231223⑤「花、菖蒲、月の思い出」
作者は平家の貴公子、平資盛と結ばれた。平家一門の総帥である清盛から見て、長男重盛の二男に当たるのが資盛である。まさに平家の公達であった。資盛と結ばれた直後の右京太夫の心境はどのようなものであったかろうか。
朗読①
掛け離れいけば、あながちにつらき限りにしもあらねど、なかなか目に近きは、またくやしくも恨めしくも、さまざま思ふこと多くて、年も返りて、いつしか春のけしきもうらやましう、鶯のおとづるるにも、
物思へば 心の春を 知らぬ身に 何うぐいすの 告げに来つらむ
とにかくに 心をさらず 思ふかな さてもと思へば さらにこそ思へ
解説
季節は春である。行間を読みながら、この文章に込められた右京太夫の心に迫る。
掛け離れいけば
少し分りにくい表現である。それで 掛け離れいく は、あの人の心が私から離れて行くのは という意味の写本がある。ここでは「群書類従」の本文のままで解釈する。右京太夫は少し冷静になって、客観的に資盛との関係を振り返ってみたのである。
あながちにつらき限りにしもあらねど、
そうすると資盛が右京太夫に注ぐ愛情は、それほど悪いものではないという結論になった。全く女のもとを訪れないということはなく、それなりの間隔で逢いに来てくれるからであろう。
なかなか目に近きは、またくやしくも恨めしくも、さまざま思ふこと多くて、
資盛は建礼門院の甥にあたるので、頻繫に中宮の部屋に出入りする。中宮に仕える女房である右京太夫とは、しょっちゅう顔を合わせる。けれども女は男心を疑っている。だから頻繁に資盛の姿を目にすることは却って、女の心を苦しめるのである。私はこの部分を「伊勢物語」の第19段を踏まえていると考える。
くやしくも恨めしくも、さまざま思ふこと多くて、
という右京太夫の心は、「伊勢物語」を踏まえると次の様な意味になる。
但し資盛様は中宮様のご一門であり、私は宮様にお仕えする女房なので、内裏で何度も顔を合わす事になる。
それが却って私の苦しみを増大させる。人目があるのでプライベートな会話は出来ない。暫く資盛様の訪れが途絶えている時期であれば、どうして私の心は平静でいられましょう。私は何故この人と結ばれてしまったのであろう。遠くから資盛様の姿を眺めながら、自分の持って生まれた運命を残念に思ったり、あの人を恨めしく思ったりするのだった。それは丁度「伊勢物語」第19段の世界と重なっている。
昔、男がいて天皇の女御か更衣かの、高貴な女性に宮仕えしている女房と恋仲になった。所がその後で二人は別れた。それでも男は貴族なので宮中に出入りする。女は宮仕えをしている。だから二人は顔を合わせるのだが、男は知らぬ振りをする。女はその苦しい気持ちを歌に詠んだ。
天雲の よそにも人の なりゆくか 流石に目には 見ゆるものから
天雲 は天の雲、空を漂う雲のことである。私と資盛様の関係にピッタリではないか。「伊勢物語」の第19段の男は、女の哀切な歌を見ても、冷淡な態度を変えなかった。それは自分以外の男が女に通っていると邪推していたからである。私にはそんな男はいない。だから資盛様が恨めしい。
宮仕えはしている女房ならではの苦しみなのである。そうこうする内に新しい年になった。
年も返りて、いつしか春のけしきもうらやましう、鶯のおとづるるにも、
新春は心の浮き立つ季節である。鶯も楽しそうにさえずっている。けれども資盛との事で恋の悩みを抱えている右京太夫は、暗い気持ちのままであった。ここで二首右京太夫の歌が詠まれている。歌に続けて現代語訳をする。
現代語訳
一首目
物思へば 心の春を 知らぬ身に 何うぐいすの 告げに来つらむ
