240518⑦「夕顔の巻」2

今日は夕顔の巻の後半である。夕顔が光源氏の目の前で命を失い、死の世界へと旅立つ。そして

空蝉も夫と共に伊予国に下っていく。先ず夕顔の住む五条の家を、光源氏が中秋の名月の夜に尋ねる場面を読む。

朗読①夕顔の家での一夜

八月十五夜、(くま)なき月影多かる板屋残りなく()り来て、見ならひたまはぬ住まひのさまもめづらしきに、暁近くなりにけるなるべし、隣の家々、あやしき(しず)の男の声々、目覚まして、「あはれ、いと寒しや」「今年こそなりはひにも頼むところすくなく、田舎の通ひも思ひかけねば、いと心細けれ。北殿こそ、聞きたまふや」など言ひかはすも聞こゆ。いとあはれなるおのがじしの営みに、起き出でてそそめき騒ぐもほどなきを、女いと恥づかしく思ひたり。(えん)だち気色(けしき)ばまむひとは、消えも入りぬべき住まひのさまなめりかし。されど、のどかに、つらきもうきもかたはらいたきことも思ひ入れたるさまならで、わがもてなしありさまは、いとあてはかに()めかしくて、またなくらうがはしき隣の用意なさを、いかなることとも聞き知りたるさまならねば、なかなか恥ぢかかやかんよりは罪ゆるされて見えれる。ごほごほ(なる)(かみ)よりもおどろおとろしく、踏みとどろかす唐臼の音も枕上(まくらがみ)とおぼゆる、あな耳かしがましとこれに思さるる。何の響きとも聞き入れたまはず、いとあやしうめざましき音なひとのみ聞きたまふ。くだくだしきことのみ多かり。、)

 解説

満月なので (くま)なき月影、月には暗い部分が無く煌々と照り渡っている。この夜に男女が交わりを持つのは不吉なので、避けるべきとする風習を「湖月抄」は紹介している。けれども光源氏は迷信には捉われず、この夜も夕顔と実事をもった。悲劇の伏線である。

(ひま)多かる板屋残りなく()り来て、見ならひたまはぬ住まひのさまもめづらしきに、

夕顔の住んでいる家は屋根のあちこちに隙間があり、月の光が部屋の中まで漏れてくる。立派な屋根のある邸宅に住み馴れている光源氏は、いつもとは違う雰囲気に物珍しさを感じる。

暁近くなりにけるなるべし、

その内に夜明けが近づいてきた。

暁近くなりにけるなるべし、隣の家々、あやしき(しず)の男の声々、目覚まして、「あはれ、いと寒しや」「今年こそなりはひにも頼むところすくなく、田舎の通ひも思ひかけねば、いと心細けれ。北殿こそ、聞きたまふや」など言ひかはすも聞こゆ。

この部分は小説風に訳す。

隣りの家からこれまで耳にしたこともないような、野太い庶民の声がいくつも聞こえてきた。その声で光る君も目を覚ました。聞こえてきたのは「おうおう、寒いことだ。今年の秋は田の収穫も駄目だったし、田舎に出掛けて物を売ろうにも商売あがったりだし、碌なことはない。お-い、北隣りさんよ。ご返事がないけど聞こえてますか」などという会話だった。

いとあはれなるおのがじしの営みに、起き出でてそそめき騒ぐもほどなきを、女いと恥づかしく思ひたり。

庶民たちは自分たちの生計を細々と立てるために、朝早くから起き出して働き始め大騒ぎしている。その声が壁越しに、光る君と共寝している夕顔の家にまで聞こえる。女は男君がどう聞くかと考えると恥ずかしくなる。

(えん)だち気色(けしき)ばまむひとは、消えも入りぬべき住まひのさまなめりかし。

これは草子地(ぞうしじ)即ち語り手のコメントである。語り手である私から見て、確かに風流ぶって振る舞いたい女ならば、死んでしまいたいたくなるほど、恥ずかしい住まいなのであろう。

