなくに                  3175

袖も濡らして辛い思いを忘れようと、忘れ貝を拾うけれど貴女のことが忘れられない。

伊勢の海女の朝な夕なに (かず)くといふ鮑の貝の 片思にして                 2798

私の恋は伊勢の海女が朝に晩に水に潜って採るというあわび貝のように片思いなのです。 

 恋草を力車(ちからくるま) 七車(ななくるま) 積みて恋ふらく我が心から        広河女王      694    

恋草を七台の車に積んでいるような苦しい恋をしているのは、自分から求めたものでした。   

このころの 我が恋力 記し集め (しるし)に申さば 五位の(tt@2l)                                              3858

このころの 恋の繁けく 夏草の刈り(はら)へども ()ひしくごとし                   1984

私の恋心のはげしいことは 夏草がいくら刈り払っても 生い茂ってくるのと同じようだ。

夏草の刈払っても刈払っても伸びてくる性懲りもないことに恋を例えている。

明日香(あすか)(かわ)水行きまさりいや()()に恋のまさらばありかつましじ                     2702

飛鳥川の水かさが増えるように、日に日に恋する気持ちが増していったら、とても生きてはいられないだろう。

春草の 繁きわが恋 大海の 辺にゆく波の 千重に積りぬ                  1920

私の恋は激しくせきたて求める大海原から寄せる波が幾重にも積み重なるように

恋の思いは気分が先行して、それを言葉にするには恋の気分で今、目にしているものから言い始める。そしてその言葉の刺激によって恋の歌に展開していく。

うらもなく わが行く道に 青柳の 張りて立てれば 物思ひ出つも              3443

歩いている道に青々とした若い柳が芽を出して立っているのを何気なしに見ると、忘れていた恋を思い出す。

自然界には人の気持ちを誘い出すものが満ちている。

射ゆ鹿(しし)(つな)川辺(かわべ)和草(にこぐさ)の身の若かへにさ寝し子らはも                        3874

傷を負っている小鹿が逃げていって、倒れて命を絶えた。ふと川辺をたどって見ると春を知らせる若草が生えていた。その若草と小鹿とを引っ掛けて、若い頃、いとおしい人と共に若草の上で寝転んで語り合ったころのことを思い出している。  

 

「まとめ」

自然の姿を仲立ちにして人の心が動くことを経験した人は多い。人の心の持つ感受性は自然物に感応するように組み入れられているのである。中でも、恋は激しい野性にたどり着く一本の道である。このように若い心が自然物に繋がり易いことを認めているのが、万葉の歌の特質の一つである。現在の私たちもどこか心の片隅に、自然との関わりの中で生きているのである。