資盛様との恋愛で悩み続けている私の心は、鉛のように重苦しい。それは年が改まっても、変わらない。自然界には春が来ても、私の心の中の季節はまだ冬のままなのだ。鶯よ、お前は明るい鳴き声で、春です、皆さん大いに楽しみましょうと告げているようだが、私にそんな事を教えてくれる必要はない。
二首目
とにかくに 心をさらず 思ふかな さてもと思へば さらにこそ思へ
あれこれ苦しい悲しいことばかりが、私の心の中で渦巻き、どこかへ去っていく気配はない。これではいけない。もう幾ら悩んでも仕様のないことは、考えないことにしようと思っても、気付いてみたら、又苦しみと嘆きの大渦の中に私は巻き込まれているのであった。
作者と資盛との関係は、喜びというよりは、苦しみ、忘れられる恐怖との戦いをもたらしたのである。
それでは次に花の思い出に入る。
作者は幾つかの桜の花のエピソ-ドを書き記している。先ずは斎院に仕えている女房との歌のやり取りである。斎院は賀茂神社に奉仕する内親王のことである、斎王という。
朗読② 斎院の桜
大炊の御門の斎院、いまだ本院におはしまししころ、かの宮の中将の君のもとより、「御垣の内の花」とて、折りて賜びて
標の内は 身をもくだかず 桜花 惜しむ心を 神にまかせて
返し
標のほかも 花としいはむ 花はみな 神にまかせて 散らさずもがな
解説
この斎院は「新古今和歌」を代表する女性歌人である式子内親王である。
大炊の御門の斎院、いまだ本院におはしまししころ
大炊の御門の斎院 が、まだ斎院だったころという意味である。式子内親王が斎院だったのは、1159-1169年までである。右京太夫が建礼門院に宮仕えを始める以前のことである。
かの宮の中将の君のもとより、「御垣の内の花」とて、折りて賜びて
斎院がお住まいの御所は紫野にあった。そこにお仕えしている中将の君は、作者といささか縁のある女性であった。和歌の道の第一人者で藤原俊成の娘だったのである。作者の母親は、作者の父親と結婚する以前に俊成と結ばれ男の子を生んだ。その中将の君から、これは神聖な斎院御所に咲いている桜なのですよと言って、桜の枝を折って作者に届けてくれたことがあった。
標の内は 身をもくだかず 桜花 惜しむ心を 神にまかせて
平安京の守護神である賀茂の神様に仕えておられる斎院様の御所では、桜が咲くまでも、咲いている期間も、散ってしまう時も、誰も一喜一憂したりなど致しません。勿論美しい桜が散るのは残念なことですが、自然の摂理は総て神の御心に従っている。ですから神様の思し召しに全てを委ねて、私達は日々を過ごしているのです。
右京太夫はどう返事したのでしょうか。
標のほかも 花としいはむ 花はみな 神にまかせて 散らさずもがな
神聖な空間である斎院御所の中では、確かに花が咲くのも散るのも、神の御心のままだと思う。けれども世の中に存在する花という花が、自然界の全てを自由に裁量されている神様の思し召し通りとなるのであれば、斎院御所以外の場所では、桜の花が散る事はなく、永遠に咲き続け人の心を楽しませてほしいものです。
二人が互いに心を許しあっている事が分かる。ここで作者が中将の君の桜の歌を書いたのは、次の場面の伏線、呼び水であった。
朗読③ 中将の君との歌の交換
この中将の君に、清経の中将の物言ふと聞きしを、ほどなく、同じ宮の内なる人に思ひ移りぬと聞きしかば、文のついでに
袖の露や いかがこぼれる 蘆垣を 吹きわたるなる 風のけしきに
返し
吹きわたる 風につけても 袖の露 乱れそめにし ことぞくやしき
解説
中将の君は平清経という男性と交際していたが別れた。清経は右京太夫が現在交際している資盛の弟である。
