240413②「桐壺の巻 1」
この物語に入る扉の一つが「湖月抄」である。北村季吟が著した。これから「湖月抄」を中心にして、名場面を読んでいく。
「湖月抄」への反対意見を数多く述べた、本居宣長の述べた解釈も加える。「源氏物語」54帖の始まり
は、桐壺の巻 である。今回と次回の二回に分けて読む。桐壺の巻 はこの物語の主人公である
光源氏の誕生から元服、結婚までをテンポよく語っている。朗読するのは「源氏物語」の本文である
現在「湖月抄」の原文を活字で出版している廉価な単行本はない。
ない。それでも皆さんがお持ちの「源氏物語」のテキストとはほぼ同じである。何故ならば、藤原定家
が原文を留めた青表紙本の系統である点で共通しているからである。それでは冒頭部分の朗読を
する。
朗読①冒頭部分
いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひ玉引ける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、
すぐれて時めきたまふありけり。はじめより我はと思ひあかせりたまへる御方々、めざましきものに
おとしめたまふ。同じほど、それより下臈の更衣達はましてやすからず。朝夕の宮仕につけても、
人の心をのみ動かし、恨みを負ふつもりにやありけん、いとあつしくなりゆき、もの細げに里がちなる
を、いよいよあかずあはれなるものに思ほして、人の謗りをも憚らせたまはず、世の
例にもなりぬべき御みてなしなり。
解説
いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひ玉引ける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐ
れて時めきたまふありけり。
「湖月抄」は本文の横に言葉の意味や、主語、発言者などを細かな字で書きこんでいる。それを参考にすると、文章の意味が浮かび上がってくる。
どの帝の御代であったか、ある帝がおられた。この帝には沢山の女御、更衣がお仕えしていた。その中に生まれはこの上なく高い家柄ではないが、甚だ帝の寵愛を受けておられる方がいた。これが桐壺の更衣である。→「源氏物語」はこういう風に始まったのである。
はじめより我はと思ひあかせりたまへる御方々、めざましきものにおとしめたまふ。
桐壺の更衣よりも先に入内して、我こそは帝の寵愛を得たいと意気込んでいた弘徽殿の女御たちは、桐壺の更衣のことを妬み悪口を言ったり憎んだりした。
同じほど、それより下臈の更衣達はましてやすからず。
女御より身分の低い、桐壺の更衣と同じ家柄の更衣達、更には更衣より家柄の劣る更衣達は更に
心穏やかではいられない。
朝夕の宮仕につけても、人の心をのみ動かし、
人の心 は、桐壺の更衣よりも身分の劣る更衣達のことだと、「湖月抄」は解釈する。桐壺の更衣に
は帝からのお召が朝も夜もあるので、他の更衣達は四六時中不愉快に感じるのである。
恨みを負ふつもりにやありけん、いとあつしくなりゆき
人々の恨みを一身に浴びることが重なったためだろうか、桐壺の更衣は病気がちになった。
もの細げに里がちなるを、いよいよあかずあはれなるものに思ほして、
実家に下がることが多くなったのは、桐壺の更衣である。帝は桐壺の更衣を一層不憫に思い寵愛
する。
人の謗りをも憚らせたまはず、世の例にもなりぬべき御みてなしなり。
帝の寵愛ぶりは、臣下からの諫めにも耳を貸さない程であったので、国を傾けた悪い政治の具体例
として、世間で問題視されてしまいそうであった。
以上が「湖月抄」の本文の横に書いてある傍注によって解釈した内容である。所が「湖月抄」には、
上の方に沢山の小さな文字が書かれている。これを頭注という。「湖月抄」の頭注に書かれているの
は、次の様な内容である。
1、「源氏物語」は光君の母親の人生から始まった。