されど、のどかに、つらきもうきもかたはらいたきことも思ひ入れたるさまならで、わがもてなしありさまは、いとあてはかに()めかしくて、またなくらうがはしき隣の用意なさを、いかなることとも聞き知りたるさまならねば、なかなか恥ぢかかやかんよりは罪ゆるされて見えれる。

()めかしくて 子供っぽいとか、おっとりとしているなどという意味である。夕顔は見た目には恥ずかしがる素振りも見せず、おっとりと振る舞っている。男には好感を与えるのであった。けれどもこの女はしたたかである。何事にもおっとりとしていて、こんな小家に住む身の上を恨めしく思ったり、光る君の耳にどう聞こえるか、きまり悪く思う事もあるだろうとに、そんなことは耳にしなかったようにふるまっている。その物腰や雰囲気はとても品がよく鷹揚で、隣りから聞こえてくる雑音や騒音を何の事か全くわからないと言わんばかりの、素知らぬ振りをしているので、光る君の目から見ても無難な振舞いに見える。所がさすがの光源氏もびっくりするような音が聞こえてきた。

ごほごほ(なる)(かみ)よりもおどろおとろしく、踏みとどろかす(から)(うす)の音も枕上(まくらがみ)とおぼゆる、あな耳かしがましとこれに思さるる。

古文では濁点を打たないので、原文には、こほこほ と書いてある。「湖月抄」は こほこほ 或いは ごほごほ という

二つの可能性があると言っている。但し  は を とも読むので、こをこを ごうごう の可能性もある。臼を搗く音が、(なる)(かみ) つまり 雷の響く音に例えられている。そのうち隣りからこうこう、ごうごう という雷鳴より大きな恐ろしい音が聞こえてきた。

  天の原 踏みとどろかし 鳴る神も 思ふ仲をば さくるものかは 古今和歌集 よみびと知らず

という歌があるが、雲の上の雷神がまるで大空を踏みしめているかのような大きな音が、光る君の枕元で鳴り響くのであった。

何の響きとも聞き入れたまはず、いとあやしうめざましき音なひとのみ聞きたまふ。くだくだしきことのみ多かり。

それは唐臼 を搗く音だった。無論、光る君はそれが何の音なのか全く分からなかった。流石にこの音に関しては、異様で嫌になる位の騒音だと辟易する。この女が住んでいるのは貧しい小家が密集している辺りなので、彼らの立てる生活音が何かと耳に障るのだった。今夕顔が住んでいる家は、隣近所の声が筒抜けで落ち着かない。光源氏はもっと静かな場所で夕顔と二人で過ごしたいと考え、別の場所に連れ出す。そこは なにがしの廃院 と呼ばれている。なにがしのとぼかしてあるが、源(とおる)が住んでいた河原院が準拠・モデルだとされている。陸奥の塩釜の浦の風景を模した庭が作られていたと「伊勢物語」には書いてある。河原院→現在の渉成園。

 

朗読② 夕顔と廃院で共寝している所に、物の怪が現れ、夕顔を襲う。

内裏(うち)にいかに求めさせたまふらんと、いづこに尋ぬらんと思しやりて、かつはあやしの心や、六条あたりにもいかに思ひ乱れたまふらん、恨みられんに苦しうことわりなりと、いとほしき筋は思ひきこえたまふ。何心もなきさし向かひをあはれと思すままに、あまり心深く、見る人も苦しき御ありさまをすこし取り捨てばやと、思ひくらべられたまひける。宵過ぐるほど、すこし寝入りたまへるに、御枕上(まくらがみ)にいとをかしげなる女ゐて、「おのがいとめでたしと見たてまつるをば尋ね思ほさで、かくことなることなき人を()ておはして時めかしたまふこそ、いとめざましくつらけれ」とて、この御かたはらの人をかき起こさむとすと見たまふ。物に襲はるる心地して、おどろきたまへれば、灯も消えにけり。