そして作者は資盛から、自分が何時忘れられるのかという不安に駆られている。作者は中将の君に自分の分身を見たのである。それでは文脈に即しつつ、中将の君と右京太夫の心に分け入ろう。
物言ふ は、深い中になるということである。恋人関係になったのである。聞きしを、とあるので、作者は噂話としてそのことを聞いたのである。
ほどなく、同じ宮の内なる人に思ひ移りぬと聞きしかば、
作者は間もなく新しい噂を耳にした。これは清経が中将の君を見捨てたという悲しい噂である。しかもこともあろうに、同じ宮の内なる人に思ひ移りぬ 中将の君と同じ様に、斎院御所に仕えている別の女房に乗り換えたのである。中将の君の受けた衝撃はどんなに大きかったことであろう。
文のついでに
作者は中将の君に手紙を書く用事があったので、その手紙のついでに彼女を慰める歌を書き添えた。
袖の露や いかがこぼれる 蘆垣を 吹きわたるなる 風のけしきに
清経様が貴方と間近な距離にいる女房へと、風のように移り気な愛情を移されたと聞きました。あなたの来ている袖はどんなにか涙で濡れそぼっている事でしょうか。辛いお気持ちお察しします。中将の君が感じている屈辱は、いつ作者に降りかかってかも知れない。中将の君を見捨てた清経は、作者の恋人の資盛の弟なのだから。
中将の君は作者に歌を返してきた。
吹きわたる 風につけても 袖の露 乱れそめにし ことぞくやしき
あなたが歌でお使いになった 蘆垣 という言葉であるが、蘆垣の は間近し だけではなく、思い乱るる にも掛かります。移り気な男の人と交際したばっかりに、私の心は思い乱れることになりました。清経様と交際を始めなければ、このように私の心が乱れることもなかったのですが、今更後悔しても甲斐ないことです。
中将の君の悲劇は、清経の兄である資盛と交際している作者にとって決して人ごとではない。さて季節は進む。
桜の花の季節が終わって初夏、菖蒲の季節になった。五月五日の端午の節句には、菖蒲がつきものである。
「右京太夫集」には菖蒲の思い出が記されている。その中から二つ紹介する。まず、見事な菖蒲が建礼門院に献上された思い出を読む。
朗読③ 時忠 菖蒲献上
五月五日、宮の権大夫時忠のもとより、薬玉まきたる筥の蓋に、菖蒲の薄様に敷きて、同じ薄様に書きて、なべてならず長き根を参らせて、
君が代に 引きくらぶれば あやめ草 長してふ根も 飽かずぞありける
返し 花たちばなの薄様に書く
心ざし 深くぞ見ゆる あやめ草 長きためしに 引ける根なれば
解説
宮の権大夫時忠
中宮に仕える中宮職の次官 NO2だった平時忠のことである。清盛の室・平時子の弟。彼には 平家に非ずんば人に非ず という歴史に残る名言がある。文脈に沿って文章の意味を理解する。
五月五日、宮の権大夫時忠のもとより、薬玉まきたる筥の蓋に、菖蒲の薄様に敷きて、同じ薄様に書きて、なべてならず長き根を参らせて
5月5日の端午の節句には菖蒲がつきものである。時忠から建礼門院に、蒔絵で描いた筥の蓋 が献上された。
その蓋 に、菖蒲の色の薄い紙が敷いてあり、その上に見たこともない位長い菖蒲の根が載っていた。その根には菖蒲の色の紙がつけられていて、そこに祝いの歌が書かれていた。時忠の歌である。
君が代に 引きくらぶれば あやめ草 長してふ根も 飽かずぞありける
こんなに長い菖蒲の根は、滅多にあるものではない。けれども中宮様の寿命の長さに比べれば、菖蒲の根の長さなどとても足元にも及びません。如才ない挨拶である。
返し 花たちばなの薄様に書く
心ざし 深くぞ見ゆる あやめ草 長きためしに 引ける根なれば
中宮から時忠への返事は右京太夫が仰せつかった。歌は 花たちばな の色の薄い紙に書いた。