2、いづれの御時にか という書き出しは「古今和歌集」を代表する女性歌人である伊勢の家集「伊勢集」の書き出しの文章を、ほぼそのまま利用している。
3、本文ではぼやかして いづれの御時にか、とあるが、この帝 桐壺帝は実在した醍醐天皇をモデルにしているという。醍醐天皇は妃が3人、女御5人、更衣19人、合わせて27人。
4、女御は中宮に次ぐ立場である。更衣は女御に次ぐ立場である。
5、この場面には作者である紫式部の、世界を上中下に三区分して認識する、思考様式が反映している。桐壺の更衣より上、桐壺の更衣と同等、桐壺の更衣より下という区分である。
めざまし は、漢字では 冷眼とかく。冷ややかに見る という意味で、上中下の女性の性格が良くないことを批判している。
この頭注を読んだ「湖月抄」の読者は、これらを頭に入れてもう一度本文と頭注を読み直す。すると
本文から得られる情報量が2倍から3倍に増加している。私はこれを「湖月抄」訳「源氏物語」と呼び、「源氏物語」を読むためのスタートラインにしたいのである。
「古今和歌集」を代表する女性歌人 伊勢の家集の冒頭部分に倣って、いづれの御時にか、 とこの物語を書き始めることにしよう。どの帝の御時であったか、ある帝がおられたとは書いたが、読者の方々は27人もの皇妃がいた醍醐天皇を、念頭に置いた時代設定であるとご理解頂きたい。帝に仕えていた沢山の女御や皇位の中に、出身がこの上もなく高い家柄ではない女性で、甚だ帝の寵愛を受けておられた方がいた。それが桐壺の更衣である。帝にはまだ中宮がおられなかった。桐壺の更衣より先に入内して、我こそは帝の寵愛を得たいと願っていた弘徽殿の女御たちは、目に余る帝の寵愛ぶりなので、桐壺の更衣のことを妬み悪口を言ったり憎んだりした。女御より下で桐壺の更衣と同じ身分の更衣達は、更に心穏やかではいられない。桐壺の更衣には帝からのお召が朝も夜もあるので、他の更衣達は四六時中不愉快な気持ちになってしまうのであった。女御たちは大臣の娘なので、桐壺の更衣への反発はそれでもまだおっとりとしていたが、身分の低い方の妃たちは露骨に桐壺の更衣を忌み嫌った。この様に人々の恨みを一身に浴びることが、重なった為であろうか、桐壺の更衣はめっきり病気がちになった。とてもはかなげに実家に下って病を養うことが多くなった。そんな桐壺の更衣を、帝は一層不憫な女だと思われ、いつまでも身近に置いておきたいと思い寵愛した。帝の寵愛ぶりは、臣下からの諫言などには耳も貸さない程で目に余ったので、悪い政治の具体例として世間で話題になりそうであった。
「湖月抄」訳の「源氏物語」では登場する人間たちに血が通っている様に感じられる。読者は物語の中に既に入り込んでいる。弘徽殿の女御の反発と、桐壺の更衣と同等或いは身分の低い女たちの露骨な悪意により、桐壺の更衣は心と体を病む。しかも女たちだけではなく、政治に参画する男性貴族までが、帝の桐壺の更衣への寵愛を批判し始める。
この箇所に関して本居宣長は次の四点を批判している。
1、 実在した醍醐天皇を桐壺帝のモデルとしたのは間違いである。「源氏物語」はすべて創作であって、いわゆる昔話である。
2、 めざまし は、冷たい目で他人を見ることではなくて、こんなことがあって良いのかと憤る気持ちを表す。
3、 人の心をのみ動かし は、桐壺の更衣よりも身分が下の女性たちだけでなく、上臈、中臈を含めた全員が桐壺の更衣の存在を不愉快に感じているのである。
4、 あつしく は、体が弱く病気で苦しんでいる様子を表す。
成る程と思わせる指摘ばかりである。その為であろう、本居宣長の意見がその後の国文学者に、殆どそのまま踏襲されてきた。現在出版されている国文学者の手になる「源氏物語の訳文は、「湖月抄」をベ-スにしながらも、本居宣長の説で修正を加えて完成したものである。
