こころをよむ 「古事記」 神話から読む古代人の心 日本文学者千葉大学名誉教授 三浦佑之
230108①「人間のはじまり・その起源とは」
講義の考え方
今回から12回にわたって古事記の神話を読みながら、古代の人々がどの様な事を考えていたかという事を探り、古代人の心に分け入って見よう。これがこのシリ-ズのテ-マである。但し古代の人々がそう簡単に心を開いてくれるかどうかというと、そうは思われないので、ここでは人の始まりとか、最も重要な生業である稲作の起源、兄弟姉妹や親子関係などの古代の家族関係を取り上げながら、古代人の物の見方や考え方を探ったり、又色彩に対する意識、或いは笑いとか夢など、その様な様々な古代の人達の思いや環境に触れたりしながら、古代の心と言ったものに近付いてみたいと思っている。
古事記とは 稗史である
まず古事記と言う作品について説明する。この古事記の序文によると、7世紀後半に飛鳥の地に宮殿を立てて天下を支配した天皇、是は後の呼び方では天武天皇と言うが、側近の稗田阿礼という若者に、自分が正しいと考えた歴代天皇の事蹟や系譜、或いは古い世の出来事など、口伝えで覚えさせていく。所が時を経て、天皇が亡くなってしまい、そのままでは折角伝えて来た物が失われてしまうと言うので、8世紀の初めになって元明天皇の時代になって、臣下である太安万侶と言う人物に命じて稗田阿礼が覚えていた伝えを文字に書き写させた。
それで太安万侶は和銅5年 712年正月28日に、三巻の巻物にまとめ奏上したと、その様に古事記の序文には記されている。これが一般的に現代に流通している古事記と言う歴史書の成立の事情である。しかし私はこの序文は、9世紀の初めころ、古事記を精査するために作り替えられたのではないかと思っている。
そして古事記と言うのは、一般に考えられている様に国家の正史として編纂されたというのではなくて、正史と言うのは日本書紀と言う歴史書が担っていて、それに対して古事記は耳慣れない言葉であるが稗史(はんし)であると考えている。
その稗史と言うのは、正史ではない歴史的読み物、民間に伝えられているような歴史的読み物、そんな風に考えればよい。古事記に対しての成立の諸々の事情と言うのは、色々と議論がなされているが、それは直接中身の神話に関わる問題ではない。そうした成立の事情とは切り離して古事記の神話には古代に近付くための魅力的なお話が幾つも存在する。それをここでは楽しんで頂きたいと思う
古事記と言うのは三巻の書物から出来ていて、その序巻は神々の物語、そして中巻と下巻は歴代天皇たちの事蹟や様々な出来事が描かれている。
上巻 神話の物語を取り上げる イザナギ・イザナミ→神武天皇
アマテラス・ツクヨミ・スサノオ
ここで取り上げるのは、主に上巻の神話である。この神話はイザナキ・イザナミと言う二人の神様が、この地上を作ったり、その地上の神々を生んだり、様々な物を生み出して、そしてその最後にアマテラスとツクヨミとスサノオという三人の貴い神が生まれた。その太陽神であるアマテラスとそれから弟のスサノオという二人の物語が、高天原という天空世界を舞台にして拡がっていくが、最後に簡単に省略してしまうが、スサノオはアマテラスを恐ろしい目に合わせたために、高天原を追放されてしまう。そして地上に降りて来る。そして有名なヤマタノオロチ退治などをして、助けた女神クシナダヒメと結婚して子孫繁栄させて、地上に素晴らしい国を作った。それがあの大国主と言う神なのであるが、その大国主はスサノオの子孫にあたる神だと、古事記は伝えている。そのようにスサノオから大国主に繋がる地上の神々のものがたりがあるのだが、所が立派な地上が出来た後、高天原にいるアマテラスが地上を見ていて、これは何と素晴らしい国だ、これは自分の子が支配した方がいいと言い出す。
ニニギノミコト