いえいえ、見事な菖蒲の根ですよ。あなたが長いものの代表とみなしただけのことはありますね。立派な菖蒲の根を献上したあなたの志の深さをしっかりと受け取りました。
右京太夫も又如才のない歌を詠んでいる。これが宮廷の上流の人々の社交なのである。次に菖蒲の四つのエピソ-ドの中で、短くて暗い思い出を紹介する。
朗読④
硯のついでに手習ひに
あはれなり 身のうきにのみ 根をとめて たもとに掛る あやめと思へば
解説
硯のついでに手習ひに
硯を取り出して墨をする。歌を書いたついでに手すさびで、右京太夫は歌を書きつけた。
あはれなり 身のうきにのみ 根をとめて たもとに掛る あやめと思へば
何気ない歌であるが、掛詞が沢山使われている。
身のうき
わが身の辛さという他に、泥沼という意味の埿土という意味の埿が使われている。資盛との恋が泥沼のように苦しいということと、菖蒲の根が泥の中から堀出されることを重ねている。
根をとめて
根 も 菖蒲の根 あやめの根っこという意味と恋の苦しみで泣き声をあげるという意味の 音 を重ねている。更に
たもとに掛る あやめと思へば
掛る は菖蒲を袖に掛ける風習と、かかる このようなという意味の掛詞になっている。
今日は端午の節句だから、薬玉や菖蒲の根を袖に掛ける風習がある。その根は泥沼に埋もれていたのを、掘り出したものである。私も又、泥沼の様な自分の運命の辛さに苦しみ、泣き声をあげて涙を流しこの様に涙の玉を袂にかけている。
あやめの華やかな思いと、思い出を交互に織り込みながら、「右京太夫集」は進んでいく。光と影、幸福と不幸、その重なり合いが、「右京太夫集」のテーマなのである。「右京太夫集」は次に月の思い出を語り始める。
実に楽しい思い出である。平家一門の絶頂期の栄華を、右京太夫は平家が滅亡した後で、深い哀惜の念を込めて書き上げた。ここには右京太夫の慟哭が秘められている。右京太夫がお仕えしている建礼門院は、父親である平清盛・西八条殿に里帰りしている。そこで月を愛でて楽しい宴が繰り広げられた。この場面は長いので二つに分けて読む。先ず前半部分。作者の右京太夫が歌を詠む所で区切った。
朗読⑤
春ごろ、宮の、西八条に出でさせたまへりしほど、大方に参る人はさることにて、御はらから、御甥たちなど、みな番に下りて、ニ三人はたえず候はれしに、花の盛りに、月明かりし夜、「あたら夜を、ただにや明かさむ」
とて、権亮朗詠し、笛吹き、経正琵琶弾き、御簾の内にも琴掻き合せなど、おもしろく遊びしほどに、内より隆房の少将の御文持ちて参りたりしを、やがて呼びて、さまざまのことども尽くして、のちには、昔今の物語などして、明け方までながめしに、花は散り散らず同じにほひに、月もひとつに霞みあひつつ、やうやう白む山際、いつと言ひながら、言ふ方なくおもしろかりしを、御返し給はりて、隆房出でしに、「ただにやは」とて、扇の端を折りて、書きて取らす。
かくまでの なさけ尽くさで おほかたのに 花と月とを ただ見ましだに
解説
春ごろ、宮の、西八条に出でさせたまへりしほど、
ある年の春、父である清盛の屋敷に里下がりしたる。無論右京太夫も付き従っている。
大方に参る人はさることにて、御はらから、御甥たちなど、みな番に下りて、ニ三人はたえず候はれしに、
藤原氏の人々だけではなく、平家一門の人々、つまり建礼門院の兄弟や甥にあたる人々が、警備の為に日参し、夜通し警固していた。
花の盛りに、月明かりし夜、「あたら夜を、ただにや明かさむ」とて、権亮朗詠し、笛吹き、経正琵琶弾き、御簾の内にも琴掻き合せなど、おもしろく遊びしほどに