それでは21世紀を生きる現代人は本居宣長が良しとした解釈一つだけを読めば良いのだろうか。ここが「源氏物語を読むことの難しさである。「源氏物語の読者は長く、桐壺帝という架空の天皇の背後に実在した醍醐天皇の姿を重ねて読んできた。そして醍醐天皇の皇子の中から、源 という苗字を賜わりなおかつ失脚して左遷された人物を特定した。
そうして 源高明 という人物が光源氏のモデルだとされてきたのである。現在は忘れられていても、「湖月抄」は日本文学に影響を与え、日本文化を作ってきた実績がある。この古典講読で紹介する「湖月抄」訳「源氏物語」は、13世紀以来18世紀までの「源氏物語」の読まれ方を復活させるものである。本居宣長の反論も必ず紹介する。
さて次の場面は光源氏の誕生である。
朗読②桐壺の更衣に皇子誕生
前の世にも御契りや深かりけん、世になくきよらなる玉の男皇子さへ生まれたまひぬ。いつしかと心もとながらせたまひて、急ぎ参らせて御覧ずるに、めづらかなる児の御容貌なり。一の皇子は、右大臣の女御の御腹にて、寄せ重く、疑ひなきまうけの君と、世にもてかしづききこゆれど、この御にほひには並びたまふべくもあらざりければ、おほかたのやむごとなき御思ひにて、このきみをば、私物に思ほしかしづきたまふこと限りなし。
解説
まず「湖月抄」の解釈を中心に説明する。
前の世にも御契りや深かりけん、世になくきよらなる玉の男皇子さへ生まれたまひぬ。
男女の出会いは前世から定まっていた運命である。子供が生まれるかどうかも、前世からの運命とされた。「湖月抄」はきよら という言葉が、超一流の美しいものへの称賛だと述べている。
玉の男皇子 の 玉 も心の美しさと、顔かたちの美しさの両方を称える言葉だとされる。
桐壺の更衣と桐壷帝が、この世で情熱的な恋によって結ばれたのは前世から決まっていたのであろう。深い運命の結晶として、これほどまでに清らなる赤子が、人間社会に存在するのだろうかとまで思われる、美しい玉の様な皇子が生まれた。光君の誕生である。真実の恋や友情は前世からの深い契の結果であると言われる。
君と我 いかなることを 契りけん 昔の世こそ 知らまほしけれ
という和歌にも詠まれている。
また玉は心の美しさと容貌の美しさの双方を表す言葉である。
いつしかと心もとながらせたまひて、急ぎ参らせて御覧ずるに、めづらかなる児の御容貌なり。
「湖月抄」は、帝が生まれたばかりの光源氏の顔を見たく思ったという主語を目的語を説明している。
一の皇子は、右大臣の女御の御腹にて
光源氏は第二皇子である。第一皇子は後の朱雀院、母は弘徽殿の女御である。弘徽殿の女御の父は右大臣である。
寄せ重く、疑ひなきまうけの君と、世にもてかしづききこゆれど、
寄せ重く は、後見人である外祖父が、右大臣という権力者であるという意味である。まうけの君 は、東宮・皇太子のことである。
世にもてかしづききこゆれど、
生まれた順番から言っても後ろ盾から考えても、世間の人は第一皇子が東宮となり天皇となるのが当然であり、政治も安定すると考えていた。
この御にほひには並びたまふべくもあらざりければ、おほかたのやむごとなき御思ひにて、このきみをば、私物に思ほしかしづきたまふこと限りなし。
所が第一皇子朱雀院は、第二皇子の光源氏と比べて にほひ が足りない。「湖月抄」は、にほひ という言葉に関連して、中国の儒学で重視された四書五経を引用しながら、光源氏の徳の高さを誉めたものだと指摘している。桐壷帝は後から生まれた光源氏を後見人もいないのに、私物 個人的な寵愛の対象として溺愛したのである。
現代語訳
この皇子の3年前にお生まれになった一の皇子は後の朱雀院であるが、母は右大臣の娘である弘徽殿の女御である。一の皇子は政治の世界で重きをなしている右大臣の孫なので、間違いなく東宮になるだろうと世間で噂している。けれどもこの度生まれたニの皇子と並べると、その優劣は一目瞭然で、この皇子の方が魅力的で断然優れている。中国古来の書経には、人間の徳の高さは こうばしく にほやか であるとある。人間の美しい心は神をも喜ばせるという意味である。二の皇子の美貌は神の恩寵ではないかとまで思われた。帝も一の皇子に対して、公的な側面で思い扱いをしているが、二の皇子に対しては私的な側面で心からの可愛がりようであった。帝の二の皇子への溺愛振りは誰の目にも明らかだった。