 解説

怪奇的な現状を紫式部はどのように描いているのであろうか。

内裏(うち)にいかに求めさせたまふらんを、いづこに尋ぬらんと思しやりて、

光源氏の心である。内裏は桐壺の帝である。教訓読み、道徳読みをする「湖月抄」は、父親を思う光源氏の心を高く評価している。夜になり恐ろし気なる雰囲気の廃院で、夕顔と添い寝している光る君は、心の中では今、自分がしている事を冷静に考えていた。今頃宮中では父親の桐壺帝が、私を呼びよせようとして、求めておいでではなかろうか。私の居場所は惟光以外は誰も知らないので、使いの者はどこを探して私を見付けようとしているのだろうかと。
こんな時にも父君の事を思う思慮の心を発揮されるのだった。

かつはあやしの心や、六条あたりにもいかに思ひ乱れたまふらん、恨みられんに苦しうことわりなりと、いとほしき筋は思ひきこえたまふ。

これも光源氏の心で、今度は六条御息所の事を思いやっている。その一方で、それにしても自分でも自分の心が分からないが、ここの所この女・夕顔に夢中になっているので、六条御息所にはとんとご無沙汰が続いている。気位の高いお方だから、恐らくひどく思い詰めて苦しんでおられるに違いない。六条御息所から恨まれるのも苦しいことだが、ある意味では仕方のないことだと思い、いたわしい女性という点では、この六条御息所の事を真っ先に思い浮かべるのであった。

そして光源氏は目の前の夕顔とも最近は疎遠になっている六条御息所とを心の中で比較する。

何心もなきさし向かひをあはれと思すままに、あまり心深く、見る人も苦しき御ありさまをすこし取り捨てばやと、思ひくらべられたまひける。

夕顔は何も考えていないように振る舞っている。光源氏は六条御息所の堅苦しい性格を、夕顔の様に改めて欲しいと思った。「湖月抄」は、光源氏は夕顔にも性格を改めて欲しかったと解釈する。

「湖月抄」の理解は次の様になる。

この女・夕顔は何も考えていないし、悩んでいないような感じで、私にぴったり寄り添い夜を過ごしている。そういう女をいじらしいと思う一方で、余り心がないような性格も良くないので改めて欲しい。また六条御息所は余りにも心が深過ぎて、傍の人も息苦しくなってしまうのでそちらも性格を改めてほしいと、二人の女、夕顔と六条御息所の性格を思い比べては、帯に短し襷に長しと考えるのだった。本居宣長は反対する。光源氏は夕顔については欠点を改めて欲しいなどとは思っていない。六条御息所に対してだけ、性格を改めて欲しいと願っているのである と述べている。

私は「湖月抄」の立場を取る。

さていよいよ物の怪の出現となる。ここで光る君は六条御息所の事を、心の中で考えていた。その時光る君の心と六条御息所の心とが通じ合った。だからこの後で六条御息所の霊魂が廃院に姿を現すことになったと「湖月抄」は言っている。

宵過ぐるほど、すこし寝入りたまへるに、御枕上(まくらがみ)にいとをかしげなる女ゐて、

午後10時を過ぎた頃、光源氏は眠っていた。ふと気づくと自分の枕元に六条御息所だろうか、上流階級とすぐに分る女が座っていた。ここからその女の言葉となる。

「おのがいとめでたしと見たてまつるをば尋ね思ほさで、かくことなることなき人を()ておはして時めかしたまふこそ、いとめざましくつらけれ」

光る君よ、あなたをお恨み申し上げます。私がこれほどまでにあなたを素晴らしい殿方だと思っているのに、少しも私のもとに足を運んで下さらない。それどころか、こんな取るに足りない女をここまで連れ出して、ちやほやされているのは誠に心外で恨めしいことです。「湖月抄」はその時の光源氏の心を次の様に推測している。

光源氏は夢の中でこの女・夕顔がせいぜい三位の貴族の娘であろう。大臣の娘である六条御息所は、かつては亡き東宮の妃でもあった。そういう高貴なお方にかつては熱心に言い寄ったものの、今では足が遠のいたので、この女・夕顔が癪に障るのだろうと考えていた。これに対して本居宣長は、夕顔は確かに三位の貴族の娘であると後に判明するが、ここでは取り立てて優れていない女くらいの意味で呼ぶのが良いと反対意見を述べている。