皆に音楽の合奏をしようと提案した権亮は平維盛である。清盛の長男、重盛の長男である。右京太夫の恋人の資盛の兄である。この時琵琶を奏でた経正は、「平家物語」でも印象的な人物である。木曽義仲との戦いで北陸へ向かう途中、琵琶湖に浮かぶ竹生島に渡って演奏した事。都落ちに際して、仁和寺の覚性法親王に琵琶の名器・青山を返却したこと。一の谷で戦死した事。青葉の笛で有名な 平敦盛の兄である事、多くの逸話を残している。
内より隆房の少将の御文持ちて参りたりしを、やがて呼びて、さまざまのことども尽くして、のちには、昔今の物語などして、明け方までながめしに、
藤原隆房は平清盛の娘を妻にしている。
花は散り散らず同じにほひに、月もひとつに霞みあひつつ、やうやう白む山際、いつと言ひながら、言ふ方なくおもしろかりしを
この表現は「枕草子」の有名な書き出しと似ている。
御返し給はりて、隆房出でしに、「ただにやは」とて、扇の端を折りて、書きて取らす。
天皇の使いとして、西八条殿に建礼門院を訪ねてきた隆房は、中宮からの返信を受け取って内裏に戻ろうとする。
そこに右京太夫が登場して、隆房が高倉天皇にこういう楽しい宴が開かれていましたと、報告出来るようにと考え率先して歌を詠んだのである。
かくまでの なさけ尽くさで おほかたのに 花と月とを ただ見ましだに
普通の花と月を見ても感動するのに、今夜の西八条殿では月と花の美しさ、人々の演奏の素晴らしさがマッチして奇跡的な一夜となった。
それでは清盛の屋敷・西八条殿での、月の宴の後半に入る。
朗読⑥
少将かたはらいたきまで詠じ誦じて、硯乞ひて、「この座なる人々何ともみな書け」とて、わが扇にかく。
かたがたに 忘らるまじき 今宵をば 誰も心に とどめてを思へ
権亮は、「歌もえ詠まぬ者はいかに」と言はれしを、なほ責められて、
心とむな 思い出でそと いはむだに 今宵をいかが やすく忘れむ
経正の朝臣
うれしくも 今宵の友の 数に入りて 偲ばれ偲ぶ つまとなるべき
と申ししを、「我しも、分きて偲ばるべきこと心やりたる」など、この人々の笑はれしかば、「
いつかはさは申したる」と陳ぜしも、をかしかりき。
解説
右京太夫の歌に続いて、三人の人々が和歌を詠み交わしたのである。順に勅使である藤原隆房、平家一門の若きリーダ-である平維盛、琵琶の名人である平経正の三人である。
平家が作り上げた文化、つまり平家文化のエッセンスがここにある。これだけの平家文化は、瞬く間に滅んでしまったのは衝撃的である。
現代語訳
ある年の春、中宮様がご一家である清盛様の西八条殿に里帰りされたことがある。当然宮様にお仕えすべき方々は勿論であるが、宮様のご兄弟や甥にあたる一門の方々が全員当番で詰めて、常にニ三人は夜の宮様の御座所の御簾の外に伺候していていた。時あたかも桜の花が満開の頃であった。月が明るく輝いている夜に、雅やかな宴が催された。宮様の甥にあたる平維盛様が、まさにこんな素晴らしい春の夜を何もしないで過ごしてよいものだろうか。どうでしょうか、詩歌、還元の遊びに時を過ごしませんかと提案して、自ら漢詩や和歌を朗誦した。すると宮様の従兄弟にあたる平経正が琵琶を爪弾き始めた。御簾の中にいる女房も琴を弾き鳴らしたりして楽しい管弦の宴となった。内裏から高倉天皇のお使いとして、藤原隆房様がお手紙を携えて参上した。この方は清盛様の娘婿である。維盛様や経正様がその隆房様を呼び止め、そのまま管弦の遊びに合流させたのは言うまでもないことであった。皆で様々な楽器を奏で、しまいには昔の思い出話などを語り合っているうちに、明け方近くになった。明け方の景色は素晴らしかった。満開の桜は散ったものもあれば、残っているものもある。
枝についている花も、散り敷いている花もどちらも艶やかであった。空の月と庭の花が霞の中で一つに溶け合っている。平安時代の「枕草子」は