さて本居宣長は「湖月抄」をどう読んだのであろう。本居宣長は国学者である。我が国の古来の心を大和心として大切にし、仏教や儒教の教えを唐心としてとして解析する。
だから「湖月抄」が四書五経を持ち出して、光源氏の心の にほひ や香り を称賛することには反対する。第二皇子である若宮は数え三歳で着袴の儀を盛大に行った。幼時から少年になる儀式である。一の皇子にも劣らぬ盛大さであった。
その年の秋、桐壺の更衣は病が重くなり、宮中を退出するが間もなく逝去する。これは「源氏物語」で最初に書かれた死別の場面である。その場面を読む。
朗読③ 桐壺の更衣の死
限りあれば、さのみもえとどめさせたまはず、御覧じたに送らぬおぼつかなさを言ふ方なく思ほさる。いとにほやかうつくしげなる人の、いと面痩せて、いとあはれとものを思ひしみながら、言に出でて聞こえやらず、あるかなきかに消え入りつつものしたまふを御覧ずるに、来し方行く末思しめされず、よろづのことを泣く泣く契りのたまはすれど、御答へもえ聞こえたまはず、まみなどもいとたゆげにて、いとどなよなよとわれかの気色に臥したれば、いかさまにかと思しめしまどはる。輦車の宣旨などのたまはせても、また入らせたまひてさらにえゆるさせたまはず。「限りあらむ道にも後れ先立たじと契らせたまひけるを、さりとも棄ててはえ行きやらじ」とのたまはするを、女もいとしみじみ見たてまつりて
「かぎりとて 別るる道の 悲しさに いかまほしきは 命なりけり
いとかく思ひたまへましかば」と、息も絶えつつ、聞こえまほしげなることはありげなれど、いと苦しげにたゆげなれば、かくながら、ともかくもならむを御覧じはてむと思しめすに、「今日はじむべき祈祷ども、さるべき人々うけたまはれる、今宵よりと聞こえ急がせば、わりなく思ほしながらまかでさせたまふ。
御胸のみつとふさがりて、つゆまどろまれず、明かしかねさせたまふ。御使の行きかふほどもなきに、なほいぶせさを限りなくのたまはせつるを、「夜半うち過ぐるほどになむ、絶えはてたまひぬる」とて泣き騒げば、御使もいとあへなくて帰り参りぬ。聞こしめす御心まどひ、何ごとも思しめしわかれず、籠りおはします
解説
「湖月抄」の解釈を中心に講師の解釈を加えて、原文の魅力に触れよう。
限りあれば、さのみもえとどめさせたまはず、御覧じだに送らぬおぼつかなさを言ふ方なく思ほさる。
桐壷帝は病で里に降る更衣を最後まで見送れないのが不安なのである。その理由は 限りあれば である。別れを惜しむには限度があるし、天皇といえども宮中のしきたりには従わざるを得ない。
いとにほやかうつくしげなる人の、いと面痩せて、いとあはれとものを思ひしみながら、言に出でて聞こえやらず、あるかなきかに消え入りつつものしたまふ
帝の目に映った桐壺の更衣の瀕死の姿である。いとにほやかうつくしげなる人 健康だった頃には顔色も良くつやつやとして可愛らしかった。その人が長い間の闘病生活でいと面痩せて いる。彼女は心の中では沢山のことを思っているようであるが、それを言葉に出して帝に告げる体力が残っていない。あるかなきか は、生きているのか死んでいるのかという意味である。ものしたまふ の、ものす は、凡ての動詞の代わりをする。ここでは瀕死の状態であるということである。この部分を「湖月抄」訳しておく。
これまで帝の眼に映っていた更衣は体の中から発散する華があり、可愛らしかった。その人が長い闘病で面窶れしてしまっている。彼女はわが身に迫りくる死を予感して大層悲しいと思っているのであろう。けれども最早、言葉に出して自分の思いを口にする、気持と体力は残っていなかった。更衣は生きているのかいないのか自分では分からない状態で今にも命が失われようとしている。