それで遠征軍を派遣して地上の大国主をやっつけてしまう。やっつけてしまった所にアマテラスの孫であるニニギノミコトと言う神が降りて来て、地上で様々に結婚を繰り返しながら子孫が繁栄して、初代の天皇に繋がっていくという風に語られているのが、古事記の神話である。古事記の神話と言うのは、簡単に言うと大河小説の様に、世界の誕生からずっと始まる神々の物語を、いくつかのエピソ-ドを並べながら連続的に物語を紹介していくような形で語られているのが、古事記の上巻である。この上巻の全体構成は、テキストをお持ちの方は6Pの所に構成表と言うのが収められている。その構成表を見ると、その上巻がどの様な形で組み立てられているかが、分かるようになっているので、これから取り上げる古事記の神話がどこの部分で語られているかという事が、その構成表で確認すれば分かるようになっている。
神話の舞台 高天原 地上世界、黄泉の国 常世の国 型洲の国 ワタツミの宮
それからもう一つ、神話の舞台と言うのは、地上を中心として天空には高天原と言う神々の世界があり、そして地下には黄泉の国という死の世界がある。そういう垂直的な三層、三つの上中下と三つの層からから出来ている。そして地上から見て、水平線の彼方、海の彼方には、常世の国とか根の堅洲国、これは色々見方があるが、水平線の島のような世界と我々は考えており、その根の型洲の国、それから水の中に潜ってワタツミの宮という海の世界があって、それはいづれも地上で水平線の海の向こうに存在すると考えられる神々の世界である。だから描かれている舞台は、地上を中心にして天だとか地下だとか、それから水平線の彼方など、古代の人達が考えていた様々な異界、神の世界と言うのが登場してくる。そんな風にして、大きな宇宙の中で神々の物語が展開していくのだと考えて貰うのが良い。
古事記上巻そして人間の誕生について
この様に前置きをまずしておいて、今回は第一回という事で、古事記に載せられている神話の冒頭の部分を取り上げる。
この神話で取り上げるのは、先程話したように殆どが古事記の上巻の神話なので、人間はまず出て来ることはない。
但し人はどの様にして生まれたかという問題は、いつの時代でもどこの世界でもそうだが、人間にとってとても重要な問題である。日本列島に住んだ我々の祖先たちもどの様にして人は誕生したかという神話を語っていたというのは、ごく当然のことである。そしてその人間の起源を語る神話の断片ではないかと思われる神話が、古事記には存在している。
まずはその辺りの事から話を進める。
姿を見せない人間
神話には人間が出てこないと言ったが、実は人間は最初から地上に住んでいるという風に古事記を読んでみると見えてくる部分がいくつかある。神話は神々の物語だから、神々が活躍して人間社会は全く出てこないのだけど、その中にポッと気配が感じられる。読んでいるとそういう風に見えるのである。恐らくこんな風に考えていたのだと思う。地上も高天原も神々の話で、神々は動いて活躍するのだけど、地上には人間がいる。だけれども神様のお話だから、人間は普通は姿を見せない。そういう風に考えられていたのではないか。
古事記の冒頭 神々の出現 アメノミナカヌシ 次に タカミムスヒ 次に カンムスヒ
そんな風に見て行くと、古事記の神話の背景に人間が居るのだという事が見えてくる。その事と関わる神話があるが、冒頭の部分神様の名前が出ているだけであるが、そこをまず見ていきたい。
これから取り上げる神話は、いづれも現代語訳して分かり易く紹介していく。こんな風な神話が冒頭に語られている。
「雨と土とが初めて姿を見せた。その時に高天原に成り出た神の御名は、アメノミナカヌシ 次に タカミムスヒ 次に カンムスヒ。この三柱の方は、皆 一人神でいつの間にやら、その身を隠して仕舞われた。次に下の方にあるふつうは、まだ出来たばかりで、お椀の中に浮かんだしし汁の脂身の如く、クラゲの如く、ゆらゆらと漂っていた。その時に泥の中からアシカベの如くに萌え上って来るものがあり、その現われ出でた神の名はウマシアシカビヒコヂ。このように語られている。
天と地の出現 成る という独特の考え方