「湖月抄」本居宣長説、どちらも頭に入れてこの場面を詠むのが良いと思う。謎の女は夕顔に乱暴な振舞いをする。

この御かたはらの人をかき起こさむとすと見たまふ。物に襲はるる心地して、おどろきたまへれば、灯も消えにけり。

するとこれも夢の中で、六条御息所と思われる女が、光る君と共寝している夕顔を無理やりに引き起こして、乱暴しようとする。ここで光る君はハッと目が覚めた。恐ろしい魔物に襲われた恐怖感でぞっとしたのである。周りを見回すと、確かに点けておいたはずの灯が消えている。「源氏物語」ではこのように物の怪が、何度も現われている。

この場面で夕顔を襲ったのは、六条御息所の生霊のようだと光源氏は思った。但し次の場面では、廃屋に住み着いている昔の人の霊魂が祟りをなしたとも読める。その為、この物の怪の正体はいまだに不明である。

さて物の怪に襲われた光源氏は腹心の惟光を呼ぶが、惟光は自分自身の恋愛の為に近くにいなかった。光源氏は不安な中で、必死に夕顔を守ろうとする。

 

朗読③ 夕顔は息絶えている

ただこの枕上に夢に見えつる容貌(かたち)したる女、面影に見えてふと消え失せぬ。昔物語などにかかることは聞け、といとめづらかにむくつけけれど、まづ、この人はいかになりぬるぞと思ほす心騒ぎに、身の上も知られたまはず添ひ寝して、「やや」
とおどろかしたまへど、ただ冷えに冷え入りて、息はとく絶えはてにけり。言はむ方なし。

 解説

「湖月抄」の傍注と頭注に書かれている内容を加味して訳す。

光源氏はこの屋敷を管理している者に命じて、明かりを持ってこさせた。彼が持ってきた光が周りを照らした瞬間、ごく短い時間であるが、先ほど見ていた夢の中で自分の枕上に膝をついて座り、自分を愛してくれない事への不満を口にした女の面影がチラッと見え、すぐに消えた。光る君は昔物語ではこういう魔物が出現するのを聞いたことはある。まさか現実にこのような事がおころうとはと思い、滅多にない不思議な体験を自分がしていることに改めて気付き、嫌悪感を感じた。この昔物語というのは「河海抄」に詳しく書かれているけれども、宇多法皇の故事を指している。宇多天皇は京極御息所と同じ車に乗って、源(とおる)がかつて住んでいた河原院にお渡りになった。その時源融の霊が祟りを為して、京極御息所の息が絶えてしまった。この後、僧が召されて祈祷したので御息所は息を吹き返した。自分の命も危ぶまれる状況ではあるものの、光る君は何よりもこの夕顔はどうなってしまうのだろうかと、胸が痛くなるほどに心配をした。光る君は女の体に寄り添い抱きながら、起きなさいと女の意識を呼び覚まそうとするが、ただ冷えて行く一方でとっくに息は絶えていた。光る君はただ呆然とするばかりであった。

 

「河海抄」は「湖月抄」が参考にした重要な注釈書である。本居宣長はこの場面に関しては特別な意見を述べていない。

但し本居宣長が所有していた「湖月抄」には、宇多天皇の昔話を12世紀初頭の説話集の本文で、

全文を引用して書き込んでいる。屋敷に住み付いた源融の霊魂は、説話集では宇多天皇の腹に抱き着き、「河海抄」では京極御息所の腰に抱き着いたりして祟りを為す。その違いが面白い。

京極御息所は蘇生したが、夕顔を蘇生させる僧侶は現れず、光源氏の目の前で死んでいった。この後、光源氏は惟光と二人で東山まで運び葬儀を済ませる。光源氏は帰宅後病を発し、一時は命も危うかったが、辛うじて助かった。

 

さて光源氏の愛を拒み続けた空蝉だが、彼女は夫 伊予介の任国である伊予国に下ることになる。光源氏は空蝉に餞別に添えて歌を添えて彼女が脱ぎ捨てた小袿(こうちぎ)を返却する