御覧ずるに、来し方行く末思しめされず、よろづのことを泣く泣く契りのたまはすれど、
契りのたまはすれど、 の主語は帝である。約束を口にするという意味である。
御答へもえ聞こえたまはず、まみなどもいとたゆげにて、いとどなよなよとわれかの気色に臥したれば、
主語は桐壺の更衣である。
まみなどもいとたゆげにて は、「湖月抄」 は 目の辺りが眩い様子と説明している。可哀想で見ていられないという解釈である。但し本居宣長は、目はだるそうな病人の様子を表していると述べている。これは本居宣長に分がある。
いかさまにかと思しめしまどはる。
帝はどうしたら良いか分からない。
この部分は「湖月抄」と本居宣長を溶け合わせて行間を読む。それをご覧になる帝は更衣との出会いから現在まで、二人が共に生きた時間、これから二人で共に生きて行こうと願っていた時間が一挙に失われたかの様な喪失感にとらわれた。これまで無言であった帝は突然に饒舌になり、沢山のことを更衣に向かって約束し始められる。それを聞く更衣が元気を取り戻してくれるように願ったからであろう。けれども更衣の口から返事は帰ってこなかった。更衣の目の辺りはいかにもだるそうで元気がない。元々華奢な体つきだった人が、体が弱り一層なよなよとして帝も前でもきちんとした姿勢を保つことが出来ないでいる。自分と他人の区別がつかない程、意識が朦朧として臥せっている。それをみる帝はこれから更衣はどうなっていくのだろうと気も動転しながらも、更衣の回復を願わずにはいられない。
輦車の宣旨などのたまはせても、また入らせたまひてさらにえゆるさせたまはず。
輦車の宣旨 は、身分の高い人にだけ許される特別待遇で、車で宮中に出入りできる。「湖月抄」は前例を指摘している。
更衣の局でお別れした後で、帝は自分の部屋に戻って、手車に乗ったままで宮中から退出して良いという宣旨を出すように命じられた。それは女御などにしか許されない特別な待遇である。このことの前例としては、仁明天皇の御代に女御・藤原沢子が病の為に輦で退出することが許されており、三位と推定されている。輦の宣旨を出すように命じられた帝は、再び更衣の局まで戻って、更衣との別れを惜しむので更衣は里に向かって出発することが出来ない。
さて更衣のもとに戻った帝は語り掛ける。それに応えて更衣は返事をした。それは和歌であった。「源氏物語」には795首の和歌が含まれるが、その最初の歌である。
「限りあらむ道にも後れ先立たじと契らせたまひけるを、さりとも棄ててはえ行きやらじ」とのたまはするを、女もいとしみじみ見たてまつりて 「かぎりとて 別るる道の 悲しさに いかまほしきは
命なりけり
限りあらむ道 は、命には限りがあり、いつか必ず行かなければならない死の世界へ という意味である。
女もいとしみじ とある。嬉しい時にも悲しい時にも、その程度が甚だしい時に用いる。ここでは悲しいのである。
和歌 かぎりとて 別るる道の 悲しきに いかまほしきは 命なりけり
いかまほしき の部分に生きるという意味の 生く と、死の世界に行くという意味が掛詞になっている。大意は次のようである。帝はいつか必ず人間には命が尽きる時が来る。その時には二人一緒にあの世に旅立とうと、あれほど固く約束してくださったではないですか。例え病が重かったとしても、
どうして私一人を宮中に残して、あなただけが里に行ってしまうのですかと仰る。女はそんな男を見上げて、私もひどく悲しいと思っている様子だったが、息をつきつき必死に言葉を口にした。それは和歌であった。かぎりとて 別るる道の 悲しさに いかまほしきは 命なりけり
こんなに生きていたいと願っていても、人には定まった運命がある。私は愛する人たちと別れ、一人だけ死出の旅に出るのが悲しくてならない。私は死出に旅に行きたくはない。私はもっと生きたい。私に命がもう少しあったならばなあ。言葉にならない思いを和歌ならば表現できるのである。