この神話によると、先ず天と地が姿を現したと語られている。そして天空には高天原と言う神々の世界が現れて、下の方にはまだ泥と言うか、水の中に浮かんでいるような大地が出来たとある。その垂直的関係として、この二つの世界は置かれているが、どの様にその二つが姿を見せるかと言うようなことは、何も言っていない。ただ何もない所に、高天原と地上が現れたという風に語られている。例えば旧約聖書の創世記のように、絶対神がいてその神が作ったという形ではなくて、何か自然に湧き出てきたというイメ-ジがここにはあると考えた方がよい。この様なイメ-ジの中で現れた、高天原と地上であるが、まずその高天原には、三柱の神が現れる。この神話はだれが作ったというのではなくて、自然に成るのだと、原文に成る と書かれているが、この成るという発想が、日本人の観念の中の一番古層にあったのではないか、物が生み出される創生神話と言うが、創世神話の一番元になっているのが 成る という発想ではないか。このことを言いだしたのは、思想史をやっている丸山真男。この人はその世界の創世神話と言うのは、どの様に出来ているかというと、作る・産む・それから成る、大きく分けるとこの三つの形があるのだが、そして古事記を読んでいるとその一番基層の中に、成る という考え方がある。それが作るとか産むという主体、詰まり作る人とか産む人とかいう、主体を持たない 成る という発想が根底にあって、それがずっと続いていく所に、一つの日本人の歴史認識を見いだしていった、それが丸山真男の考え方である。この認識は私には魅力的な考えと思われるが、古事記を読んでいるととても適格に思える。
成る と言うのは言うまでもなく、柿が成る と言う風にして、自然に実がなるという意味なのであるが、それが天と地が初めて誕生した時にも、その様な状態で神は現れてきた。もっというならば、高天原も泥んこの地上にも、その様にして自然に現れ出て来たんのだという考えられる訳である。それが次々と続いていく事によって、今に繋がっているという発想がここにはあるのだと思う。
アメノミナカヌシ・タカミムスヒ・カミムスヒ
但しこの神話の中に語られている神様、高天原に誕生した アメノミナカヌシ・タカミムスヒ・カミムスヒ という三柱の神だが、この三人の神が元からあった一番古い神かと言うと、それは中々そのようには言えなくて、アメノミナカヌシと言う最初に出て来る神は、天空の真ん中の主という耳で聞いても良く分かる意味を持っているが、この様に良く分かる意味を持った神、しかも何か抽象的な神で、その様な神は新しく作られたものではないかと見られる。それに対して、タカミムスヒ・カミムスヒと言う神は、耳で聞いただけでは、どの様な神なのか良く分からない。この神の方がずっと古いのだろう。恐らく元々最初にはムスヒ と呼ばれる神が生まれたらしい。ムスヒ と言うのは、ムス というのは物を生み出すという意味で、ヒ と言うのは神であることを表す接尾語。神の威力を表す言葉で、ヒ・チ・ミ とかの色々な接尾語がつくが、その一つが ム。ムスヒ と言うので、物を生み出す力を持った存在を表して、その上にタカミ とか カムと言う言葉が付いているのは、誉め言葉という事に成る。
そういう対になる神が最初に生れて、世界を作っていくという発想になっていくが、但し世界を実際に生み出していくのは、この後ずっと後に出て来る イザナキとイザナミ と言う神が世界を、それこそ人間と同じ様に結婚して子供を産むように産み出していくという風に語られているので、直接 ムスヒ の神が物を産んだという風に語られていないが、その様な性格を持っていた。それを窺わせる高天原の神の誕生だろうと思う。
地上の状況 ウマキアシカビヒコヂの誕生