朗読④

伊予介、神無月の朔日ごろに下る。「女房の下らんに」とて、手向け心ことにせさせたまふ。また内々にもわざとしたまひて、こまやかにをかしきさまなる櫛、扇多くして、(ぬさ)などわざとがましくて、かの小袿(こうちぎ)も遣わす。

  逢ふまでの 形見ばかりと 見しほどに ひたすら袖の 朽ちにけるかな

こまやかなることもあれど、うるさければ書かず。御使(みつかい)かえりにけれど、小君して小袿の御返りばかりは聞こえさせたり。

  蝉の羽も たちかへてける 夏衣 かへすを見ても ()はなかれけり

思へどあやしう人に似ぬ心強さにてもふり離れぬるかなと思ひつづけたまふ。

 解説

脱いだ衣服を女に返すと、女は遠くへ去っていくというのは、天の羽衣の伝説と同じである。

「女房の下らんに」とて、手向け心ことにせさせたまふ。

伊予介 の 政界での庇護者である光る君は、この度の下向には妻や侍女たちも同行すると聞いたのでと言って、伊予介に沢山餞別を贈った。

また内々にもわざとしたまひて、こまやかにをかしきさまなる櫛、扇多くして、(ぬさ)などわざとがましくて、かの小袿(こうちぎ)も遣わす。

(ぬさ) は、神様に捧げる供物の事である。伊予介には内緒でこっそり、空蝉へ志のこもった餞別を贈った。櫛や扇などである。扇は歴史的仮名使いでは あうぎ と書くので、再び会うに通じる縁起物として旅のはなむけに愛用される。途中であちこちの道祖神に手向ける為に必要な幣も特別に贈った。

それらの中に光る君が接近した夜に、空蝉がこっそり脱ぎ捨てたあの小袿も混じっていた。それには光る君の歌が添えてあった。

  逢ふまでの 形見ばかりと 見しほどに ひたすら袖の 朽ちにけるかな

古今和歌集に  あふまでの 形見とてこそ  とどめけれ 涙に浮かぶ 藻屑(もくず)なりけり よみびと知らず とある。

私もまたあなたの脱ぎ捨てて行った衣を、次に逢うまでのあなたの形見とし偲んできたが、ついに

二番目の逢う瀬はなかった。私が小袿に注いだ大量の涙で、この小袿の袖はこんなに朽ちてしまいました。

こまやかなることもあれど、うるさければ書かず。

これは草子地つまり語り手のコメントである。解釈が分かれている。まずは「湖月抄」の解釈。この別れに際しては、伊予介と空蝉が旅立つまでには、色々と書くべきことがあるが、光る君の物語の本筋とは関係ないので省略します。
それに対して本居宣長は伊予介たちの旅の詳細を省略したと言っているのではない。光る君から空蝉へ送った手紙の文面に色々と書いてあったのだ、それを全部ここで紹介するのは、省略するという事だと言っている。これは本居宣長の読みの方が深い。

御使(みつかい)かえりにけれど、小君して小袿の御返りばかりは聞こえさせたり。

伊予介に沢山の餞別を届けた光る君の使者が帰った後で、空蝉は光る君の歌への返事を、弟の

小君に届けさせた。

  蝉の羽も たちかへてける 夏衣 かへすを見ても ()はなかれけり 

今は初冬の神無月です。薄い蝉の羽の様な小袿はもはや無用なものになったという事で、あなたは私にお返しになった。あなたにはもう私と逢うお積りはないのだと分かったので涙が溢れてくる。空蝉が心の中では光源氏を愛していたことが、この歌からも伝わってくる。

思へどあやしう人に似ぬ心強さにてもふり離れぬるかなと思ひつづけたまふ。

光源氏の心の中の思いである。光る君は空蝉の返歌をご覧になって思った。考えても考えても不思議な性格の女性だったな。ここまで意思の強い女はなかなかいないだろう。そして私に靡くこともなく、遂に私の願う愛の世界に入ってこずに終わってしまったと思い続けた。