春はあけぼの やうやう白くなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲の、細くたなびきたる。
という情景から書き始められているが、まさにそのような春のあけぼのが、今宮様の御前に厳然しているのだった。誠に筆舌に尽くせない感興の時であった。さてそろそろ上様に復命しなくてはなりませんと、隆房様が言い、宮様からのご返事の手紙を授かって、西八条殿を退出しようとする。私はこのまま隆房様を内裏に戻していいものだろうか、宮様のご返事以外に隆房様が内裏で報告する際には、一寸した土産話が必要だろう、こけだけ楽しかった宴なのだから、最後は和歌を唱和しあって盛り上がってお開きにしたいものだと考えた。そこでとっさに持っていた扇の端を折り取って、そこに歌を書き隆房様に差し上げた。
かくまでの なさけ尽くさで おほかたのに 花と月とを ただ見ましだに
今夜のようにみやびやかな宴を心行くまで満喫しなかったとしても、ごく普通にこの花と月を見ては、歌を詠まずにはいられない。まして宴がまだ続いているかのように思われる今、どうして歌なしで済まされましょうや。隆房様は聞いている私が恥ずかしくなるくらい、この歌を高らかに朗誦した。さして近くにいた女房に硯と墨を持ってこさせ、「そうだ右京太夫の言う通りだ。ここにいる人々よ、何でもよい、みな歌を詠むのだ」と言って、率先して自分が手にしていた扇に書きつけた。この様に
かたがたに 忘らるまじき 今宵をば 誰も心に とどめてを思へ
中宮様のお栄え、桜の花の風情、月の光、詩歌管弦の遊び、そしてこれから始まる和歌の唱和、全てにつけて素晴らしい。今夜のみやびやかな宴を、ここに居合わせたすべての人の記憶に刻印し、いつまでも懐かしくするがよい。維盛様は「私は和歌に関しては不調法でどうしたらよいものでしょうか」と逃げ腰だったが、やはり詠め詠めと口々に催促されて詠んだ。
心とむな 思い出でそと いはむだに 今宵をいかが やすく忘れむ
今宵のみやびやかな宴のことは、記憶するな、思い出すなと言われたとしても、どうして忘れられようか。経正様は和歌に自信があるので、すぐに詠まれた。
うれしくも 今宵の友の 数に入りて 偲ばれ偲ぶ つまとなるべき
今宵のみやびやかな宴に参加した者たちは、美しいものを理解しあう真の友というべきでしょう。その友の中に私まで入れて頂いたことが、嬉しくてなりません。今宵は参加した人を思い出し、又伝説的な宴として末長く思い出される日となる事でしょう。この様に詠んだところ、皆から経正様は今宵の自分の琵琶の演奏が余程素晴らしかったと自負しておられるようだ。いつまでもあの夜の経正様の琵琶は神懸っていたなどと語り継がれる自信が御有りのようだとからかわれた。経正様が憤然とした顔つきで、私がいつそんな自画自賛を申しましたか、申してはおりませんと反論されたのはおかしかった。
建礼門院・平徳子を取り巻いて、兄弟、甥たちが楽しい会話を繰り広げている。私は「枕草子」の世界を連想する。中宮定子を取り巻いて、父の道隆・兄の伊周・弟の隆家・隆円などが楽しく集う姿を、清少納言は見事に書き留めている。定子の父親である道隆が築いた中の関白家は、藤原道長に敗北し歴史の闇に消えて行った。
建礼門院を取り巻いて、平家一門の人々が楽しい円居の時を過ごしていることを、右京太夫はしっかりと書き記している。「建礼門院右京太夫集」は第二の「枕草子」であったと私は思う。
「コメント」
自分の恋のこともテーマにして、全体を盛り上げている右京太夫は凄い。講師の第二の「枕草子」という説は、この作品を理解する上で適切である。