一方地上であるが、地上は 国若くける油のごとく と言う風にあったように、若いというのはまだ未熟という意味であり、国とは大地の事のことで、まだ未熟で出来上がっていなくて、大地と言うのは脂が浮いている。油が浮いているというのは、お椀の上に豚の脂身が浮いている様な発想があると、考えて貰えばよいが、油が浮かんでいる様に対してクラゲす漂える 油に浮かんでいるクラゲが漂っているような状態で大地がある。その大地の本当に浮かんでいる泥の中に、アシカビの如く燃え上って来た物と言う。アシカビと言うのは、アシと言うのは水辺に生えている植物の蘆、ビと言うのは植物に着くカビと同じ言葉なのであるが、何か平らな所から、ツンと目を出して出て来るものが、カビと言う言葉で表されている。アシカビと言うのは、だからアシの根と訳せば分かると思うが、泥の中からアシの根が突き出してきて、そしてそれから成った神がウマシアシカビヒコヂと言う風に語っている。この ウマシアシカビヒコヂ と言う言葉を耳で聞いただけでは、意味が良く分からないかも知れないが、ウマシ と言うのは現代でも使う形容詞、立派なとか素晴らしいとか、おいしいとか 色々な意味で使う美味しである。ここでは立派なと訳せばよいが、この立派なアシカビ 蘆の根、彦は男を表す、ヂと言うのは チ の清音が、連濁で繋がって濁音になっている。この チ と言うのは先に説明した神であることを表す接尾語。だから ウマシアシカビヒコヂ と言うのは、立派な蘆の根の男神という意味となる。それを神が地上に最初に現れた生命だったのだと、そのドロドロの土地に芽吹いてくる生命、そのウマシアシカビヒコヂ が、実はこれは人間を表しているのではないか。それが私の考え方である。
ただ系譜で最初に神が生まれたという事だけではなくて、人間の誕生が語られているのだという風に考えてみたい。
イザナキ、イザナミの黄泉の国神話
一般的に古事記には人間の誕生など描かれていないと考える人が多いが、そうではなくて ウマシアシカビヒコヂ を考えることによって、はじめて私達の祖先である古代の人達が、人間をどの様に捉えていたかという事がとても良く分かると思うのである。そしてこの ウマシアシカビヒコヂ という最初の生命がもう一つ、具体的な形で表れてくるのが、
ウツシキアオヒトクサ と言う風に呼ばれる人間と結びついていくのだと捉えることが出来るからである。この ウツシキアオヒトクサ も又、色々と考えなければいけない言葉なのであるが、その言葉が出て来るのは、それはギリシァ神話にも同じ話があるが、死の世界へ死んだ人を迎えに行くという、そして結局迎
えることは出来なくて失敗してしまうという形で語られていくのだが、黄泉の国の神話、日本の神話で言うと、イザナキと言う神が妻であるイザナミが亡くなって、そのイザナミを黄泉の国に迎えに行くという神話である。ギリシアでは、オレフィス神話としてよく知られているものと、基本的には形は同じである。イザナキ、イザナミの神々は、先程触れたが、この地上の島々とか、地上にいる神々を次々と生み出して風の神、岩の神、木の神と言った神を生み出していくが、最後にイザナミが火の神を産んで焼け死んでしまう。そして黄泉の国に行ったイザナミを、夫であるイザナキが迎えに行くのだが、そこは暗い世界である。一緒に帰ろうと言うと、黄泉の国を支配している神と相談して帰れるようにしたいので、少し待って欲しいという。それでイザナキは外で待っていたが、いつまで経っても返事がない。イザナキは頭に挿している櫛の歯を折って火をつけて暗い所に入っていく。そうすると、イザナミは腐乱死体となって横たわっていて、蛆虫が湧いている。 それを見たイザナキは驚いて逃げ出す。それを見たイザナミは、自分に恥をかかせたと、周りにいる黄泉の国の女たち・醜女とか、それから自分の体についている雷とか、そういうものに追っかけさせる。
桃の実の威力 桃に青人草を助けてやってくれと頼む
漸く黄泉平坂の麓に辿りつく。黄泉平坂と言うのは、黄泉の国と地上とを繋いている坂なのであるが、その坂の麓に到着する。そこに桃の木が生えていて、実がなっていた。その桃の実を取って、追っかけて来る醜女や雷に投げつけたら逃げて行った。桃の実と言うのは霊力を持っていると考えられている。