このように「湖月抄」は、ふり離れぬる を光源氏と親密な関係になる事を避けたという意味で理解している。それに対して本居宣長は ふり離れぬる とあるのは、空蝉が光る君に靡かなかったことではなく、都から遠い伊予国へ去ったことだと述べている。この二つは矛盾していない。でもどちらか一つというと、本居宣長を取る。

 

朗読⑤ 続きの場面である。

今日ぞ冬立つ日なりけるもしるく、うちしぐれて空のけしきいとあはれなり。ながめ暮らしたまひて、

  過ぎにしも けふ別るるも 二道(ふたみち)に 行く方知らぬ 秋の暮れかな

なほかく人知れぬことは苦しかりけりと思し知りぬらんかし。

かようのくだくだしきことは、あながちに(かく)ろへ忍びたまひしもいとほしくてみなもらしとどめたるを、など帝の皇子ならんからに、見んひとさへかたほならずものほめがちなると、作り事めきてとりなす人ものしたまひければなん。あまりもの言ひさがなきつ罪()りどころなく。

 解説

夕顔の巻の最終場面である。行間に分け入って光源氏の心を理解しよう。

今日ぞ冬立つ日なりけるもしるく、うちしぐれて空のけしきいとあはれなり。

空蝉が去った日は立冬であった。古典では10月から冬でその風物詩が時雨である。

ながめ暮らしたまひて、

光る君は物思いに耽りながら、ぼんやりと初冬の空を眺めていた。そして歌を口ずさむ。

  過ぎにしも けふ別るるも 二道(ふたみち)に 行く方知らぬ 秋の暮れかな

過ぎにし は、死んでしまった人という意味で夕顔の事である。けふ別るる は、今日、行別れた人で空蝉である。

二道 は、別々の道という事である。暦の上では今日で秋は終わり、冬が始まる日。私の人生でも

夕顔が死んでしまい、空蝉は遠い国へと旅立ってしまうし、去っていく秋の行方が誰にも分からないように、私の精神の行方が何処なのかもわからない。

なほかく人知れぬことは苦しかりけりと思し知りぬらんかし。

ここから草子地・語り部のコメントとなる。帚木の巻の冒頭部分の草子地と響き合う。帚木、空蝉、夕顔という三つの巻は一纏まりで、光源氏の中の品の恋愛を語ってきた。それがここで一区切りついたのである。

さてここまで光る君の秘密の恋愛を語ってきたが、光る君は人には知られないように努めてきた、

空蝉や夕顔との恋は苦しいことだったと、心の底まで思い知られたことであろう。

かようのくだくだしきことは、あながちに(かく)ろへ忍びたまひしもいとほしくてみなもらしとどめたるを、など帝の皇子ならんからに、見んひとさへかたほならずものほめがちなると、作り事めきてとりなす人ものしたまひければなん。

光源氏は秘密にしておきたい恋愛をここまでさらけ出したのは、この物語の読者、聞き手から批判があったからだと言っている。現代語訳する。

こういう厄介な情事については、光る君はご自身は極力内密にしておられることを承知しているので、この物語を書き進めている私もこれまで、話題にすることを控えていた。けれども光る君も良くない事と知っているので、桐壺帝の皇子という高い身分であるから依怙贔屓して、敢えて真実を書かず良い面ばかりをほめあげているのは如何なものだろう と、まるで私の書いている「源氏物語」が真実味に欠ける作り話の様に批判する人もいるようである。その批判に答える為に、私は帚木、空蝉、夕顔という三つの巻を書いてきたのである。そして夕顔の巻で結びとなる。

あまりもの言ひさがなき罪()りどころなく。これも草子地である。

() は、罪から免れる事

今読み返してみると、余りにも赤裸々に描き過ぎた。私が後世の読者からおしゃべりな女だと咎めを受けるであろうことは致し方ありません。

作者は読者を物語世界に引き込もうとしているのである。

 

「コメント」

 

影の主役は六条御息所の登場である。現在の我々でも気味が悪いのに、当時の人々の物の怪への関心の高さと恐怖は想像以上。この巻では光源氏も病気になる程。恋愛と怪奇、流石である。