いとかく思ひたまへましかば」と、息も絶えつつ、聞こえまほしげなることはありげなれど、いと苦しげにたゆげなれば、
いとかく思ひたまへましかば は、いとかく思はましかば の謙譲語である。
かくながら、ともかくもならむを御覧じはてむと思しめすに、「今日はじむべき祈祷ども、さるべき人々うけたまはれる、今宵よりと聞こえ急がせば、わりなく思ほしながらまかでさせたまふ。
更衣は宮中を退出した。「湖月抄」は仏教でいう会者定離とはこのことだろうとコメントしている。それでは「湖月抄」に従って現代語訳をする。
現代語訳
女は歌を口にした後で、 このようなことになるのだと分かっていたのならばとまで口にして、そこで力尽きて最早、一言も話せなくなった。必死に何かを言い残そうとしているのをご覧になった帝は、女の全身から力が抜け落ちて行く様子に衝撃を受け、このまま里に下らせず宮中で女の最後を見届けようとまで思い詰めておられる。けれども宮中を死の穢れで穢すことは出来ない。更衣の里の者たちも、今日から更衣様の健康回復を祈る加持祈祷が始まることになっています。経験あらたかな僧侶や験者がすでに揃っていて、更衣様が里に帰るのを待っています。今晩から始めると奏上して更衣の退出を催促する。帝はどうすればいいか分からない絶望感に捉われながら到頭、里に帰ることをお認めになった。長い別れの場面がここで終わり、更衣は帝と若宮と別れ彼女の母の待つ里に戻っていった。仏教の会者定離とはこのことだろう。と思われた。帝は一人宮中に残される。
御胸のみつとふさがりて、つゆまどろまれず、明かしかねさせたまふ。
帝は胸が悲しみで一杯である。つと を 「湖月抄」は急にと解釈しているが、本居宣長はじっと見ているという時の じっと であると反論している。
御使の行きかふほどもなきに、なほいぶせさを限りなくのたまはせつるを、
帝は更衣の家に使者を遣わして様子を尋ねさせたのだが、その使いの者が戻ってこないうちに自分の不安な気持ちを何度も口になさる。
「夜半うち過ぐるほどになむ、絶えはてたまひぬる」とて泣き騒げば、御使もいとあへなくて帰り参りぬ。
帝が遣わした使者は、更衣の里の者たちが泣き叫ぶ声を聞いた。
絶えはてたまひぬる」
更衣の命は失われたのである。使いの者の気持ちがあへなくて とある。このニュアンスは本居宣長が適切に説明している。あへなくて は、今でいう張りあいなく 力の落ちたる という意味である。
分かり易い。
聞こしめす御心まどひ、何ごとも思しめしわかれず、籠りおはします
更衣が死去したという報告を聞いた帝は衝撃を受けた。この部分は「湖月抄」と本居宣長を合わせて訳す。
宮中に一人残された帝は、急に胸が苦しくなって全く眠れない。季節は夏なので夜は短いが、短い夜を明かしかねている。帝は更衣の里に使者をお遣わしになって、更衣の今の様子を知ろうと為される。その使者が報告を携えて更衣の里から宮中に戻ってくるのを、待ちきれず心の中で膨れ上がってくる不安を、何度も何度も口になさっている。待ち望んだ使者が宮中に戻ってきた。夜中を少し過ぎた頃であった。更衣様の実家の者たちは、口々にお亡くなりになってしまったと泣き叫んで大混乱になってしまっていますと報告した。使者はいい結果を持ち帰ることが出来ず、力を落として帰ってきた。まさに有為転変の理をあらわした出来事だった。その報告をお聞きになった帝は激しく動揺し、理性も分別も失い、一人お部屋の中に閉じ籠ってしまわれた。
それにしても桐壺の更衣は辞世の歌を詠んだ後で、何かを言いたかったのであった。何を言いたかったのであろう。桐壺の更衣の心と一体感の出来ている読者には、桐壺の更衣の言葉にならなかった言葉がきっと聞き取れる。
「源氏物語」の門を潜ったという実感が湧いてくることであろう。
「コメント」
源氏物語は桐壺の更衣の死で始まる。ここで読者はさて、後ろ盾もない、母もいない若宮はと 引き込まれていく。