そこでイザナキは桃の実にお礼を言う。そのお礼の言葉と言うのが、古事記では次の様に語られている。「汝は私を助けた様に、葦原中津国に行きて、そこにいるいる青人草が、苦しみの瀬に落ちて思い悩む時、どうか助けてやってくれ」
こんな風にイザナキは桃の気にお礼を言う。私は葦原中津国に生きる生命ある青人草と訳したが、これは「葦原中津国にあらゆるうつしき青人草」と言う風には、原文には書かれている部分であるが、葦原中津国にある所のうつしき青人草、この うつし と言うのが、この世にあるとか、いう風に訳せばいい言葉である。その現実にある青人草の三文字で表されているが、青人草たちが何か病気になって苦しんだ時にどうか助けてやってくれという訳である。そしてこの青人草と言う言葉であるが、人間を指す言葉なのである。
古事記の神々は人間の元祖である
此の青人草と言う言葉を一般的な注釈書或いは古語辞典などでは、青々とした草のような人と言う風に訳していることが多いが、草のような人と言う場合には日本語の言葉の順序からすると、青草人と言わないといけない。故に人である草と訳さなければならない。だから青人草と言うのは、青々とした人である草という意味になる。
春になって泥の中から蘆の根のように根付いてきて、ここから誕生した最初の生命は、ウマシアシカビヒコヂ、それが立派な 蘆の根の男神、その アシノネと呼ばれる神は実は、うつしき青人草 現実の青々とした草に人である草に繋がっていく。 ウマシアシカビヒコヂの子孫として、人間である青人草が居るんだという風につなげていくと、この古事記に語られている名前だけしか出てこないような神々が、実は人間の元祖だったのではないかと言うのが、かなりはっきりしてくる。そしてその後に人間は草であるという風に、発想する所に古代の人々の一つの生命観と言ったものが強く表れている。
旧約聖書の人間の誕生
旧約聖書の創世記には、人間の誕生を語るのだが、まずアダムは、ヤ-ベという実体神が泥をこねて神の姿に似せた人を作り、その泥で作った人間に息を吹きかけて生命を与えて、それで人間が生まれた。それがアダムで、男だけではいけないと言うので、もう一人女神を作った。それがイブであるという風に語っている。それは土から人間が誕生した、しかも先ほど言った言い方では、作ると言った言い方で、絶対神が作ったという発想として現れてくるのである。でこうした発想と言うのは、恐らく中東の砂漠地帯の乾燥した地帯の中で、人間の誕生というもの発想されているのである。
古事記の生命誕生の特徴
それに対して泥の中から、まるでカビが生えてくるように地面から生えて来てそれが人間になっていくという発想を持つ私達の神話と言うのは、これはまさに私達の住んでいる日本列島が非常に湿度の高い、そして放っておけばすぐに雑草が生えてしまうような、その様な気候風土の中で暮らしているということと強く結びついている。これは何も日本人はと限定することは出来ない。もっと広く太平洋の一番西の端の島々の中で、温帯モンス-ン、亜熱帯モンス-ンが吹いて雨が降り、台風が来て梅雨があってと言う風な、そういう自然の中で暮らしていた人々が自然に身につけた生命についての観念、それがこのウマシアシカビヒコヂ であり、青人草という人間の誕生ではなかったか、そんな風に考えてみると、私達の先祖が青人草と考えたというのも良く理解できる。
そして草と言うのは一回で終わるのではなくて、枯れると種が落ちて、そしてまた新しい生命が芽吹いてくるという循環的な形で繰り返されていく。その循環する生命と言った所に、一番のポイントがある。作ったら終わりではなくて、ずっと繰り返されていく生命として現われて来る。人間の根源と言うのを、草だという風な考え方は、我々にとても大きな力を与えているのではないか。それがどういう形で受け継がれていくのかという事は、とても大事な事である。
「コメント」
疲れた。句読点でだらだらと続く文章には、ついていくのもだらだらとなってしまう。学生さんおおきにご苦労様でした。これが続くと思うといささかうんざり。しかし一旦始めたことではあるな。